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小説の先にある世界  作者: 藤咲玲


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第58章:お姫様抱っこの座標計算

「アレンさん! 大変なんです、西の森の奥でまた妙な魔素の揺らぎが――って、ひゃあああ!? ジョ、ジョッキがまた浮いて、いや、消えっ……!?」


 翌朝。ギルドのロビーに駆け込んできたミアが、俺の前のテーブルを指差して目を丸くしていた。


 俺は「あ」と思い、見えない左手で保持していた空のジョッキを慌ててテーブルに置く。屈折率の調律を緩めると、すうっと左手が空間から染み出すように現れた。


「……おはよう、ミア。ちょっと考え事していただけだ。それより、西の森がどうしたって?」


「あ、はい! ギルドの観測魔道具に、一時的ながら凄まじい空間歪みが記録されたんです。もしかしたら高位の転移魔獣が現れた可能性があって……」


 ミアが提示した羊皮紙のデータシートを覗き込む。


 ……あー、これ、昨夜俺が酒場で重力場を強引にねじ曲げた時の熱暴走エネルギーの余波だな。ギルドの魔道具、意外と感度が良くて困る。


「なるほど、それは放っておくと面倒なことになるな(主に俺の異能がバレる的な意味で)。よし、俺が様子を見てこよう」


「あ、私も同行します! 観測器の調整もありますし!」


 こうして俺たちは西の森へと足を踏み入れた。

 だが、森の奥へ進んだところで、事態は物理的な意味で急変する。

 ゴゴゴゴゴ……!


「きゃあ!? じ、地震……!?」


「いや、地滑りだ。上の崖が崩れてやがる」


 上空を見上げると、一抱えもある巨岩と数トンの土砂が、猛烈な勢いでこちらへ自由落下してきていた。

 まともに食らえば肉片も残らない。ミアは恐怖で完全に足がすくんでいる。


 避けるのは簡単だ。俺一人なら一瞬で可視範囲の外まで加速して離脱できる。

 だが、問題はミアをどうやって運ぶかだ。


「前回の『小脇に抱えて全力疾走』の時は、急激な加減速によるGでミアの三半規管を刺激して、危うく俺の服に胃の中のものをぶち撒けられるところだったからな……」


 同じ過ちは繰り返さない。俺は優しい男だからな。

 人間が急激な移動で「吐く」のは、移動速度そのもののせいではない。速度の変化――すなわち『加速度(G)』が三半規管のリンパ液を揺らし、脳に異常を検知させるからだ。


 ならば、アレン・ノア式・超精密お姫様抱っこの出番である。


「ミア、暴れるなよ」

「えっ!? ひゃ、お姫様だっ――」


 俺はミアを横抱きに抱え上げると同時に、極薄の「多層構造魔素バリア」で彼女の全身を包み込んだ。


 これから行うのは、慣性制御。

 俺の身体が超高速で踏み出し、そして急停止する際、ミアの身体が受けるべき『慣性力(F = ma)』のベクトルを、魔素の膜がすべて吸収・相殺するように座標計算を走らせる。


 アレン(慣性系A)は音速手前まで加速するが、ミア(慣性系B)にとっての局所空間は、常に「静止状態(加速度ゼロ)」に維持されるように空間の歪みを調律する。


 アインシュタインの等価原理を逆用し、加速によって生じる見かけの力を、魔素の逆方向へのベクトル圧縮で完全に相殺するのだ。


「システム起動。魔素密度、勾配急峻化――行くぞ」


 ドォン!


 背後で凄まじい土煙が舞う。俺は一歩で数十メートルを跳び、さらに急激な方向転換を繰り返して土砂の雨をすり抜けていく。


 普通の人間なら、脳がシェイクされて即座に気絶するか、凄まじい遠心力で首の骨が折れている。


 しかし、俺の腕の中にいるミアは――。


「え……? あれ……?」


 不思議そうな顔をして、自分の髪がふわりと無重力のように浮いているのを眺めていた。


 彼女の視界では、周囲の景色が恐ろしい速度で後ろに流れていくのに、肌を刺す風もなければ、急発進や急ブレーキの「体が引っ張られる感覚」が、一切、一ミリたりとも存在しないのだ。


「な、なんですかこれ……? まるでお部屋の中で、浮かんでいるみたいで……全然、気持ち悪くないです……!」


(だろう。慣性力の局所相殺だ。)

 ミアが受けるべき加速度は、すべて俺の周囲の空間が熱として肩代わりして逃がしている。


 ズザザザザッ!


 土砂崩れのエリアを完全に離脱し、平坦な地面に着地して停止する。

 俺の周囲の空気は、ショックアブソーバーの役割を果たした魔素の過負荷により、キィィィンと高音の金属音を立てて熱を発していたが、ミア自身は汗一つかいていない。


「……ふぅ、実験成功だな」


「す、すごいですアレンさん! 全然揺れませんでした! まるで魔法の絨毯に乗っているみたいで……!」


 目を輝かせるミアをおろしつつ、俺は視界の端に現れた不穏な文字列を眺めていた。


【身体強化:Lv.3】 ⇄ 【慣性制御:Lv.Error(未認可物理演算)】

【Warning: Spatial coordinate "Mia_Seltz" has violated Newton's laws of motion.】

【警告:慣性質量のシステム書き換えが検出されました。天界監査を要請――】


 やはり、ニュートン力学を真っ向から真似をすると、世界の監視システムが激しくアラートを上げるらしい。


 だが。

【Error: Auditing process was forcefully terminated by character "L_L" (Reason: "No more overtime work").】


「……本当に、神界のエルエル様様だな」


 あいつが過労死する前に、早くこの「空間の慣性や質量を丸ごとポケットに放り込む」ための【空間操作】を形にしてしまおう。


 俺は熱を持った空気を手で払いながら、森の奥へと歩みを進めるのだった。

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