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小説の先にある世界  作者: 藤咲玲


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第57章:見えない手と、消えるジョッキ

 光学迷彩(気配遮断Lv.1)の構築に成功した翌日の夜。俺はいつもの酒場のカウンターで、一人ご満悦でエールを傾けていた。


 現在、俺の左手は手首の先から完全に「消失」している。


 正確にはそこにあるのだが、光が俺の皮膚を迂回して背後に抜けているため、上から見てもテーブルの木目が完璧に透けて見えるだけだ。


「これ、思った以上に便利だな……」


 試しに、見えない左手で木製のジョッキを持ち上げてみる。

 傍から見れば、琥珀色の液体が入った大ぶりなジョッキが、何もない虚空にぷかぷかと浮き上がっているようにしか見えない。


「ひっ……!? お、おい、見ろよあのジョッキ……!」


「浮いてる……!? 幽霊ゴーストか!?」


 背後のテーブル席にいた冒険者たちが、引きつった声を上げた。

 俺は慌ててジョッキをテーブルに戻し、平然とした顔で右手でジョッキを掴み直す。


「……すまない、ちょっと手が滑ってな。いや、気のせいだろ」


「そ、そうか……? いや、完全に浮いてたぞ……」


 怪訝そうな顔で見つめてくる冒険者たちを適当にいなし、俺は再び思考の海に沈む。

 光を曲げる。それはつまり、光の進路という「空間の幾何学的な経路」に干渉したということだ。


 ならば、だ。

 光が曲がるなら、ジョッキそのものが持つ『質量』――すなわち、地球(この世界)の重力場がジョッキを引っ張るベクトルも、同じように空間的に「迂回」させて逃がせないだろうか?


 質量とは、アインシュタインの一般相対性理論によれば「エネルギーによる空間の歪み」そのものである。


 もし俺が、魔素の層を使ってジョッキの周囲の空間の曲率をほんの僅かに相殺し、重力の影響をゼロにする、あるいは別方向へ受け流すことができたなら。


「……重量の局所的無効化。つまり、疑似的な無重力状態の形成か」


 俺はテーブルの下で見えない左手を広げ、浮かせたジョッキに「魔素の膜」を極薄く纏わせる。

 今度は光だけでなく、重力のベクトル(下向きの加速度)を打ち消すように、魔素の密度勾配をジョッキの底面から上面に向けて急激に変化させていく。


 ピキリ、と脳裏で空間が軋む音がした。


 スッと、見えない左手に感じていたジョッキの重み(約一キログラム)が、完全に消失する。


「お……?」

 指先を離す。


 ジョッキは、テーブルの上空わずか十センチメートルの位置で、ピタリと静止した。


 今度は俺の手すら触れていない。文字通り、質量を空間的に「騙して」その場に固定したのだ。


「うわあああ! やっぱり浮いてる! 今度は誰も触ってねえ!!」


「おい! マスター! この店、マジで呪われてんぞ!」


 酒場の中が本格的にパニックに陥り始める。

 だが、当の俺はそれどころではなかった。


 ジョッキを固定した魔素の膜が、周囲の空気を歪め、微かに空間そのものが「熱」を持ち始めていることに気づいたからだ。


「マズいな、重力場の干渉を強引に魔素でねじ伏せているから、エネルギーの逃げ場がなくなって熱力学第二法則が牙を剥きかけてる……」


 このまま放置すれば、熱が暴走してジョッキごとエールが沸騰するか、あるいは空間の歪みが弾けて小さな衝撃波ソニックブームが発生する。

 俺は慌てて見えない手でジョッキを掴み、魔素の循環を強制的に切断した。


 ストン、とジョッキが何事もなかったかのようにテーブルに着地する。


「……ふう。危うく、冷たいエールを台無しにするところだった」


 俺が胸を撫で下ろしたその時、視界の端でシステムログが激しく明滅し、見たこともないエラーメッセージを吐き出し始めた。


【Warning: Character "Allen_Noa" has bypassed gravity vector authorization.】

【空間歪みの未認可パラメーターを検出。デバッグプロセスを強制起動します――】


 だが、そのシステムからの警告は、すぐに「別の不具合」によって上書きされるようにパッと消え失せた。


【Error: Thread "Gravity_Control" was forcefully hidden by Administrator "L_L".】

【システムは正常に処理を継続します】


「ん……? エルエルのやつ、またなんか裏で余計な処理をして誤魔化したな?」


 まあ、あいつが勝手にバグを揉み消してくれるなら、俺としては大いに助かる。

 俺はすっかり透明なままの左手をテーブルに置き、右手でようやく冷たいエールを口に運んだ。


 質量(重力)を曲げられるなら、あとはこの空間の一部を「切り取って」固定するだけだ。


 そうすれば、重さも体積も無視して、美味い肉や酒を好きなだけ持ち運べる「俺専用のゴミアイテムボックス」が完成する。


「よし、次は座標の完全固定だな」


 天界で誰かが血尿を吐きながらシステムエラーと戦っていることなど露知らず、俺は二杯目のエールを注文するために、見えない左手で軽快に指を鳴らすのだった。

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