76話:公爵令嬢たちの協定更新と、無自覚な放課後
バウム男爵領での薬草騒動から数日。
学園の生徒会室には、定例会議の終わりを告げる書類の束が静かに片付けられていた。
日中の慌ただしい業務が一段落し、役員たちが次々と挨拶を交わしながら退出していく中、あえて室内に残った人物が三人。
公爵令嬢ヴィクトリア・フォン・グランヴェル。
同じく公爵家の令嬢であり、可憐な笑みを絶やさないシャルロット・フォン・ローゼンベルク。
そして、自分のデスクで手帳に何やら怪しげな図解と複雑な文章の書き込み(自作小説のプロットと魔法理論のアイディア出し)を集中して走らせているアレンである。
「……ふう。これで今日の予定していた業務はすべて終わりですね」
パタンと手帳を閉じ、ペンを置いたアレンは、肩を軽く回しながら満足げに深く息を吐いた。
「アレン様」
静かで澄んだ声で呼びかけたのはヴィクトリアだった。彼女は洗練された動作で高級磁器の紅茶カップをソーサーに戻すと、氷のように冷ややかで、しかし確かな熱と圧を秘めた瞳をアレンへと向ける。
「この後のご予定は? まさかまた、どこかの遠方へ『個人的な用件』でお出かけになるつもりではございませんでしょうね?」
先日のバウム男爵領への無断(と彼女たちが思っている)電撃訪問の件もあり、ヴィクトリアの警戒心は最高潮に達していた。アレンは至極当然のような、やましいところなど何一つないといった表情で応じる。
「まさか。今日はこのあと図書室の最奥にある資料室で、旧時代の植物生態や珍しい魔導土壌に関する文献をあさるだけですよ。ただの暇つぶしです」
「……左様ですか」
アレンの表情や声のトーンから、言葉に嘘偽りがない(本当に単なるオタク的な趣味と暇つぶしである)ことを即座に看破したヴィクトリアは、胸の内で安堵しつつ小さく息を吐いた。
「では、アレン様。私たちは先に失礼させていただきますわ。……シャルロット」
「ええ、ヴィクトリア様。ご一緒に参りましょう」
二人は事前に示し合わせていたかのように優雅に立ち上がると、アレンに対して隙のない完璧な一礼を残し、静かに生徒会室を後にした。
◇
生徒会室を出て、夕闇が迫り静まり返った重厚な廊下を並んで歩く二人。
すれ違う一般生徒たちがそのあまりの威厳と美しさに思わず息をのむほど完璧な二大公爵令嬢だったが、その背後に漂う空気は目に見えるほどピリピリと張り詰めていた。
「……ヴィクトリア様。どう思われます?」
隣を歩くシャルロットが、可憐で淑やかな笑みを頬に浮かべたまま、声のトーンを落として囁く。
「どう、とは何のことですの? シャルロット」
「すっとぼけないでくださいまし。バウム領でのあの恐ろしい一件のことですわ。アレン様にはまったく他意がなかったとはいえ……あのお方のあの無自覚な規格外さと、どこまでも親切なお人好しさは、我が身を守る観点からも極めて危険です」
シャルロットの切実な言葉に、ヴィクトリアの眉がかすかにピクリと動いた。
「ええ……否定はしませんわ。アレン様がその気になれば、一つの男爵領とその領民を丸ごと一瞬で心服させ、その令嬢との『事実上の極秘縁組』の噂まで瞬く間に立てられてしまう。当のご本人がそれを『ただの珍しい薬草買い付け』と本気で信じ込んでいるのが、最もタチが悪いところですけれど」
二人は静かな中庭にひっそりと佇む東屋へとたどり着くと、手振りと目配せだけで同行していた護衛や従者を遠ざけ、向かい合った。
「ですから、提案ですの」
シャルロットが優雅に扇子を広げ、口元を隠しながら可憐な瞳をすっと細める。
「アレン様のご行動をどこの誰とも知れぬ者に妨げさせるわけにはまいりませんし、何より……私どものあずかり知らぬところで、またどこかの馬の骨にアレン様を『囲い込まれる』ような隙を作るわけにはまいりませんわ」
「……協定の更新、ということですわね」
ヴィクトリアは胸の前で腕を組み、冷徹な思考を高速で巡らせる。今最も必要なのは、アレンという規格外の存在に対する『完全な状況把握』と『迅速すぎるほどの先回り』だ。
「良いでしょう。アレン様が動かれる気配、あるいは学外へのお出ましを察知した際は、直ちに私と貴女の間で情報を完全共有しますわ。どちらかが独断で後を追って出し抜くのではなく、常に互いの動向をオープンにした上で共に動く。……ただしシャルロット、貴女がアレン様と二人きりになるためにこの共有を怠った場合、グランヴェル公爵家の総力を挙げて問いただしますわよ?」
「あら、それはこちらのセリフですわ、ヴィクトリア様? ローゼンベルク家も、アレン様の周囲に張り巡らせる情報網を怠る気は一切ありませんもの」
互いに一歩も引かない鋭い視線が空間で交錯し、バチバチと見えない火花が激しく散る。
「アレンの気まぐれな動向をいち早く察知し、第三者(バウム男爵家のような存在)がつけ込む隙を完璧に潰す」という一点において、普段はライバル関係にある二人は完璧な利害の一致を見ていた。
こうして、王国の頂点に君臨する二大公爵家による『アレン動向察知および完全先回り防衛協定』が、誰にも知られることなく裏で厳重に結び直されたのだった。
◇
一方その頃――。
「ふむ、この旧時代の魔法土壌における魔力伝導率の記述……なかなか興味深いな。自作小説の第4章で主人公が仕掛ける罠のトリックに使えそうだ」
図書室の最も奥まった暗がりに位置する資料室で、アレンはホコリの被った古文書をめくりながら一人満足げに頷いていた。
(よし、今週末は誰にも邪魔されずに、この魔法理論をベースにした新しい便利な魔導具の試作でもしてみるか。完全に一人で没頭できる至福の趣味の時間……うーん、想像しただけで最高だな!)
二大公爵令嬢が自分の動向を絶対に逃すまいと、家門の総力を挙げて恐ろしい情報網を張り巡らせていることなど、アレンは知る由もない。
「まあ、俺みたいな目立たない影の平役員に、誰も余計な干渉なんてしてこないしな。今日も平和で何よりだ」
自分はどこまでも「平穏で目立たない日常」を送っていると深く固く信じ込みながら、アレンは上機嫌でノートに羽ペンを走らせるのだった。




