第56章:黒焦げの魚と、反射のロジック
いつものように脂の匂いと冒険者たちの喧騒が充満する、薄汚れた定食屋の片隅。俺の目の前にある粗末な木目のテーブルには、またしても焼き時間を完全に間違えられて皮が炭のように真っ黒に焦げた、得体の知れない川魚の塩焼きがドサリと無造作に置かれていた。
「わりぃな、また火加減を間違えて焼きすぎちまった。客には出せねえし、捨てるのも勿体ねえから、焦げてる部分を我慢して食うならタダでやるよ」
頭にタオルを巻いた気のいい無骨な店主は、豪快に笑いながらそう言って俺の前に皿を突き出した。
俺は「もらえるものは病気以外なら何でももらう」という現代人特有のさもしい精神を発揮し、ありがたく木製の箸をつけながら、ふと自分の左手へと視線を落として深く見つめていた。
先日のことだ。俺はこの異世界の物理法則と魔法の在り方の裏をかくための、「闇」を生み出す実験をひそかに試みた。俺の頭の中では、それは完璧な理論に基づいて構築されたはずだった。
光というものが、空間を伝わる『山と谷』で構成される波の性質を持っているとするならば、その光の波に対して、山と谷が完全に逆の位相となる波を意図的にぶつけてやればいい。そうすれば、波の性質として互いの力は完全に打ち消し合い、振幅はゼロになる。つまり、光そのものが存在しなくなる。俺はそうやって、自分の手の表面を人為的な完全な「闇」で包み込もうとしたのだ。
だが、その結果はあまりにも惨憺たるものだった。
俺の左手は、今まさに箸で突っついているこの「炭のような黒焦げの魚」のように、いや、それ以上に不自然極まりない『空間にインクをこぼしたようなドス黒い影の塊』となって、明るい周囲の空間から異様なほど浮き上がって見えたのだ。
「……そりゃそうだ。少し考えればわかることだったのに、俺のバカさ加減には、飲んでいるエールも呆れて喉に詰まらせるレベルだな」
俺は冷えかけて炭酸の抜けかけたエールを自嘲気味に一口煽り、脳内の思考を静かに整理する。
なぜ俺の手は真っ黒に見えたのか。答えは極めて簡単で単純な理屈だ。光の波が打ち消し合って反射が「ゼロ」になったということは、その物体は外部からのすべての光を一切反射せず、完全に吸収する『完全黒体』へと変化したということに他ならない。
周囲にはランプの灯りや窓からの太陽光が煌々と満ちているというのに、俺の手の形をした部分だけが不自然に光を100%吸い込んでいるのだ。そんなものが空間にポツンと存在していれば、人間の目には「不自然なほど真っ黒な異物」「世界に空いた底なしの穴」として観測されてしまう。隠れるどころか、逆に異常すぎて目立って当然だ。
俺が本当にやりたいのは、自分の存在を周囲から隠す「存在の隠蔽」であって、ドス黒い手袋をはめて道化師のように目立ちたいわけじゃない。
ならば、どうするべきか?
「光を吸収するから、黒くなって目立つんだ。だったら、そもそも俺の身体に光を『当てなきゃ』いい」
俺は考えながら、テーブルに並べられた水滴のついたコップを指先でツンツンとつつく。
光を自分にぶつけて完全に吸収するのではなく、俺の身体に向かって飛んできた光を、まるで川を流れる水流が巨大な岩石の障害物を避けて滑らかに流れるように、「迂回」させて、俺の身体の背後へと受け流してやればどうなるか?
俺の正面から来た光は、俺の身体の表面の輪郭に沿うようにして綺麗に屈折し、そのまま後ろへと抜けていく。逆に、俺の後ろから来た光も同様のルートを辿って前へと通り抜ける。
そうすれば、俺を正面から見ている観測者の目には、俺の身体を迂回して通り抜けてやってきた「俺の後ろにある景色」だけが、そのまま真っ直ぐに届くことになる。
「光の屈折率の緻密な操作による、空間的な光の迂回。――これだ。これぞまさしく未知の光学迷彩の原理だ」
理論が固まった俺は、さっそく体内の魔素を極細の糸のように繊細に操作し、左手の周囲の空間に、極めて薄く、かつ何千何万もの多層構造を持った「魔素の膜」を形成し始めた。
光が俺の皮膚に直接衝突する前に、空間の密度――いや、光の屈折率をミリ単位よりもさらに細かいグラデーション状に変化させていく。この不可視の魔素の層によって、光の軌道を滑らかなカーブを描くように曲げてやるのだ。
究極の集中。現在の俺の体内には一千兆(1.12e15)という規格外の臨界点に達した魔力があり、暴走を防ぐために一時的に封印をかけている状態だが、そこからごくごく微量の魔素だけを精密な手つきで削り出すように抽出し、左手周囲の空間を物理法則に従って「調律」していく。
じわっ、と左手の輪郭が熱気を帯びたように滲み始めた。
空間の屈折率が狂い、俺の左手の向こう側にある背景――木目のテーブルの柄が、夏の砂漠の蜃気楼のようにグニャグニャと歪んで見える。
「……あ、惜しい。もうちょっとだな……いや、空間の屈折率のグラデーションの変化が急すぎるんだ。これじゃただの分厚いすりガラスだ。もっと滑らかに曲げないと」
より精密に、より滑らかに。前世の高校の物理の授業で習った「スネルの法則」の公式を脳裏に鮮明に思い浮かべ、光の入射角と屈折率が織りなす極限の空間密度の答えを、限界まで研ぎ澄ませた思考で導き出す。
ある瞬間、世界と俺の魔力がカチリと音を立てて、空間の歯車が完全に噛み合ったような不思議な感覚があった。
――ふっと、消えた。
俺の左手が、手首の境目から先にかけて、忽然と完全に消失したのだ。
上から自分の手を見下ろしてみても、俺の視界にあるのはただの「古びた木目のテーブル」だけだ。手首の先には何も存在しない。試しに見えない左手の指をゆっくりと動かしてみるが、テーブルの木目の景色は一切歪むことなく、俺の左手だけが、まるでこの世の最初から存在しなかったかのように、完全に周囲の風景へと完璧に溶け込んでいる。
さらに確証を得るため、見えない手を高く掲げて窓から差し込む太陽の光にかざしてみる。だが、テーブルにも床にも「手の影」すら一切落ちていない。これはつまり、太陽からの光が完璧に俺の左手を迂回して、何一つ遮られることなく床に届いているという何よりの絶対的な証拠だ。
「……できた。ついに完成したぞ。これぞ真の意味での『気配遮断』。いや、魔法というオカルト現象を用いた、物理的な観測のパラドックスの完全なる克服だな」
俺は一人、ほくほくとしたドヤ顔を浮かべながら、炭のように黒焦げになった川魚の身を見えない左手で器用に摘み上げ、そのまま口へと運ぶ。
もし今の俺の姿を傍から他の客が見ていれば、宙に浮いた黒焦げの魚の死骸が、虚空に向かってひとりでに動いてはパクパクと消えていくという、とんでもない怪奇現象かポルターガイストにしか見えないだろうが、そんな他人の目など今の俺にはどうでもいいことだ。
その時だった。俺の視界の端の何もない空間に、いつもの見慣れた半透明の幻の文字が微かに、しかし世界の理を書き換えるように確かに明滅した。




