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小説の先にある世界  作者: 藤咲玲


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第55章:ベアとボアどっちだっけ

いつものように騒がしい空気が漂う冒険者ギルド併設の酒場にて、アレンはいつも通りの定位置のカウンター席に腰を下ろしていた。


「親っさん、とりあえずいつものエールを一杯頼むわ! あと、メニューにあるならステーキを……そうだ、ワイルド・ボアの肉はあるか? あの野性味あふれるぶ厚い肉は、噛むと脂がちょうどいい感じでジューシーに口の中に広がって美味いんだよな~」


そう言って気さくに声をかけると、カウンターの向こうでグラスを拭いていた酒場の親っさんは、困ったような、しかしどこか呆れたような顔をして首を横に振った。


「おや、あんちゃん。あいにくそのワイルド・ボアの肉なんてものは、うちの店じゃすっかり切らしちまったよ。最近の若い冒険者連中は、ベア系の魔物なんかを見かけてもろくに依頼を受けようともしないからな。やっとの思いで討伐したとしても、ギルドに提出するための証明部位だけを切り取って、それ以外の美味い肉がたっぷり詰まった重い胴体部分は、そのまま現地にぽいっと捨てちまうらしいよ。まったく、最近の若い奴らは贅沢でいけねえや」


それは耳を疑うような、あまりにももったいないとんでもない情報だった。そんな上質な食材を野ざらしにするなんて信じられない。勿体ない……いや、でも俺自身がもしその場で解体して持ち帰るとなると……やっぱり、そのまま捨てるか。だって、肉の塊なんてどう転んでもかさ張るし、持ち運ぶだけで面倒くさいからな。


「……ま、愚痴ってても仕方ねえか。そんなに美味い肉が惜しいなら、いっそのこと自分で取りに行くか」


アレンがそう呟くと、親っさんは面白そうに髭を揺らしてニヤリと笑った。


「ほう、あんちゃんが自分で狩ってくるってのか? ならば話は早い。もし本当にワイルド・ボアの新鮮な肉をまるごと一頭分持ってきてくれるなら、その場でちゃんと綺麗に血抜きをして処理してあることが条件だが……うちで高く買い取ってやるし、何よりこの厨房で最高の料理にしてやるよ。頼んだぜ!」


そう言われたらもう行くしかない。俺は今から極上の酒の肴、つまり最高のツマミを自らの手で調達しにゆくための準備を淡々と進める。


町の西側に広がる鬱蒼とした森、そのさらに奥深くへと歩みを進めると、せせらぎの音が心地よい清らかな沢に行き当たる。どうやら、その周辺の一帯がワイルド・ボアたちの日常的な水飲み場であり、よく出没するお気に入りのポイントらしい。周囲の様子を警戒しながら、俺は物陰に身を隠しつつ、そっと腰に下げていた特製の匂い袋の紐を解いた。中に入っているのは、以前調合した、野獣たちの強烈な食欲を本能的に刺激する特殊な香辛料の混ざった匂い袋だ。


風下に身を置き、静かに待つこと数時間。草木をガサガサと揺らしながら、狙い通りに巨体のワイルド・ボアが姿を現した。奴の視線がふと、隠れていたこちらと真っ直ぐに交わる。瞬間、野生の獣特有の警戒心と怒りが爆発したのか、ボアは一瞬で興奮状態に陥り、地響きを立てながら狂ったような勢いでこちらへ一直線に突進して来た。


凄まじい突進の勢いに呑まれることなく、俺はギリギリのタイミングでその巨体の脇をすれ違いざまに飛び退く。その刹那、手元に構えていた鋭い短剣を、奴の急所である首筋の静脈へと正確無比に深く挿し込んだ。


流石に一撃で即死とはいかなかったが、大量の血が失われていくにつれて、ボアはみるみるうちにその巨体を支えきれなくなり、やがて眠るように静かに地面へと倒れ込み、二度と動かなくなった。


ここからの手際が肝心だ。職人技のような正確さで、まずは完璧な血抜きを行う。さらに、巨体を後ろ足から逆さにしっかりと吊るし上げ、思い切って太い大動脈を完全に切断する。内部の汚れた血をすべて絞り出した後で、手際よく腹部を綺麗に切り開き、独特の臭みの原因となる内臓を一気に掻き出し、あらかじめ掘っておいた穴の中へとまとめて捨てた。ちなみに、モツ系部位は個人的に一切喰わない主義だ。……いや、単にあのベタベタした面倒くさい下処理と洗浄作業が心底嫌いなだけなのだが。


血抜きと不要な内臓の処理が終われば、あとは綺麗な食用部位だけを素早く切り分け、衛生的で頑丈な特製の葉にしっかりと包み込む。それをあらかじめ借りてきていた頑丈な大型の収納袋に押し込み、準備完了だ。これにて、俺様のための極上のツマミの出荷準備が整ったというわけだ。



「おっ、おかえり! お待ちどうさん……って、おいおいおいおい、あんちゃん! 本当にこれっぽっちの短時間で、マジであのワイルド・ボアの肉を持ち帰ってきやがったのか!?」


ギルド併設酒場の薄暗い厨房裏、俺がドサリと差し出した大振りの葉包みを開けるやいなや、親っさんは飛びんばかりに目玉を丸くして仰天していた。


包みの縛りを解いて中身を完全に広げると、そこから現れたのは、プロの職人もうっとりするような見事なロースとバラの巨大な塊肉だった。肉の表面には余分なドリップや水分が一切浮いておらず、野性味あふれる強靭な生命力を物語る一方で、触れなくても分かるほど瑞々しく鮮やかな深い赤色を保っている。


親っさんは思わず感嘆の声を漏らしながらその肉に顔を近づけ、鼻をヒクヒクとさせて入念に匂いを嗅いだ。それから、納得したように深く、何度も力強く頷いてみせる。


「……こいつはすげえ、完璧だ。獣特有の嫌な臭みが鼻を突く匂いが一切しねえ。間違いない、仕留めてから一瞬の迷いもなく即座に頸動脈を落としたな? 心臓の自然なポンプ作用を利用して、内部の血が隅々までこれ以上ないほど綺麗に抜けてやがる。それに、内臓を素早く処理したから熱が肉に移った形跡もまったくないし、その後の外気による冷やし込みの加減も完璧だ。そこらの経験豊富なベテラン猟師のじいさんたちでも、ここまで手際よく完璧な処理をやれる奴はそうそういねえぞ、一体どうやって……」


「へへん、どうだ、参ったか。最高の美味いツマミを心置きなく食うためなら、俺のこの華麗な短剣捌きなんて、ギルド長のしょうもない剣技よりもよっぽど冴え渡っているのさ」


「大口を叩きやがって、まあこれだけの腕前を見せられたら文句も言えねえな。だがな、この最高の状態に仕上がったボアの肉なら、どんな料理にしても文句のつけようがねえ極上の品になるぜ。よし、約束通りうちの店自慢の特上のステーキにしてやるよ! この分厚い肉の脂身が持つ最高の美味さを一番引き出せるように、強火で一気に表面をカリッと香ばしく焼き上げて、中は肉汁を閉じ込めた極上のレア気味に仕上げてやるから、そこの席で大人しく待ってな!」


親っさんは機嫌をすっかり良くし、楽しそうに陽気な鼻歌を歌いながら、巨大な鉄板に豪快に火を入れて調理を開始した。


それからわずか数分後、厨房の奥から漂ってきたのは、食欲を暴力的に刺激する香ばしい肉の匂いだった。じゅうじゅうと威勢の良い激しい音を立てながらテーブルへと運ばれてきたのは、厚さがなんと指3本分はゆうに超えている、圧倒的な存在感を放つワイルド・ボアの特製ステーキだった。鉄板の熱で溶け出した上質な脂が、肉の香ばしい表面の上で黄金色の美しい光を放ちながらキラキラと輝いている。


待ちきれずに専用のナイフを入れ、まずは一口分の厚切りを切り分けてそのまま口の中へと運ぶ。


――美味いっ!


歯を入れた瞬間、野性味あふれる力強い肉本来の旨味と、噛むほどに上品な甘みがジュワッと溢れ出すジューシーな脂が、口いっぱいにこれでもかと広がった。それでいて、普通のジビエ料理にありがちな嫌な臭みや血生臭さは驚くほど一切ない。完璧すぎるほどの血抜きと下処理のおかげで、この肉が持つ本来のクオリティが120%以上の最高値で引き出されていた。


その濃厚な余韻を追いかけるように、すかさずキンキンに冷えたエールのジョッキを傾けて喉の奥へと勢いよく流し込む。クゥーッと乾いた胃の腑に染み渡る強烈な苦味が、ボアの濃厚で贅沢な脂を見事にさっぱりと洗い流し、次の一口を今か今かと待ちきれずに急かしてくる。


「はぁ~、親っさん、この焼き加減は最高だよ! 命がけでわざわざ西の森の奥まで足を運んだ甲斐があったってもんだわ!」


「ハハッ、そいつは本当に何よりだ! これほど美味い肉が食いたくなったら、いつでもまたウチのために狩ってきな。あんちゃんが今回みたいに綺麗に処理して持ってきてくれるなら、いくらでも高値で買い取って、ウチの店の自慢の看板メニューにしてやるからよ!」


即席の激しい解体作業で少しだけ張ってきた腕の筋肉の心地よい疲労感を感じながら、俺はこの異世界でののんびりとしたグルメ紀行の物語をさらに盛り上げるために、すかさず二杯目の冷えたエールを追加注文したのだった。

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