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小説の先にある世界  作者: 藤咲玲


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73話:深層からの生還——指輪の奇跡と、噛み合わない誓い 

 本格的な学園生活が始まろうとしていた。


 何しろ我がゼノリス王国魔法学園は、大陸中の猛者たちが集いしのぎを削る大規模なトーナメントの中心地なのだ。全土の注視が集まるこの舞台において、無様な成果を残すわけにはいかない。学園の威信や各家の名誉はもちろんのこと、何より初戦は絶対に勝ちたいところであった。


 座学による初歩の講義と、運動場での基礎実技訓練が一通りの区切りを迎えた段階で、いよいよ生徒たちは次の段階である実戦演習へと入ることになった。


 演習の舞台となる場所は、学園から少し離れた深い森の奥に突如として出現した未攻略ダンジョンである。


 冒険者ギルドによる事前の入念な調査によれば、内部に巣食う魔物の危険度は初級レベルに相当するという。倒した魔物から得られる素材やドロップ品の市場価値が極めて薄いため、利益を第一とするプロの冒険者界隈からはまったく見向きもされず放置されていた。しかし、実戦経験の少ない生徒たちが安全に怪我なく腕を磨く練習用としては、まさにこれ以上ないうってつけの場所になっていたのだ。


 今回の訓練会場として指定されたのは、このダンジョンの第一層と第二層である。


 現地に到着した生徒たちは、4人から5人の小グループへと分けられることになった。


 シャルロットは、ソフィア、リゼット、そしてニーナを引き連れた4人チームで演習にのぞむらしい。日頃から行動を共にしている彼女たちは、互いの息もぴったりで落ち着いた様子を見せている。


 一方で、グランヴェル公爵家の令嬢ヴィクトリアは、フランチェスカやルーカス、そして他の生徒二人を加えた5人のチームで挑むこととなった。


「ふん、このような初級ダンジョンの雑魚どもなど、我がグランヴェル家の敵ではありませんわ!」


 ヴィクトリアは意気揚々と先頭に立ち、ダンジョン内部へと威風堂々と進んでいった。


 第一層を瞬く間に突破し、そのままの勢いで二階層へと突入していく。


 第二層に現れるのは、主にぷよぷよとしたスライムや、カタカタと不気味な音を立てて蠢くボーン(骨)系の魔物ばかりであった。武闘派大貴族として幼少期から徹底的な訓練を積んできた彼女たちにとってみれば、手応えすら感じられない文字通りの楽勝というところだ。


 ヴィクトリアは手に持った剣を優雅に一閃し、迫り来る魔物たちを次々と薙ぎ払いながら、何一つ苦戦することなく迷宮の奥へと深入りしていった。




 順調に魔物を撃破しながら第二層を進み、学園から配布された羊皮紙の地図を取り出して現在地を確認するヴィクトリアたち。


 すると、周囲の壁や構造を注意深く観察していたルーカスがふと足を止め、眉をひそめて声をかけた。


「……ヴィクトリア様、少々お待ちください。おかしいです、この場所には地図とは異なる扉があります」


 ルーカスが指さす先には、ダンジョンの自然な岩肌とは明らかに異なる、重厚で不気味な石造りの扉がひっそりと佇んでいた。


 学園の地図にはそのような構造物は一切記載されていない。一瞬、この謎の扉に入るべきかどうか迷う様子も見せた一行であったが、ヴィクトリアは不敵に胸を張った。


「ただの地図の誤記でしょう。気にせず先へ進みますわよ」


 ヴィクトリアが迷いなくその重厚な扉に手をかけた、まさにその瞬間であった。


 ゴゴゴ……と不気味な地鳴りと共に、周囲の松明の明かりがぼんやりと陰り、真っ赤な光が繰り返し警報のように激しく空間を染め上げ始めた。


「な、なんですの……この赤き光は……!?」


 不吉な警報音が迷宮全体に響き渡る中、突然ヴィクトリアの身体がうすぼんやりと透けはじめ、残像だけをその場に残して影のようにかき消えてしまった。


「ヴィクトリア様!? ヴィクトリア様――っ!?」


 フランチェスカやルーカスら取り巻きは激しく焦り、必死になって周囲の岩影や通路を探すが見つからない。足跡はおろか、気配や魔力の残渣すら綺麗に消え去っていた。


 ただごとではない緊急事態と判断した一行は、大急ぎでダンジョンの入口まで走り戻り、待機していた教員へ事態を報告して即座に救援を要請した。




 教員たちへ出された救援要請の緊急報告は、生徒会役員として待機していたアレンの元にも即座に届いた。


「第二層で生徒が一名、謎の消失か……」


 アレンは迷うことなく単身で迷宮へと足を踏み入れ、すぐさま気配の追跡を開始した。しかし、第一層や第二層といった浅い層のどこを探してみても、ヴィクトリアの微かな気配すら存在しない。


(別の空間か……? いや、そんなはずはないな。迷宮の基本構造から考えて、単なる一生徒を丸ごと別次元へ飛ばすような仕掛けはエネルギーの消費効率が悪すぎる。もっと深くを探すしかないか)


 そう判断したアレンは、自身の魔素を途切れさせることなく細く繋ぎ合わせつつ、広範囲に向けて小さく丸めた魔素の球体を無数に展開・射出した。分厚い岩盤や構造物をすり抜けさせながら、全方位に向けておこなう走査である。


「5……10……20……30……」


 まだ探知範囲には引っかからない。アレンは魔素球を展開する階層をさらに深くへと推し進めていく。


「40……70……90――居た!」


 階層にして九十層に相当する、未踏の超深層。その暗闇の奥底にて、かろうじてかすかに震えるヴィクトリアの気配を捕捉した。



「九十層か……正攻法で階段を降りていては到底間に合わないな」


 アレンは緊急事態とばかりに、普段の学園生活では決して使用しない空間魔法を展開した。


 空気中に指先を鋭く滑らせると、大気がガラスのように軋み、眼前の空間にズバリと亀裂が入る。アレンはその亀裂に手を突っ込むと、次元の隙間を力技で抉り広げ、離れた二つの空間を物理的に直接繋ぎ合わせた。



 一方、見知らぬ場所へと唐突に飛ばされたヴィクトリアは、冷たい床の上に一人ぽつんと立ち尽くしていた。


「ここは……一体どこかしら……?」


 その雰囲気は、先ほどまでいた第二層の浅い層とは明らかに異なっていた。肌にまとわりつくような不気味で重い空気が漂う世界で、周囲に転がるゴツゴツとした巨大な岩の質感も、ダンジョン自体の造りもまったく異なる未知の空間であった。


 どこか遠くの暗闇から、おぞましい魔物の鳴き声がドーム状の天井に反響して響いてくる。


 その地鳴りのような咆哮が聞こえるたび、ヴィクトリアはびくりと肩を大きく震わせ、怯えを隠せない様子で身を縮こまらせた。


 必死で誰かに助けを呼びたい。大声を出して救援を乞いたい。しかし、この見知らぬ恐怖の底で大きな声をあげてしまえば、自身の居場所を周囲の凶悪な魔物たちに知らせ、自らの命を危険にさらすことなど明白であった。


 ヴィクトリアは唇を強く噛み締め、呼吸すら殺しながら、暗く重い空間の影で身を潜めることしかできなかった。



「神様……どうか、どうぞお助けくださいまし……!」


 神に祈るしかない。その切実な思いから、ヴィクトリアは胸の前で両手を固く結び、すがるように祈りをささげた。


 だが、その時――震える彼女の指先で、左手薬指にはめられた『七不思議の指輪』がかすかな光を反射して目に入った。


『人生で最も危機が訪れた時、一度だけ助けを呼べば現れて助けてくれる――』


 先日、生徒会室の隣でアレンから渡された言葉と、あの静かな声が脳裏をよぎる。


 ヴィクトリアは両手を強く握り締め、指輪を胸に抱き抱えるようにして、心の中で悲痛な叫びを上げた。


(お願い……助けて……っ!)



 すると、暗闇の奥から小さな明かりが無数にスススと吸い寄せられるように近づいてきた。


 その明かりは次第に大きくなり、やがて視界を染め上げるほど眩しく明光すると、その光の渦の中から一人の若い男のシルエットがゆらりと現れた。


 直後、頭上の暗闇から巨大な陰影が激しい風切り音と共に襲いかかる。


 しかし、現れた男は微動だにしなかった。


「危ない……!」


 ヴィクトリアは思わず叫んだが、何も起こらない。男は一切の衝撃を受けることもなく、迫り来る脅威を前に余裕をもってその場に佇んでいた。



 襲いかかってきたその魔物は、体長5m、尻尾は蛇のような異形を誇る凶悪な魔物――キメラであった。


 単体で一国をも滅ぼしかねない極めて危険なS級の魔物。こんな恐ろしい存在とこんな場所で出遭ってしまっては、もう助からない。絶望的な現実を前に、ヴィクトリアの思考は完全に白く染まった。


 だが――光の中から現れた男は、恐れの欠片も見せることなく、襲いかかるキメラの巨体を無造作に片手で鷲つかみにすると、そのまま巨大な岩壁へ向かって激しく投げ飛ばした。


 ドガァァァン!!と重い破砕音が空間に轟く。


 間髪入れず、叩きつけられて体勢を崩したキメラの懐へと一瞬で肉薄した男は、つむじ風のごとき鋭いけり上げを一閃。巨体を宙へと浮かせ、そのまま地面へ激しく叩きのめした。


 巨獣が絶命の悲鳴すらあげる余裕もなく沈黙するまで、ほんの数秒の出来事であった。



 静寂が戻った凄惨な空間の中で、男は静かに片手を差し出した。


 ヴィクトリアはおずおずと手を伸ばし、男から差し出されたその手をつかむ。引き上げられた瞬間、男の顔を間近で見上げた彼女の目で、ついにその正体が判明する。


 他でもない、アレンであった。


 アレンは倒れたS級魔獣には目もくれず、いつもと変わらぬ淡々とした調子で告げた。


「出口まで送るよ」


 その言葉に対し、ヴィクトリアは無言であった。


 何かを深く考えているようでもあり、ただただ目の前で起きたあまりにも規格外の出来事に圧倒され、ただ放心しているようでもあった。




 九十層の重苦しい静寂が、二人の間に漂っていた。


 アレンはヴィクトリアの手をゆっくりと離すと、視線を周囲の暗闇へと向けた。周囲にはまだ微かな魔物の気配が点在しているが、先ほどのキメラを一瞬で沈めたアレンの領域に入り込もうとする猛者は、この階層にもいないようだった。


「さて、ここに長居しても意味はないな」


 アレンは指先を軽く一振りし、先ほど強引に切り開いた空間の亀裂を再び大きく押し広げた。次元の隙間の向こう側には、見慣れた第二層の安全な石造りの通路が見えている。


「ここをくぐれば、二層の扉の前に戻れる。歩けるか?」


 問いかけられたヴィクトリアは、ハッと正気に戻ったように肩を揺らした。


「あ……ええ、ええ……大丈夫ですわ……」


 震える声で答えるものの、その足元は微かに覚束ない。アレンは文句も言わず、彼女の歩調に合わせて静かに歩き出し、迷うことなく空間の亀裂を通り抜けた。


 ◇


 第二層の扉の前――。


 先ほどまで真っ赤に明滅していた不吉な警報光は完全に消え去り、静けさが戻っていた。


「ヴィクトリア様ーっ! 教員の方々をお連れしましたわ!!」


「ヴィクトリア! 無事なのか!?」


 通路の奥から、フランチェスカやルーカス、そして青ざめた表情の教員たちが駆けつけてくるのが見えた。取り巻きたちは無傷で立つヴィクトリアの姿を認めるやいなや、安堵の涙を流しながら駆け寄ってきた。


「ヴィクトリア様! ご無事で……本当にご無事でよかった……! 突然姿が消えた時は、どうなってしまうかと……!」


 フランチェスカが縋り付くように声を張り上げる。ルーカスもまた、深く息を吐き出しながら頭を下げた。


「アレン役員……まさか、これほど迅速にお救い出しになるとは。一体どのようにして……」


 教員たちもまた、救出の手早さに目を見開いている。だが、アレンはいつも通りの気怠げな表情で手をひらひらと振った。


「転移の仕組みを少し解析して、落ちた場所から引き戻しただけですよ。大事に至らなくて何よりです。……では、俺は生徒会の仕事に戻りますので」


 深入りされるのを嫌ったアレンは、追及をかわすようにそそくさとその場を後にした。


 ◇


 取り巻きたちに囲まれ、教員たちの護衛のもとでダンジョンの外へと引き返しながらも、ヴィクトリアは終始無言のままであった。


 フランチェスカたちが「何があったのですの?」「どのような場所へ飛ばされたのですか?」と懸命に問いかけてくるが、彼女の耳にはそれらの声が遠い雑音のようにしか届かない。


 彼女の視線は、ただじっと、自身の左手薬指に嵌められた指輪だけに注がれていた。


(学園の七不思議……大切な人を守るために存在する、地縛霊の噂……)


 脳裏に蘇るのは、漆黒の暗闇の中で見た光景だ。


 国を一つ滅ぼしかねないS級魔獣キメラ。その巨体を、アレンはまるで羽虫でも払うかのように片手で掴み、一瞬で叩き伏せた。学園の実技演習で見せた『ピストル火球』どころではない、圧倒的で、人知を超えた真の武の領域。


 そして――自分が心から「助けて」と指輪に祈ったその瞬間に、彼は空間そのものを切り裂いて現れたのだ。


(あのお方は……ただの生徒会役員などではない……。私にとっての……私だけの……)


 ヴィクトリアの胸の奥で、かつてないほど激しい感情の濁流が渦巻いていた。


 かつてアレンに覚えた「底知れぬ恐怖」は、いまや「絶対的な庇護」への畏怖と、激しい熱情へと完全に塗り替えられていた。


「ヴィクトリア様……? 体調がお悪いのですか……?」


 心配そうに顔を覗き込んでくるルーカスに対し、ヴィクトリアはふっと小さく、だがどこか妖艶な笑みを浮かべて首を振った。


「いいえ……とても気分が良いですわ、ルーカス。……私、ようやく悟りましたの」


「悟った、とは……?」


「この指輪が結んだ絆は、決して解けることはないのだと。……グランヴェル公爵家の誇りにかけて、私はあのお方の隣に立つにふさわしい存在になって見せますわ」


 そう呟くヴィクトリアの瞳には、かつての高慢な公爵令嬢のそれとは異なる、揺るぎない確信と執着の光が宿っていた。


 一方、生徒会室へ戻り「ふぅ、これで今日の予期せぬ仕事は終わりだな」と呑気に自作小説の執筆を再開していたアレンは、背筋に走った謎の悪寒に、首をかしげるのだった。



 ヴィクトリアは、ふと自身の左手に視線を落とした。


 その瞬間――チリ……と小さな乾いた音が響く。


 見れば、左手薬指にはめられていた『七不思議の指輪』の表面に、細い亀裂が一本入っていた。


「え……?」


 息をのむヴィクトリアの目の前で、ヒビは瞬く間に蜘蛛の巣状に広がり、やがて指輪は輝きを失うと、サラサラと微かな音を立てて脆く崩れ落ちていった。指の上に残ったのは、風に舞って消える一片の灰のような余韻だけだった。


(あ…………)


 その光景を目にした瞬間、ヴィクトリアの脳裏に、あの時アレンが語った言葉が鮮明によみがえった。


『たった一度だけ、人生で最も危機が訪れた時に助けを呼べば現れ助けてくれる。一度だけだ。その存在はその後一切姿を見せることはなくなるという。おそらく満足し成仏したのだろう』


「一度きりで……消える……」


 指輪が崩れ散った指先を見つめたまま、ヴィクトリアは言葉を失った。


 自分を救うために、その力を、その存在を使い果たしてしまったのではないか。あのお方はもう二度と姿を見せてくれないのではないか――そんな衝撃と悲痛な思いが、彼女の胸を激しく締め付けた。


「嫌……そんなの……嫌ですわ……!」


 崩れ落ちた指輪の残骸をすくうように、ヴィクトリアは震える手で左手を強く胸元に抱きしめた。


 一度きりの奇跡で救われた命。だが、彼女の中でアレンという存在は、もはや単なる伝説や救世主を超えた、生涯をかけて追いかけるべき絶対の存在となっていた。


(成仏なんて……消えてしまうなんて、絶対にさせませんわ……! 私が……今度は私が、あのお方をこの繋ぎ止めてみせます……!)


 去りゆく影に泣き濡れるのではなく、決して引き下がらぬ不屈の執念を燃やすヴィクトリア。その瞳には、崩れ落ちた指輪の代わりに、固く揺るぎない誓いの炎が宿っていた。



 翌朝、アレンは何事もなかったかのように、いつもの穏やかな足取りで学園へと足を延ばしていた。


 向かう先は生徒会室、そしてその隣に新設されたばかりのオカルト研究会の部室だ。


 昨日の事件の余波もどこへやら、アレンの頭の中にあったのは「あの迷宮の最深部に存在していた謎の構造」と「七不思議の裏に隠された奇妙な伝承」についてであった。気になる情報を求め、アレンは隣の部室に置かれた古びた書物をひっくり返し、静かに頁をめくっていた。


 そこへ、部室の扉が静かに開く。


 姿を現したのは、ヴィクトリアであった。


 昨日のような取り巻きの姿はなく、ただ一人でやってきた彼女の立ち姿には、どこか普段の高慢さとは異なる不思議な静けさと、揺るぎない決意のようなものが漂っていた。


「……アレン役員」


 静かに名を呼ぶヴィクトリア。アレンは書物から視線を上げると、至極当然といった風に言葉を返した。


「ヴィクトリアか。身体の具合はどうだ? 昨日は散々な目に遭ったようだが」


「ええ……おかげさまで、傷ひとつありませんわ」


 ヴィクトリアはゆっくりとアレンへと近づくと、自身の左手をそっと差し出してみせた。そこにあるはずだった『七不思議の指輪』は、跡形もなく消え去っている。


「……指輪が、崩れ落ちましたの。貴方からいただいた、あの指輪が……」


 アレンは指先を一瞬見つめ、「ああ、あれか」と特に気にした様子もなく頷いた。


「ただの古い試作品だったからな。強い負荷がかかれば壊れるさ」


 アレンとしては「魔素の消耗を抑える程度の駄作道具が壊れただけ」という事実を伝えたつもりだった。


 しかし、その言葉を聞いたヴィクトリアの瞳の奥で、さらに熱い炎が燃え上がる。


(やはり……! 私を助けるために、あの指輪は全魔力を使い果たして崩壊したのですわ……! そしてあのお方は、自分の功績を一切誇ることなく、こうして何事もなかったかのように平然と装っていらっしゃる……!)


 ヴィクトリアは差し出した手をそっと胸元へと戻し、深く息を吐き出すと、アレンの目を真っ直ぐに見つめた。


「『一度きり』……でしたわね」


「ん? 何がだ?」


「教えられた七不思議の最後の一文ですわ。……大切な者を一度だけ救い、その存在は姿を消す……成仏するのだと」


 アレンは(そういえばそんな適当な怪談を作って話したな)と思い出しつつ、適当に「まあ、噂ではな」と返した。


 だが、ヴィクトリアは小さく首を横に振った。その表情には、かつての高慢な公爵令嬢の面影を残しつつも、決して退かない不屈の執念が宿っていた。


「消させはいたしませんわ。……一度助けられたからといって、満足して消え去るなんて、絶対に許しません」


「……???」


 アレンが首をかしげる中、ヴィクトリアは一歩足を踏みだし、アレンとの距離を詰めた。


「貴方が私を救ってくださったのなら、今度は私が、貴方をこの世に繋ぎ止めますわ。グランヴェル家の名に誓って……二度と姿を消させたりなどいたしません!」


「いや、俺は別にどこにも消えないが……」


 アレンの呆れたような呟きも、今のヴィクトリアの耳には「己の存在を消えるのを堪え現世に留まり続ける守護霊(自分が気持ちを持ち続ける限り消えはしない)」の奥ゆかしい姿勢にしか聞こえていなかった。


 適当についた嘘と、アイテムボックスの肥やしを処分しただけのアレン。

 そして、命を救われた奇跡と指輪の崩落によって、生涯をかけた「執着と誓い」を胸に刻んでしまったヴィクトリア。


 噛み合わないまま熱を帯びていく二人のやり取りの横で、部室の棚から一冊の古書が静かに音を立てて落ちるのだった。




 ヴィクトリアが声をかけようとしたその時、廊下からパタパタと軽やかな足音が近づいてきた。


「あら、お二人ともおそろいで」


 生徒会室から顔を出したのは、シャルロットであった。彼女は昨日の騒動を思い返しながら、優雅に微笑んでヴィクトリアへと歩み寄る。


「ヴィクトリア様、昨日は本当に大変でしたわね。無事で何よりでしたわ」


「ええ……シャルロット様。ご心配をおかけしましたわね」


 労いの言葉をかけるシャルロットだったが、その視線はすっとヴィクトリアの左手――とりわけ、昨日あれほど見せびらかされていた薬指へと移っていった。


 そこにあったはずの指輪は、綺麗さっぱり消え去っている。


 それを見た瞬間、シャルロットはいつもの優雅なお嬢様らしからぬ、どこか意地悪いニヤリとした笑みを浮かべた。そして高らかに宣言するように言い放った。


「あらら? 指・輪・が、ございませんわね? ふふふ」


 煽るようなシャルロットの視線と含み笑い。昨日、左手の薬指をこれよがしに見せつけられた仕返しと言わんばかりの態度であった。


 しかし、煽られた当のヴィクトリアは、取り乱すどころか不敵な笑みを返し、静かに胸を張った。


「ええ、崩れ落ちましたわ。……私を救うために、あの指輪は全ての役割を果たし切ってくださったのですもの」


「は……? 崩れ……?」


 思いがけない返答にシャルロットが毒気を抜かれて目を丸くする中、ヴィクトリアはアレンの方へと視線を向け、その瞳に熱い執念の炎を宿させた。


「一度きりの奇跡で満足して消え去るなど、絶対に許しませんわ。今度は私が、このグランヴェル公爵家の名にかけて、あのお方をこの世に繋ぎ止めてみせます……!」


「……??? ちょっとヴィクトリア様、一体何のお話をなさっていますの……!?」


 指輪が消えたことを突いて優位に立とうとしたシャルロットだったが、あまりに次元の異なる熱量で語り出すヴィクトリアに、完全に圧倒されてタジタジになってしまう。


 その横で、アレンは(いや、ただの壊れた試作品なんだがな……)と心の中で思いつつ、関わり合いになるのを避けるように静かに書物のページをめくるのだった。


 ◇


 シャルロットとヴィクトリアの異次元な会話が繰り広げられる部室の入り口で、ギャラリーと化していた面々は完全に固まっていた。


 シャルロット班のニーナは小動物のようにソフィアの影へ隠れ、リゼットは「本物のヤバい人の目だ……」と冷や汗を流してじりじりと後ずさる。参謀役のソフィアすら、メガネの位置を直す手のままフリーズし、助けに入るのを諦めていた。


 一方、ヴィクトリア班も地獄絵図だった。

 フランチェスカは我が主が呪いでも受けたかと顔面を蒼白にし、ルーカスは「終わった……もう元には戻られない……」と絶望に打ちひしがれている。


 常軌を逸した熱量を放つヴィクトリアと、それに呑まれかけるシャルロット。入り口で広がる静かな地獄絵図。

 そんな惨状の中、当のアレンだけが「なんだか入り口が騒がしいな」と人ごとのように古書へ視線を落としているのだった。

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