第50章:神話級の日常
その日の工房は、いつもと変わらない賑やかな朝を迎えるはずだった。鍛えられた鋼を打つ重い響きと、職人たちの威勢のいい声が外まで漏れ聞こえるはずの場所は、しかし、どこか異様な緊張感に包まれていた。
工房の主である親父の様子が、朝から明らかに違っていた。彼の太く節が浮き出た手には、あの日の少年――アレンが置いていった一本の「銀灰色の短剣」が、まるで宝物のように大切に握りしめられていた。
そこへ、この街の冒険者ギルドでも誰もが一目置く、腕利きのSクラス冒険者・ガルドが姿を現した。彼の今日の狙いは、硬い魔獣の分厚い皮を完璧に剥ぎ取るための、最高級の切れ味を持つ短剣の新調だった。
「親父、いい仕事しねえとな。次の任務は厄介なんだ。……ん? なんだその手にある見慣れねえ短剣は」
ガルドの鋭い視線が、親父の持つ手元に吸い寄せられた。特別に美しい鏡面仕上げが施されているわけでもなく、かといって粗悪な鉄の塊というわけでもない。ただ、周囲の光を嫌うように鈍く、深く光る銀灰色の肌。
「ああ、これか? いや、驚くなよ。これは売り物じゃねえ。……とある風変わりな客が置いていった、胡散臭い代物さ。なんでも、手入れは一切不要、決して錆びず、どんなに叩いても刃こぼれすらもしねえだとよ」
「……錆びねえ、だと? 刃こぼれもしねえだと?」
ガルドは鼻で激しく笑った。長年、数え切れないほどの魔獣と渡り合い、幾多の鋼を知り尽くした彼にとって、そんなものは「夢物語」か、あるいは悪質な「詐欺」の言葉にしか聞こえなかった。
「ふざけたことを言うな。貸してみな。……ふん、ただの小ぶりな鈍器じゃねえか。これで『手入れいらず』だと?」
ガルドは信用しきれないといった様子で鼻を鳴らし、カウンターの端に転がっていた、廃棄予定の極厚の鉄板を力任せに掴むと、ためらうことなくその短剣を全力で叩きつけた。
ガィンッ!! と、工房の壁を揺らすような耳をつんざく金属音が響き渡る。
——だが、その直後、親父は息を完全に呑み込んだ。
短剣の刃先は、硬い鉄板をまるで柔らかいバターのように抵抗なくズブリと突き抜けていた。さらに恐ろしいことに、刃の表面には傷一つついていない。それどころか、刃先は叩きつけた直後と変わらず、吸い込まれるような冷徹な光沢をまるで失っていなかった。
「……は、嘘だろ……?」
ガルドの顔から、先ほどまでの余裕の色が完全に消え去った。彼は青ざめた顔で震える手によりしっかりと短剣を握り直し、今度は加減なしで、あえて工房の頑丈なアンビル(金床)の角へと、その刃を真っ向から全力で打ち付けた。
カィンッ!!!
金属が悲鳴を上げるような、澄んだ高い音が工房に響き渡る。アンビルには、なんと深々と抉れたような痛々しい傷跡が刻み込まれていた。
だが、短剣の刃は、欠けるどころか、まるで「何事もなかったかのように」冷たく、静かに輝きを放っている。
「親父……これ、一体どういう細工だ? 魔力がこもっている気配は微塵もねえ。純粋な物理の……いや、鋼の塊が、ただ異常に硬く、密度が狂っているだけだ。こんな代物を作りやがったのは、いったい誰だ!?」
「あ、アレンという……名前の、まだ若いガキだ。ただの客だよ……」
「ただの客だと!? 冗談じゃねえぞ!」
ガルドの全身の震えが止まらなかった。これはただの武器ではない。国宝級の代物、いや、もしかしたら神話級の遺産と言っても過言ではない代物だ。
この短剣さえあれば、どんなに硬い外殻や鱗を持つドラゴン相手だろうと、日々の面倒なメンテナンスなしで数千回、数万回と狂うことなく切り裂き続けることができる。
この日の昼下がり、鍛冶屋から飛び出したガルドの興奮と動揺は、瞬く間にギルド全体の噂として駆け巡った。
「あのさびれた鍛冶屋に、錆びもせず、刃こぼれも絶対にせぬ『伝説の聖剣』ならぬ短剣があるらしいぞ!」
翌朝、その噂を聞きつけた鍛冶屋の前には、この信じられない「神話」の真実を一目見ようと、街中の冒険者だけでなく、遠方からやってきた貴族たちまでがごった返し、大騒ぎになっていた。
そんな喧騒の中心から遠く離れた場所で、当事者であるアレンは、近くの酒場の隅でのんびりとエールを飲みながら、面倒くさそうに小さくため息をついてぼやいた。
「……言ったはずなんだけどな。単なる酸化アルミニウムの微粒子による組織の徹底的な強化だって。みんな、少し騒ぎすぎだ。俺はただ、武器の手入れという無駄な時間が面倒だっただけなのに……」




