第42章:嘆きの沼のバグ掃除
『嘆きの沼』。その忌まわしい名に違わず、足を踏み入れた途端に鼻腔を容赦なく突く強烈な腐敗臭と、一寸先すら見通せないねっとりとした濃い霧が視界を完全に奪い去る、冒険者たちから恐れられる最悪の魔境である。
アレンは懐から無造作に取り出した、昨日の残りの石のように硬い黒パンをガリガリと齧りながら、周囲の陰惨な景色を暢気に観察していた。手元にある依頼票に記されているのは『Aランク』の文字。本来であれば、歴戦の冒険者たちで構成された大規模な軍隊レベルの戦力を投入して、ようやく生還の目処が立つような超危険地帯である。だが、アレンの心には不思議なほど「怖い」という感情や焦りが微塵も湧いてこなかった。
「……それにしても、随分と静かすぎるな」
拍子抜けしたようにポツリと呟く。それもそのはずだった。無理やり付与された規格外の『隠蔽スキル』のおかげか、あるいは暴走状態にある魔力8192という圧倒的な力の威圧感が、彼を「獲物」としての枠組みから完全に逸脱させているのか。アレンが泥濘を踏みしめて一歩歩くたび、泥の底や霧の奥から彼を喰らおうと這い出してきたいかにも凶悪な低級・中級モンスターたちは、アレンの足元から数メートルの範囲に近づいた瞬間に、まるで朝露が陽の光で蒸発するように音もなく霧散して消滅していくのだ。
彼らは決して、アレンの強大な魔力を感知して逃げ出したわけではない。あまりにも異次元すぎる魔力密度を持った「この世界に存在してはいけない化け物」を、世界の物理的な摂理そのものが本能的に検知し、空間の矛盾を解消するために強制的に消去してしまっているのである。
「あれ? もしかして……ここ、魔物なんて一匹もいないんじゃないか? ギルドの連中、大げさに言い過ぎだろ」
アレンは完全に気付いていない。自分がただ歩いて息をしているその道筋自体が、そのまま「モンスターたちにとっての理不尽な絶望と死の通り道」になっているということに。
――時を少し遡る。神界・世界管理室。
女神エルエルは、巨大なホログラムモニターに映し出される下界のアレンの姿を見下ろしながら、極上の年代物ワインが注がれたクリスタルグラスをクルクルと指先で回し、口元にひどく歪んだいやらしい笑みを浮かべていた。
その目は完全に充血して血走り、神聖さの欠片もない狂気を孕んだ眼つきでこう言い放つ。
「さあさあ、前代未聞の極秘実験の開始よ。私がコッソリ使ったこの神界の絶対的な管理権限が、どこまであのあり得ないステータスの異常を隠し通せるかしらねぇ。『奇跡の昇進か、それとも地獄の減俸か』……私の今後の査定を懸けたこの大勝負、あいつがどうやって攻略するのか見ものね!」
それはあまりにも他力本願で、かつ自分の保身と欲望しか考えていない、女神にあるまじきクズ極まりない発言だった。
「エ、エルエル先輩! さすがにそれはやりすぎですってば! Aランクの凶悪な魔獣がうじゃうじゃと巣食う『嘆きの沼』に、昨日までDランクだった彼をいきなり放り込むなんて……!」
隣で頭を抱える後輩女神ルカの悲鳴のような抗議を完全に無視し、エルエルは優雅に、しかし酔っ払った乱暴な手つきで空中の空間に向かって指先をピンと弾いた。
――その瞬間、下界のギルドにいたアレンの目の前で、受付嬢から渡されようとしていた依頼票がパッと不可思議な光を放ち、勝手にインクの文字が書き換わっていったのだ。
文字がまるで意思を持つ生き物のように禍々しく踊り出し、依頼の危険度ランクが『D』から『A』へと、有無を言わさず強制的に塗り替えられていく。
「……朝からとことん運が悪いな、俺。ギルドの道具も壊れてるのか? まあいい、ただの採取依頼だし、死にはしないだろ」
アレンは目の前で勝手に内容が変わった依頼票をジッと見つめ、乾いた苦笑いを浮かべながらそれをひょいと受け取った。
彼がこの時知る由もない。この依頼が、本来なら百人規模の重武装した精鋭部隊でも生還が危ぶまれる、地獄の魔境への片道切符だということを。
そして、その背後――遥か頭上の天界で、二人の女神が、一人は絶望に顔を覆って泣き崩れ、もう一人は腹を抱えて下劣に笑い転げているというふざけた事実も。
アレンは「仕方ない」と軽く肩をすくめ、朝食代わりに酒場のカウンターから持ってきたカチカチの硬いパンを無造作に懐に放り込むと、ギルドの重い木製の扉を勢いよく押し開いた。
朝日に向かって歩き出すその背中越しに、彼の衣服の下、腹部に直接刻み込まれた危険な魔法陣が、心臓の鼓動に合わせるようにドクン、ドクンと熱く脈動している。
「……最高位の隠蔽スキルがあるなら、魔力漏れによる自爆の心配もないか。よし、ちゃっちゃと行ってくるか。この街の周囲の厄介なゴミ掃除にでもよ」
彼が颯爽と街を出て行った後。
西門付近の、まだ誰もいない薄暗い酒場の床には、昨日彼が酔った勢いで盛大にぶちまけた汚物の痕跡の中に、誰の目にも見えない鮮烈な『六芒星』の幾何学模様が浮かび上がり、周囲の空気を微かに歪めるほど不気味で淡い光を、いつまでも静かに放ち続けていた。




