第43章:最適化の果て
喧噪に包まれた冒険者ギルド。脂と安酒の匂いが染み付いた依頼掲示板の前で、俺は幾重にも重ねられた紙の束を眺めていた。その隅に、長期間誰にも見向きされず、端が黄ばみ始めている一枚の羊皮紙がある。
周囲の冒険者たちが「あんな泥まみれの死地に誰が行くか」「割に合わねえ」と忌避する中、俺は無造作に手を伸ばし、その『沼竜の討伐』の依頼票を引き抜いた。
「これ、受ける」
「えっ? アレンさん、それはAランク相当の……」という受付嬢の制止の言葉を背中で聞き流し、俺はさっさと街の門を抜けた。
足を踏み入れるだけで強烈な腐敗臭が鼻を突く湿地帯、『嘆きの沼』。
泥濘に足を取られそうになりながら進むと、突如として前方の水面が爆発したように割れ、巨大な沼竜が躍り出た。
「ギシャアアアアッ!」
空気を震わせる咆哮と共に、丸太のような太さの首がしなり、岩すら砕く鋭い牙が俺の身体を両断しようと空を裂く。だが、焦りはない。俺は最小限の滑るような踏み込みでその暴威を回避し、巨体の側面へと滑り込むように潜り込んだ。
竜が苛立ち紛れに吐き出した、触れれば皮膚がドロドロに爛れる毒の霧と、高圧の水流ブレス。それらを、即座に展開した風の盾が危なげなく弾き飛ばし、周囲の泥水に激しい波紋を広げる。
「……出力補正。無駄な破壊は避ける」
俺の右手の指先に、極限まで圧縮された魔力が一点へと収束していく。
刹那――指先の前に鋼鉄よりも硬く高密度に生成された小さな土塊が形成されたと同時に、その後方の空間で、火と水の複合魔法を意図的に衝突させ、小規模だが極めて強力な水蒸気爆発を発生させた。
銃身のない大砲。その爆発的な膨張圧力を推力に変換し、土塊を真っ直ぐに撃ち出す。
――ドパンッ!
空気が悲鳴を上げて裂ける破裂音が、少し遅れて湿地に木霊する。
音速を遥かに超えた土塊の弾丸は、強靭なはずの沼竜の分厚い鱗を濡れた紙のように容易く引き裂き、眉間を正確に貫いて頭蓋の奥でその脳髄を完全に粉砕した。
断末魔すら上げる暇もなく、生命活動を強制終了させられた巨体が、地響きとともに重い泥の中へ沈んでいく。
「よし、素材の回収だ」
俺は即座に泥だらけの巨体に取り付き、手際よく短剣を振るって価値の高い竜の眼球と、魔力を帯びた傷一つない美しい鱗を切り出していく。だが、腰に下げている安物の魔力袋の残容量はすでに限界に近かった。
もし、この巨大な竜の全素材――大量の肉や太い骨まで無理に詰め込もうとすれば、袋の重量軽減効果が許容量を超え、帰路の移動速度が致命的に低下してしまう。
空を見上げれば、すでに太陽は地平線に沈みかけており、沼地は急速に夜の闇に飲み込まれようとしていた。さらに、周囲からは沼竜の濃い血の匂いを嗅ぎつけた別の捕食者たちが、暗がりの中で涎を垂らしながら集まり始めている気配がある。
(……素材の総額と、夜間の沼地で未知の群れに遭遇するリスクの相関関係。ここで欲を張って荷物を重くすれば、街に戻るまでに無駄な消耗が重なり、最悪の場合は命に関わる。生き残っても、翌日の行動に支障が出るほどの疲労が残るだろうな)
決断は早かった。俺は迷いなく、市場に出せばそれなりの金になる肉や骨を、惜しげもなく泥の中へと蹴り捨てた。
「……これだけ軽いなら、速度を一切落とさずに帰れる」
俺は血の匂いが充満する泥を強く蹴り、影が色濃くなる不気味な湿地帯を風のように駆け抜けた。
街の温かい魔力灯の灯りが視界に入ったのは、月が中天に昇る頃だった。泥まみれで疲労した足を引きずりながら、深夜でも開いているギルドの重い扉を押し開く。
閑散とし始めたギルドのカウンターに、血生臭い素材の包みを無造作にドサリと積み上げた。
「沼竜の討伐完了だ。肉は捨ててきたが……持ち帰った素材の質は保証するよ」
夜間担当の受付職員は、積み上げられたその素材の山を見て、信じられないものを見るように目を見開いた。
「まさか……。この沼竜の鱗、ただの一つも傷がついていないし砕けてもいない? いえ、それよりも、あなたが依頼を受注してから、討伐して戻ってくるまでまだ二時間も経っていないはずですが……一体どうやって?」
「急所を一撃で手早く終わらせただけだ。それより、素材の査定と支払いを頼む。こっちは早く休みたいんだ」
職員は慌てて専門のルーペを取り出し、震える手で鑑定を開始する。
「……ま、間違いない、完璧な状態です。討伐部位の欠損もありません。約束通り、討伐報酬と素材の買い取りで、金貨二枚をお支払いします」
チャリン、と重みのある金貨がカウンターに置かれる。俺はそれを丁寧に魔力袋の奥底へ収めると、小さく頷いて礼を告げた。
「助かった。明日の分も、また何か割のいい依頼を探しておくよ」
稼いだ金貨の使い道――傷んだ防具の修繕費と、次の探索に向けた消耗品の補充費用の計算を頭の中で素早く済ませながら、俺は泥にまみれてすっかり冷え切った体を休めるため、足早に定宿へと向かって夜の街を歩き出した。




