第41章:管理者の悪戯と、新入りへの特別待遇
翌朝。西門付近の薄汚れた酒場の冷たくて硬い木の床で、俺は全身の関節が軋むような激しい痛みに耐えながら、ゆっくりと重い瞼を押し上げた。
「……っ、頭が痛ぇ……」
口の中にべったりと残る、酸っぱく劣化した安物のエールと、ゴムのように硬かったオーク肉の最悪な後味が、昨晩の悪夢のような夕食をはっきりとフラッシュバックさせる。酔いと極度の疲労のせいか、昨晩の記憶はひどく曖昧で、断片的にしか思い出せない。
だが、下腹部――丹田のあたりだけが、まるで小さな太陽の欠片でも飲み込んだかのように妙に熱く、脈打つような存在感を放っていたことだけは、確かな感覚として残っていた。
俺は軋む身体を起こし、周囲に誰もいないことを確認してから、おそるおそる声に出さずに念じた。
「……ステータス」
目の前の虚空に、半透明の光のウィンドウが静かに浮かび上がる。
【空間操作】Lv.0(未開放)
【時間減速】Lv.0(未開放)
【身体強化】Lv.2
――基礎ステータス――
体力:100
力:350
敏捷性:250
持久力:350
精神力:443
適性魔法:風魔法、地魔法、水魔法
魔力:8192 ↑(急激に上昇中・隠蔽中)
「……は?」
俺は思わず目をこすった。魔力の数値が明らかにおかしい。昨日まで二桁のどん底を這いずり回っていたはずの数字が、凄まじい勢いで膨れ上がっている。しかも、その異常な数値の横には、見慣れない『隠蔽中』という文字が燦然と輝いていた。
「隠蔽スキル……そういえば、気を失う直前に、頭の中にどこかの女神(?)らしき甲高い声が響いて、泣き落としみたいに無理やり特大のスキルを押し付けられたような記憶が……アレのことか」
ともかく、この暴走気味の膨大な魔力が周囲に漏れ出していないのなら、不幸中の幸いと言えるだろう。
痛む頭を抱えながら冒険者ギルドへ足を運ぶと、カウンターにいた馴染みの受付嬢が、俺の顔を見るなりギョッと目を丸くした。
「あら、アレンさん。昨日は大丈夫でしたか? ひどく酔い潰れていたみたいですけど……。いえ、それより私、すごく驚いているんです。あなた宛てに、今朝一番で『Aランク指定の採取依頼』が舞い込んでいるんですけど」
「は? Aランク? ちょっと待ってくれ、俺のランクは底辺のDだぞ? 何かの間違いだろ」
「私も不思議で仕方ないんです。でも、ギルドの依頼を振り分ける魔道具が、自動的に『対象:アレン・ノア』と強固に指定してきていて……」
受付嬢は困惑した表情で、首を傾げる。
「長年使っている魔道具ですけど、とうとう寿命で壊れたのかしらねぇ……?」
※
――その頃、遥か上空、神界の管理室。
「ふふふ……あはははっ!」
女神エルエルは、ホログラムモニターに映る下界のアレンの姿を見下ろしながら、極上の赤ワインが入ったグラスを指先で器用に転がし、なんとも言えないいやらしい笑みを浮かべていた。その眼つきは完全に血走っており、とても神聖な存在とは思えない狂気を孕んでいる。
「さあ、私の威信を賭けた極秘実験の開始よ。私の持てる神界の管理権限をこっそり使って付与したあの隠蔽スキルで、どこまでこの異常事態を隠し通せるかしらねぇ。彼がこのふざけた依頼をどう攻略するのか、そして私の今後の運命が『奇跡の昇進か、それとも絶望の減俸か』……ふふ、見ものだわ」
自分のミスを完全に棚に上げ、下界の冒険者に運命を丸投げする、他力本願にも程がある態度である。
「エ、エルエル先輩! さすがにそれはやりすぎです! Aランクの凶悪な魔獣がうじゃうじゃと巣食う『嘆きの沼』に、彼をいきなり放り込むなんて……死んじゃいますよ!」
後輩女神ルカの悲鳴にも似た制止を完全に無視し、エルエルは酔った勢いのまま、宙に浮く空間に向かって指先を軽くピンと弾いた。
※
その瞬間、地上にいるアレンの目の前で、受付嬢が差し出していた羊皮紙の依頼票が、意思を持っているかのように勝手に書き換わっていく。
インクの文字が奇妙に踊り出し、推奨ランクの項目が『D』から『A』へと、有無を言わさず強引に塗り替えられてしまったのだ。
「……なんだこれ。朝からとことん運が悪いな、俺は。まあいい、どうせ断っても面倒なことになるパターンだ。死にはしないだろ」
アレンは深い溜め息をつき、苦笑いしながらその依頼票を受け取った。
彼がこの時知る由もない。押し付けられたこの依頼の目的地が、本来であれば百人規模の重武装した精鋭部隊を送り込んでも、生還が危ぶまれるほどの恐るべき死地であるということを。
そして、その背後――遥か頭上の天界で、二人の女神が、一人は頭を抱えて絶望し、一人はワインを片手に腹を抱えて大笑いしているというふざけた事実を。
アレンは軽く肩をすくめると、朝食代わりに酒場のカウンターからくすねてきたカチカチに硬いパンを無造作に懐に放り込み、ギルドの重い木製の扉を押し開けた。
眩しい朝日の中へ歩き出すその背中越しに、彼の衣服の下、腹部に刻まれた魔法陣が、心臓の鼓動に合わせるようにトクトクと力強く脈動していた。
「……最高位の隠蔽があるなら、魔力漏れによる自滅の心配はないか。よし、行ってくるか。ついでに、この街の周囲の厄介ごとを少しばかり掃除してやるかな」
彼が軽快な足取りで去った後。
西門付近の薄汚れた酒場の床には、昨日彼が酔った勢いで盛大にぶちまけた汚物の痕跡が、なぜか完璧な『六芒星』の幾何学模様を描き出し、誰の目にも見えない不可視の魔力光を、怪しく、そして微かに放ち続けていた。




