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小説の先にある世界  作者: 藤咲玲


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第40章:酒場の夜と、累乗数で増える魔素

西門付近の薄汚れた酒場。

濁ったランプの光が頼りなく揺れる下で、俺はぬるくて酸味の強いエールに口をつけながら、果てしなく続くどん底の気分にどっぷりと浸っていた。周囲からは酔っ払いたちの下品な笑い声や、その日暮らしの傭兵たちの怒声が絶え間なく鼓膜を殴ってくる。


「……まぁ、メシが食えるだけマシか。死んでないだけ、な」


自嘲気味に呟きながら視線を落とす。目の前の欠けた木の皿の上には、ただ塩辛いだけで具材の旨味など一切感じられない濁った野菜スープ、歯ごたえという名の強烈な頑固さを持つゴムのようなオーク肉のステーキ、そして釘すら打てそうなほどカチカチに硬ったい黒パンが転がっている。異世界転生者のお約束とも言える「ふっくらと炊き上がったツヤツヤの白米」や「出汁の効いた味噌汁」なんていう贅沢品は、この辺境の街の片隅には影も形も存在しない。


現在の俺の冒険者ランクは『D』。

それは決して、冒険者としての実力が認められた誇らしい階級などではない。実態は、生還率が著しく低く設定された「地雷枠」の雑用係、あるいは捨て駒に等しい扱いだ。凶暴なモンスターの集落の事前調査だの、瘴気の濃い森での行方不明者の捜索だの、まともな戦力も護衛もいないのに危険地帯の最前線へ放り込まれる、底辺中の底辺、クソみたいなポジションである。


今の俺の魔力総量じゃ、初級の攻撃魔法である『ファイアボール』をたった数発撃っただけで、魔力枯渇による激しい頭痛と息切れを起こしてその場に倒れ伏してしまう。


「もっと……あと少しでもいい、俺に魔素の絶対的な容量さえあれば……!」


喉の奥から絞り出すように、心の底から強く願う。

もちろん、ただ指をくわえて待っていたわけではない。毎日の地道な瞑想や、血を吐くような基礎訓練で少しずつ魔力は増えてはいるものの、その成長速度は雨上がりの葉を這うカタツムリよりも遅い。目の前に毎日のように迫り来る死の気配や暴力的な恐怖に対して、俺の成長はあまりにも、絶望的なまでに間に合っていなかった。


行き場のないいら立ちに任せ、俺は皿の上の残骸を自分の身体に見立てて並べ始めた。

クズ野菜の塊をボサボサのモジャ頭に、半分食いかけた不格好な芋を顔に見立て、硬いパンを貧相な腹に見立てる。そして「おい、もっと早く成長しろよ。このままじゃ死ぬぞ」と、パンの腹をフォークの背でちくちくと苛立たしげに小突いた。


その時だった。視界の端で――黄金色に濁って輝く、ひどく安っぽいエールのジョッキの表面が微かに揺れた。


……待てよ。

ふと、頭の中で何かが引っかかった。


ビールの発酵過程。酵母が糖を分解して無数の泡を吹き出し、爆発的に増殖していくあの現象。酵母が一つから二つ、二つから四つへと、倍々ゲームで数を増やしていくように。

もし、俺の魔力成長を単なる足し算で「加速」させるのではなく、掛け算による「倍加」に変えてしまったらどうなる?


粗悪な酒の酔いの熱気と一緒に、俺の脳内を縛り付けていた常識という名の思考のタガが一気に吹き飛んだ。


「……あっ。なるほどね。その手があったか」


閃きは、雷鳴のように突然訪れた。正気の沙汰とは思えない、あまりにも酔狂な思いつきだ。世界の法則そのものを欺くような禁忌の手法。だが、この切羽詰まった生存競争の状況では、それが俺を生かす唯一の蜘蛛の糸に思えた。


俺は誰の目にも留まらないよう、テーブルの下の暗がりでそっと指を動かし、空間の魔素を練り上げて小さな『六芒星』を精緻に描く。

その中心に、ありったけの魔力を絞り出して「倍加」を意味する古代文字を走り書きした。瞬間、淡く青い光がふわりと掌の上の虚空に浮かび上がる。


身体とボロボロの外套で周囲の視線を完全に遮りながら、浮かんだ魔法陣へ指をそっと近づけた。

指先がその光の結晶に触れた瞬間、強力な磁石に引き寄せられるようにスッと滑り込み、魔法陣が一切の拒絶もなく静かに俺の肉体を受け入れる。


そのまま俺は、魔素循環の要である中心部――下腹部の丹田へと、その光る魔法陣を容赦なく押し付けた。


熱は感じない。だが、皮膚や筋肉の抵抗感すらなく腹の奥深くまで沈み込むように吸収され、身体の内側で氷のように冷たいような、あるいは灼熱のように熱いような、言語化できない奇妙な感覚がボッと灯った。


(ステータス……開け……!)


内心で強く唱え、自分自身の魔力状態を可視化した瞬間、視界の隅に浮かび上がった恐ろしい数値を見た俺は、心臓を氷の手で鷲掴みにされたように完全に呼吸を忘れた。


2、4、8、16、32、64、128、256、512……。

俺の体内を満たす魔素の総量が、文字通り滝を逆流するような凄まじい勢いで跳ね上がっていく。


――足し算ではない。累乗だ。


「っ……! 嘘だろ……」


胸の奥がひゅっと凍りつき、背筋を不快な冷や汗が滝のように駆け下りる。半端ない悪寒と恐怖。

まさか自分のステータスを、こんな狂った数学の暴走みたいなやり方で強制的にブーストさせる日が来るなんて、ほんの数分前の俺は微塵も想像すらしていなかった。


今の俺は、自らの肉体の中に起爆寸前の核爆弾を抱え込んだようなものだ。

この周囲の空間すら歪めるほどの異常すぎる魔力の奔流を、他の冒険者やギルドに悟られないよう隠蔽するために、今すぐ最強の「気配遮断スキル」が欲しい。喉から手が出るほど欲しい。だが、自業自得とはいえ、今の俺にはそんな冷静な対処をする余裕はどこにも残されていなかった。


俺はただ、体内で無尽蔵に膨れ上がる魔力の異常な熱量と、粗悪な酒の酔いの残滓の中で、とめどなく冷や汗を流しながら石像のように固まっていることしかできなかった。



神界、世界法則の観測室。

神界特有の、冷たくも神聖な青白い光に満ちた広大な管理室。

中央に設置された巨大なホログラムモニターの前に立つ女神ルカは、画面に突如として現れた異常な数値の乱高下を見た瞬間、その美しい顔から完全に血の気を失わせていた。


「なっ……ちょっと、嘘でしょ!? なにこれ!」


モニターに映し出された下界の特定の魂が示す魔力波形のグラフは、もはや緩やかな上昇曲線を描く直線などではなく、垂直にそびえ立つ絶壁のように真っ直ぐ天へ向かって跳ね上がっている。


「彼……自分の腹部に直接刻み込んだ魔法陣を介して、自身の魔力上限値そのものを累乗の数式で強制的に増幅させているわ……!」


ルカの悲鳴に近い切羽詰まった声を聞きながら、隣の席に座っていた同僚の女神・エルエルは、執務机に突っ伏したまま完全に魂が抜けたような、虚無の目をしていた。

その瞳は、深海で光を失った死んだ魚の目のように濁りきっている。


「もう……ダメですぅ……終わりましたぁ……」


エルエルは両手で自分の顔を覆いながら、ずるずると情けない音を立てて大理石の床に崩れ落ちた。


「あんなの、私たちが定めた世界の枠組みの完全な想定外よ! 桁が、保有できる魔力の桁が一瞬で限界突破しちゃう! このまま放っておいたら、下界の物理法則ごと彼の周辺一帯がチリ一つ残さず吹き飛ぶわ!」

「あぁぁ……私どもの世界管理責任が問われますぅ……こんなの、始末書どころじゃ絶対に済みませんぅ……神格剥奪ですぅ……」

「ええい、泣いてる暇はないわ! こうなったらヤケよ、ヤケクソよ!」


ルカは半狂乱で涙目を浮かべながら、手元の観測コンソールを壊れんばかりの勢いで叩き、強引に神としての最高権限のコマンドを起動した。


「持ってけ泥棒!! これで何とか隠し通しなさい!!」


ヤケクソの絶叫と共に、ルカは地上で今まさに暴走しようとしているアレンに向けて、神界の宝物庫から無理やり引きずり出した「気配遮断・存在隠蔽(最高位)」の特大スキルデータを、渾身の力で無理やりぶち込んだ。



――その頃、地上。


西門付近の酒場の騒々しい喧噪が、まるで遠くの海辺で聞く波音のように、ぼんやりと遠ざかっていく。


俺は、自分が先ほどの思いつきで一体どれほど恐ろしいことをしでかしたのかを、正確に理解し反省する時間すら与えられなかった。

極限まで圧縮され、急激すぎる速度で肥大化を続ける魔力の圧力に矮小な人間の肉体が耐えきれず、全身の血管が内側からバーナーで焼き切れるような凄まじい熱量と、胃の中身をすべて吐き出したくなるような激しい嘔吐感が同時に押し寄せてくる。


「がはっ……、あ……」


喉から漏れたのは、かすれた無様な音だけだった。

呼吸が極端に浅くなり、視界の端が水に濡れた絵の具のようにぐにゃりと歪み始める。

安酒の不快な酔いと、それを遥かに凌駕する規格外の「魔力酔い」に全身を包まれ、俺の意識はゆっくりと、抗うことのできない深い暗闇の底へと、静かに落ちていった。

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