第5章:境界線の向こう側
静寂は、唐突に引き裂かれた。
木々の隙間、死角からの不意打ち。爆発的な跳躍とともに空を舞ったのは、体長二メートルを超える漆黒の毛並み――『フォレスト・ウルフ』だ。
(――来るッ!)
思考よりも速く、脊髄が命令を下す。
視界がスローモーションのように引き伸ばされていく。獣の牙が空を切る風圧、鋭く伸びた爪の軌道、そして、獲物を食い殺そうとする飢えた獣の眼光。そのすべてが、極限まで張り詰めたアレンの神経に焼き付く。
喉元をかすめる牙。
あと数ミリ。本当に、紙一重の距離でアレンは身を翻した。背中に走る激痛は、獣の爪が服を引き裂き、皮一枚を削いだ証だ。だが、振り返る余裕などない。
「――っく!」
痛みで呼吸を乱すわけにはいかない。
アレンは倒れ込みながら地面を転がり、落ちていた石を掴み取る。フォレスト・ウルフは着地と同時に反転し、再び飢えた眼差しでアレンを捉えた。
チッ、と舌打ちが漏れる。
わかっている。今の自分は、村で薬草を摘んでいたただの小僧だ。純粋な身体能力で競り合えば、この魔獣の瞬発力には勝てない。正面から戦えば、一瞬で肉塊に変えられる。
なら、勝つしかない。
この『運のない男』というレッテルを、実力でねじ伏せるために。
獣が、再び跳んだ。逃げ場のない、直線的な突撃。
アレンはあえて退かず、その真正面に立ち止まる。獣の死角、あるいは狩る側の視界から一瞬だけ外れる死の懐へ、最小限の歩数で踏み込んだ。
反射神経の限界。
自分の心臓の鼓動すら騒音に聞こえるような極限状態。アレンは獣の筋肉の微細な収縮、血管の揺らぎさえも気配として読み解く。
頬をかすめる牙が、鮮血の線を描く。
熱い。痛い。だが、そんなことはどうでもいい。
アレンは握りしめた石を、獣の顎関節へ向けて全力で叩きつけた。
ゴツリ、と鈍い音。
致命傷には遠い。それでも、獣の重心がコンマ数秒だけズレる。
その隙に、アレンは崩れた獣の脇腹を支点にして回転し、さらに蹴りを叩き込む。脳が勝手に弾き出した最適解に、身体が従う。自分でも信じられない動きだ。
激昂した獣が、牙を剥き出しにして唸る。もはや先ほどの直線的な動きではない。蛇のように身体をうねらせ、アレンの退路を完全に封じに来る。
アレンの視界が、さらに澄んでいく。
獣の爪が空を裂く音、舞い上がる土の匂い、獣の荒い吐息。
……すべてが、遅い。
「……遅い」
傲慢なまでの独り言。
実際には、身体能力は獣が圧倒的に上だ。だが、アレンの読みが、獣の速度を完全に上回っていた。
牙を剥く獣の顎の奥に、アレンはあえて持っていた硬い枝を突き立てる。
口を閉じられない獣が悶絶する。
その一瞬の隙に、アレンは獣の背中に飛び乗り、渾身の力で首筋を締め上げた。体重と、重心移動だけの、泥臭い絞殺。
何度も何度も獣に振り回され、身体が悲鳴を上げる。地面に叩きつけられる衝撃が骨を揺らす。指先は獣の毛に食い込み、剥がれ、血が滲む。それでも、アレンは決して離さない。
「……終わりだ」
耳元で囁き、暴れる獣の頭部を、地面の尖った岩へと強引に誘導した。
ドサリ――。
重い音とともに、獣の動きが止まる。
森に静寂が戻る。
アレンはその場に崩れ落ち、荒い息を吐き出した。血と泥にまみれた自分の手を見つめる。それは、先ほどまで薬草を摘んでいた少年の手ではない。
震えは止まらない。
だが、心臓はこれまでにないほど冷静に、獲物を狩り取った誇らしさを刻んでいた。
「――勝った……のか?」
自嘲気味な笑いがこみ上げる。
運が良かっただけだ。そう言い聞かせなければ、正気を保てそうにないほど、今の自分は興奮していた。
荒い息を整えながら、アレンは横たわるフォレスト・ウルフの巨体を一瞥した。
毛皮や魔石は、街へ出ればそれなりの値になる。村の連中なら喜んで解体して担いで帰るところだろう。
だが、アレンは眉をひそめた。
「……無理だな」
今の自分には、魔獣を丁寧に解体する知識も道具もなく、何よりこの巨体を街まで運ぶだけの体力も残されていない。下手に解体して血の匂いを周囲に撒き散らせば、他の肉食獣を呼び寄せる餌になるだけだ。
アレンは迷わず、獣の首元から魔石だけを鋭利な石でこじ開け、懐に滑り込ませた。
「欲張って命を落とすのが、一番の愚か者だ」
彼が望むのは、毛皮の小銭ではない。この先で待つ、より高位の知見と力だ。
血に汚れた手を拭い、獣の死骸から離れる。背後で、森の掃除屋たちが気配を察してざわめき始めていた。
アレンは一度だけその魔石を握りしめ、冷ややかな瞳で森の奥へと目を向けた。




