38話:国境の監視塔と、想定外のボア祭
ささやきの森の入口に最も近い辺境の村。そこで街道の辻馬車と別れを告げたアレンは、周囲に誰もいないことを確認すると、ぼそりと呟いた。
「さてと、ここから徒歩になるのか。先が思いやられるな」
そう口にした瞬間、アレンの姿がかき消えた。
ドッ、と周囲の空気が爆発したかのようなすさまじい風切り音を残し、彼は人類の到達し得ない超音速の疾走で森の中の道を駆け抜ける。
空間魔法の不正使用ではない、純粋な肉体の物理的最適化と衝撃波の制御による超高速移動だ。
国境警備の監視塔が視界の端に見えてくると、アレンは寸前で急減速を行い、発生した熱量と運動エネルギーを完璧に相殺する。
そして、何食わぬ顔でサラサラと髪を整え、いかにも「今、のんびり歩いて到着しました」という涼しい顔で警備兵の前に姿を現した。
「あ~、すまんが。ギルドの依頼でな、この辺りの国境に問題が起こっていないか確認しに来た」
そう言って、ついでといった様子で持参していた麻袋を放り出す。中身は、街道の村で買い足したわずかばかりの支援物資と保存食だった。
「おっ、すまないな! ……助かるよ」
差し出された麻袋を受け取った警備兵は、申し訳なさそうにしつつも安堵の表情を浮かべる。話を聞けば、ここは今のところ特に大きな問題は起きていないらしい。
魔物はたまに姿を現すが、討伐が面倒臭いような高ランクの厄介な個体は出ておらず、ここの守備隊の戦力だけで十分に対処可能だとのこと。
隣国の皇王国側からの兵士の侵入や不審な動きの報告もないらしい。
アレンは頷きながら、次の監視塔までの距離とルートを確認する。
だが、途中の経路上には村も町もなく、食料の補給地点は存在しない。現地調達するとなれば、自力で野草を採取するか、道中で遭遇する魔物を狩って食肉に変換するしかない。
「……それを考えると、実質銀貨数枚の取り分しかないこの塩漬け依頼、どう考えても労働コストに対して割に合わんな。
あとでギルドの精算窓口で、追加の危険手当と物資補給費の項目をねじ込むための交渉が必要だな」
心の中で役人やギルド職員に対するクレームの書式を組み立てながら、アレンは「では、行ってくる」と軽く手を上げ、さらに森の奥へと足を踏み出した。
*
「さて、道中の野営用の食材でもサクッと調達するか。魔物でも軽く片付けて……」
そう呟きながら歩を進めていたアレンの耳に、ガサリと木立を揺らす野太い足音が届いた。
お、ちょうどいいタンパク質源のエンカウントか――と思った瞬間、目の前の茂みから飛び出してきたのは、一頭の猪どころではない、牙を剥いた凶暴な野獣の群れだ。
――ボア。
――現れたのは、ただの野獣ではなく、極上の肉質を誇る『ボア』だった。
その瞬間、アレンの脳裏によぎったのは、以前親っさんが焼いてくれた、あの絶品のステーキの記憶。
「――あのステーキが食べたい」という強烈な動機(食欲の最適化)に突き動かされ、アレンは魔物討伐の枠を超えた全力を発揮してしまう。
気づけば、周囲一帯にいた大量のボアを完璧な手際で討伐し、肉質の良い部分だけを選別して素材解体と下処理を完了させるまでに、すっかり日が暮れていた。
「……まさか、夕飯の肉の調達に全力を注ぎすぎたか。今日はここで野営だな」
山のように積まれた極上のボア肉を眺めながら、アレンは小さく呟くと、気を取り直して設営そっちのけで、さっそくステーキを焼く準備を始める。
あの頑固親父が七輪の前に陣取り、分厚い鉄板でジュージューと音を立てながら肉を焼き上げていた光景が、妙に鮮明に思い出される。
塩と胡椒、そして隠し味の醤油ベースの特製ダレが焦げる香ばしい匂い。脂がパチパチと跳ねる音。
「肉ってのはな、こうやって外をカリッと、中は肉汁が逃げねぇように絶妙な火加減で閉じ込めるんだよ」と、ぶっきらぼうに笑いながら皿にドンと乗せてくれたあのステーキの味。
「……ふっ、あのオヤジの焼き方か。レシピの構造データは完璧に脳内に入っている。再現してみるか」
アレンは気を取り直すと、手際よく魔法で竈を即席で錬成し、適度な厚さに切り出した極上のボア肉を鉄板へと乗せた。
ジューーーッ!
静まり返ったささやきの森の夜気に、食欲を最高潮に刺激する最高の音と匂いが広がる。
完璧な温度管理と物理的計算に基づいて焼き上げられたステーキは、親っさんが焼いてくれたあの味の記憶と寸分違わぬ最高の仕上がりを見せていた。
【万里の長城と、森の中の補給村】
ささやきの森の奥へ足を進めるにつれて、木々の隙間から人工的な巨大建造物が姿を現した。
国境沿いの街道は、ささやきの森の広大な原生林を幅およそ一キロメートルにわたって綺麗に切り開いた空間に築かれている。そこにそびえ立つのは、まるで異世界の「万里の長城」を思わせる、圧倒的な規模の城壁のような国境防壁だった。
この壁は魔法帝国とレムリア皇王国の共有財産として厳格に管理されており、双方の国家にとって不可侵のラインとなっている。
そのため、いかに争いが起きようとも、この構造物を故意に破壊するような愚行はご法度とされていた。
防壁に沿って何十キロメートルもの距離ごとに検問所が設置されているが、これらは一般の旅人に解放されているわけではない。
もっぱら軍やギルドの物資搬入用として機能していた。
地理的に見て、レムリア皇王国側のほうが森の奥行きが浅く、物資の流通もしやすい。そのため、この国境付近の検問所における補給や維持管理は、主に皇王国側からの輸入や支援に頼っているのが実情だった。
――もっとも、両国の関係が決定的に悪化しているわけではない。「今のところは」という不安定な均衡の上の話であるが。
「一般向けの検問所は、この深い森を完全に抜け切った先にある……つまり、かなりの距離をこのまま森づたいに迂回し続けなければならないというわけか」
地図を確認しながら、アレンは小さく息を吐いた。
そんな過酷な道中を進むこと数日。ようやく、森のほぼ中央に位置する中間地点へと到達した。
ここはもともと、検問所や防壁を維持するために築かれた物資補給用の拠点が、そのまま自然発生的に小さな村へと発展した場所だった。
皮肉なことに、この一帯はささやきの森が最も深く、魔素の濃度も高まる最深部に位置している。
「ふむ、この規模の村であれば、最低限のインフラは整っているな」
視線の先には、旅人向けの看板を掲げた宿屋の建物が見える。
ボアの野営肉ですっかり油っぽくなった体と、数日間の超音速移動で蓄積された疲労(および微細な埃)を思い出し、アレンは乾いた唇を緩ませた。
「――よし。この環境であれば、温かい湯に浸かれそうだ。久々に風呂に入るとしよう」




