36話 深夜のバグ取り残業
看板すら剥げかけた場末の安宿。ギシギシと音を立てる薄汚れた硬いベッドで、エルエルとルカがようやくまどろみの中へ落ちかけていた、その深夜のことだった。
「起立しろ。作業時間だ」
枕元に突如として現れたアレンの無機質な声に、二人の天使は飛び起きる。
「……は? 今、夜の三時なんですけど……!?」
「迷宮の第4階層で、昼間の魔素溜まりによって引き起こされた空間のバグが観測された。パッチ当てに向かう。準備しろ」
「聞いてないわよ! 深夜手当も深夜割増もないのに、なんで私たちがこんな真夜中に……!」
ルカの悲痛な叫びも虚しく、アレンの冷徹な一言によって、二人の天使は有無を言わせず夜の帝国地下迷宮へと連行される羽目になった。
辿り着いた第4階層の一角は、魔素溜まりの暴走によって空間のテクスチャが激しく剥離し、おぞましい魔獣たちがうろつくバグ地帯と化していた。
「おい、そこの座標のエラー個体群、一掃する。エルエル、ルカ、戦闘後の地形と座標データの即時リストアを怠るな」
「はいはい、分かってますよ! ほんと、こんなの通常ならギルドが冒険者に依頼書出して終わりでしょ! なんで私たちがこんなこと……これ本当、超絶ブラック企業だわ!」
アレンが冷徹に、かつ圧倒的な魔術演算で空間ごとバグモンスターたちをねじ伏せ、次々とデバッグしていく。その凄まじい魔法の余波で吹き飛んだ床や壁の穴を、エルエルとルカは徹夜で|ピクセル単位《1ミリの狂いもなく完全に》の地形修復に追われながら必死に埋めていく。
空が白みかけ、心身ともに限界を迎えた朝方。
ボロボロになりながら安宿のテーブルに崩れ落ちた二人に、アレンが無言でガチャンと置いたのは、いつもの「一番安いが、味が薄くて少し酸っぱい」特売の安エールだった。
「……これ飲んで寝ろ。深夜手当だ」
「……悪魔……いえ、最悪のデバッガーよ……っ!」
底辺の派遣社員と化した元エリート天使たちは、朝日に照らされる酸っぱい安エールの苦味を涙で紛らわせながら、過酷な一日を始めるのだった。
【礼儀の計算、貴族たちの誤読】
どれほど「無駄なノイズ」を嫌おうと、社会的な摩擦係数をゼロにするための最小限の処理は必要だった。
国境検問所の過剰な歓迎を馬車の中から放り捨てたアレンだったが、半日ほど馬車に揺られながら、ふと冷静な思考ロジックに立ち返る。
――あまりに無言でスルーし続けると、今後の魔導資料へのアクセス(知的好奇心の充足)において、無駄な物理的妨害(検問の遅延や官僚の愚行)という余計な処理コストが発生する。
アレンは羽ペンを走らせ、検問所の責任者を通じて帝国宰相宛ての短い書簡を作成した。
『国境での過剰な厚意は辞退する。ただし、挨拶の欠如が今後の情報流通に遅延を生じさせるのも非効率だ。貴国の最高機密資料へのアクセス権さえ担保されるなら、形式的な社交の場には最低限の工数を割こう。――アレン・ノア』
ただの「事務的な連絡事項」と「今後の効率化の打診」のつもりだった。
だが、その手紙を受け取った帝国宰相オクタヴィウスの執務室は、直後に凍りついた。
「な……っ!? これを読め……!」
宰相が震える手で差し出した書簡を、集まった重臣たちが回覧し、次々と息を呑む。
『厚意の辞退』とは、帝国の権威に対する毅然とした拒絶。
『情報の遅延を生じさせるのも非効率』とは、機嫌を損ねれば我が国の魔導インフラをいつでも麻痺させるという無言の脅し。
そして『形式的な社交には最低限の工数を割こう』とは、全人類の頂点に立つ者が、あえて我々下劣な者どもの遊戯に付き合ってやると慈悲を垂れたに等しい。
「恐ろしい……。彼は、我々が用意した国賓待遇を『子供の褒美』程度に切り捨て、真に要求するのは国家の根幹である『機密資料』のみ。しかも、それを正面から脅迫ではなく『システムの効率化』として淡々と突きつけてきている……!」
帝国の中枢は、完全に戦慄した。
規格外の力を持ちながら、政治的野心すら超越した「真の怪物」。彼を怒らせれば、アルカディア魔法帝国そのものが数秒でデリートされる――。重臣たちの間に、奇妙なまでの全会一致の恐怖と畏敬が走り抜けた。
結果。
アレンが何気なく書いた一通の「挨拶状」は、帝国の歴史上かつてないほど厳戒かつ狂気的な「最高機密・最上位貴族の歓待パーティ」を引き起こすことになった。
数日後。
帝都の中心にそびえ立つ白亜の宮殿。その大広間には、アルカディア魔法帝国の全3大公家、高位貴族、そして皇族の姿までがずらりと並んでいた。
会場に足を踏み入れたアレンは、そのあまりの「過剰な装飾と人の群れ」を見て、盛大に眉をひそめた。
「……なんだ、この無駄な熱エネルギーの集中は。冷房効率が最悪だな」
アレンの背後では、CEOから貸し出された特務秘書(あるいは随行員)が冷や汗を拭いながら追従している。
周囲の貴族たちは、アレンが一言呟くだけで「ひっ……!」と身を縮こまらせ、まるで神の前に引き出された罪人のように深々と頭を垂れた。誰もが、アレンの纏う「見えないプレッシャー(実際は単に人が多すぎて酸素濃度が低いことへの不満)」に気圧されている。
「アレン・ノア殿……! 本日は我が帝国の夜会へようこそお越しくださいました!」
帝国宰相オクタヴィウスが、顔を引きつらせながら最敬礼で歩み寄る。
アレンは面倒くさそうに息を吐き出すと、最低限の社交の計算(今後の資料閲覧のスムーズ化)に基づき、淡々と告げた。
「ああ。挨拶状の件、返答は受け取った。で、俺が要求した『帝国の魔導資料の全データ』のリストはどこだ? パーティの余興とかいう無駄なプログラムの前に、それを済ませたいんだが」
余興(帝国最高峰の音楽と舞踏)を「無駄なプログラム」と一刀両断するアレン。
しかし、オクタヴィウス宰相はその言葉を「貴族どもの下らない遊戯など眼中にない。
直ちに国家の核心を教えよという、比類なき知の求道者の証明」と勝手に脳内変換し、感動のあまり涙ぐみながら深く頭を垂れた。
「はっ……! すでに帝国中央書庫の全開放手続きを完了しております。この後、我が国の最高魔導師たちがアレン殿の『尋問(講義)』を受ける準備も……」
「……勝手に話をデカくするな。俺はただ、一人で静かに文献を読みたいだけだ」
アレンの冷ややかなツッコミも、帝国側には「恐るべき深謀遠慮」として響く。
盛大なパーティの裏で、帝国の中枢が勝手に震え上がり、アレンのペースへと完全に屈服していく――。
本人はただ「早く資料室に行きたい」としか考えていないが、帝国の運命は、この夜からアレンの「知的好奇心」の掌の上で転がされることになったのだった。
【江戸患いと、全粒粉のクッキー】
盛大なパーティの喧騒の中、アレンの聴覚は過剰な音圧をすり抜け、周囲の貴族たちの小声の雑談を正確に拾い上げていた。
「……本当に、うちの娘はもうダメかもしれませんの……」
「お医者様も原因不明と首を傾げるばかりで……最初はただ怠そうだと言っていたのが、今や歩くこともままならない。食事も喉を通らず、筋肉は衰える一方だ……」
一組の夫婦の悲痛な囁き。その症状の羅列を聞き、アレンの脳裏で前世の記憶データベースが瞬時に検索される。
――倦怠感、食欲不振、下肢の筋力低下、歩行困難。そして、この世界の貴族たちが好んで食べる精製された白亜のパンや上等な白米。
「……江戸患い、か」
かつて日本で流行した、ビタミンB1不足による脚気。精製された穀物ばかりを摂取し、ビタミンやミネラルを欠乏させた結果引き起こされる現代病ならぬ現代的栄養失調の一種だ。
アレンはグラスの酒を傾けながら、その貴族の男にさりげなく声をかけ、詳細な症状を聞き出した上で、後日のアポを取り付けた。
約束の日。アレンは自室の机に向かい、奇妙な違和感を覚えて首を傾げていた。
「……俺は一体、何をやっているんだ?」
効率を重んじ、無駄なノイズや他人のトラブルを徹底的に排除してきたはずだ。他人の病気など、自分の知的好奇心や生存最適化には本来なんの利益ももたらさない。
だが――。
「……まあ、自分の知識にあるもので、ただの栄養失調が直るなら、実験ついでに試してみるか。ダメなら仕方ない、俺は医者ではないのだからな」
どこか投げやりな、しかしどこか人間味のある言い訳を自分自身にしながら、アレンは料理の計算を始めた。
症状を聞く限り、現在はすでに重度の食欲不振に陥っている。肉やウナギ、玄米や麦といったビタミンB1豊富な食材は効果的だが、胃腸が弱っている今の彼女にそのまま食べさせるのはハードルが高い。
「なら、手軽につまめて効率よく栄養が摂れる『お菓子』にでもするか」
アレンは買い出しの際に入手していた材料を机に並べる。
ビタミンB1とミネラルが豊富な全粒粉の小麦、タンパク質とビタミンを含む豆の粉、そしてこの世界では希少で高価な砂糖。さらに、風味と代謝を促すための少量の酒を隠し味に加え、絶妙なバランスで生地をこね上げ、焼き固めた。
香ばしい匂いとともに完成したのは、素朴ながらも栄養素が凝縮された特製の「全粒粉クッキー」だった。
数日後。アレンはその貴族の屋敷を訪れていた。
ベッドの上でやつれ、虚ろな目をしていた貴族の娘――少女の前に、アレンは包みからクッキーを一つ取り出して差し出す。
「やぁ、初めまして。アレンだ。ちょっと君の家の事情を耳にしてね。お見舞いなんだ。良かったら、これ食べてくれないか?」
怪訝そうな表情の少女に、アレンは淡々とそれを手渡す。
少女が恐る恐る一口かじった瞬間――その瞳が驚愕に見開かれた。
「……っ! 甘くて、香ばしくて……不思議な食感……! おいしいわ……っ!」
食欲不振ですっかり痩せ細っていたはずの彼女が、目を輝かせて次の一口を頬張る。その様子を見た両親が、信じられないものを見るような目でアレンを仰ぎ見た。
「よかったら、これ余分に作ってしまったんだ。大量にあるから、毎日5枚くらいずつ食べてほしい」
「えっ、毎日こんな美味しいものを……?」
「あぁ。ただ、一度にたくさん食べると急激な血糖値上昇や消化不良で太ったり腹を壊したりするから、そこは気を付けるんだぞ。用法・用量を守れ」
医者でも匙を投げた病に対し、謎の菓子を置いて淡々と注意点を言い残し、アレンはそそくさとその場を後にした。
それから数日後。
帝都の街や酒場の噂話として、アレンの耳に一つの情報が飛び込んできた。
――あの貴族の令嬢の病が嘘のように快癒し、今や元気に庭を歩き回っているという。
ただのビタミン不足の解消がもたらした劇的な回復劇。
酒場でその噂を聞きながら、アレンは「まあ、化学的に当然の結果だな」と心の中で呟き、いつも通りに自分の研究と次の計算へと意識を戻すのだった。
【秘薬の調合と、不本意な成分】
数日後。アレンの元に、ベルンハルト侯爵家の執事を通じて一通の手紙が届けられた。
差出人は、あの夜のパーティですれ違った武門のエリート、エレーナ・ベルンハルト本人だった。
封を切ると、丁寧な謝辞に続いて、後半にはいかにも「なんてことない雑談」のような体裁で彼女の悩みが綴られていた。
――肌の乾燥、まとまらない髪、冷え性。自分だけでなく、周囲の友人たちも口を揃えて同じような不調に悩まされていると。
アレンはその手紙に目を通すと、「ふむ」と呟き、いつもより弛緩した表情でそれを机の上に置いた。
血流の循環不全、あるいは微量栄養素やホルモンバランスの揺らぎに起因する現代的な不定愁訴。
生理学のデータとしては極めてありふれたエラーだが、誇り高い侯爵令嬢がわざわざそんな私的な悩みを他人に漏らすというのは、よほど日々のパフォーマンスを削られてイライラしている証拠だろう。
「まあ、人間という有機物のメンテナンスは面倒だな」
心の中でそう呟きながらも、アレンはその情報を脳内の片隅――いつか使うかもしれない一時メモリへと格納したのだった。
それから数日後。アレンの姿は、アルカディア魔法帝国の中枢にある中央書庫の一角にあった。
いつでも国家最高機密の禁書を閲覧できる特権を手にしていながら、アレンはあえてそれを急ぐことはしない。
知の探求とは、シークエンスを一段階ずつ踏むからこそ意味がある。今はただ、一般の書架を気ままに巡り、この世界の基礎物理や魔導の歴史的データを回収している最中だった。
ふと、視界の端に一冊の古びた薬草調合の書物が引っかかった。
何気なしに手に取り、ページをめくる。
そこに記されていたのは、かつて失われたとされる美容と体質改善のための万能調合液のレシピだった。だが、現代の魔導基準や環境ではすでに「調合不能」とされているものらしい。
材料の指定はこうだ。
――綺麗な水、薬草、豆の抽出液、酒、生姜。
そして、最後に付記された「秘密の成分」。それは現在では伝説の幻とされ、一切の入手が不可能とされているものだった。
それは――『天使の涙』。
アレンはその文字を眺め、わずかに首を傾げた。
「ふむ。さすがに入手困難な伝説の成分なんてものは手に入らないが……まあ、分子構造の近似値から逆算すれば、それに準じた血流改善・保湿溶液くらいなら作れそうだな」
脳裏に過ったのは、先日のエレーナの手紙だ。冷え性や肌の乾燥、代謝の低下。
「……お土産にでもしておけば、今後の資料閲覧の際の無駄な社交的摩擦係数がさらに下がるか。ちょうどいい実験材料だ」
そう独り言をつぶやき、アレンが実験用の簡易ビーカーと調合器具に手を伸ばそうとしたその時だった。
――あ、あのクソアレン……! 許さない……絶対に労働基準法違反で天界の裁判所に訴えてやるんだから……ブラック企業よりブラックだよ……
背後から、恨みつらみを呪文のように吐き出し続ける忌々しい金切り声が聞こえた。
見れば、アレンのせいで連日こき使われ、すっかり精神的に摩耗した女神エルエルが、机の端でそのまま力尽きて眠りこけている。
その目尻には、日々の過酷な労働(と理不尽なデバッグ作業)に対するストレスで滲んだ、本物の涙がうっすらと浮かんでいた。
アレンは「やれやれ、相変わらずリソースの無駄遣いが多いプログラムだな」と呆れたように息を吐くと、トコトコと歩み寄り、そっとエルエルの顔を覗き込んだ。
そして、ハンカチを取り出す代わりに、指先でエルエルの頬からその涙をスッとぬぐってやった。
少し考える。
……待てよ、と。
アレンは自分の手元にある、先ほどから作ろうとしている調合液の鍋に視線を落とした。
そして、自分の指先に付着した、今しがた拭い取ったばかりの透明な液体を見つめる。
「……こいつ、一応は天使なんだよな……」
自嘲気味につぶやきながら、アレンは全く迷うことなく、指先に付いた「女神の涙」を、調合液の入ったビーカーの中へと――ぽいっと無造作に放り込んだ。
瞬間、ビーカーの中で激しい化学反応を示すかのように、調合液が淡く神々しい光を放ち、しかし次の瞬間には極めて安定した分子配列へと綺麗に落ち着いた。
伝説の書物が求めていた本物の「天使の涙」が、まさか目の前の爆睡している自称・管理者のものによって秒速で、しかも極めてぞんざいに調達されてしまったとは知る由もない。
アレンは「よし、これで効能のベース値が物理的限界を超えて跳ね上がったな」と、至って真面目な顔で満足げに頷くのだった。
「……天使だったんだな」
【幕間 女神の成分と、侯爵令嬢の変貌】
『天使の涙』という名の最高級(かつ極めて不本意な出所)の成分が混入したことで、ビーカーの中の調合液は異常なまでの神秘的輝きを放ちながら完成した。
アレンはそれを小瓶に詰め、「ふむ、有効成分の含有率が物理法則を無視した数値になっているが……まあ、肌の保湿と血流改善の目的ならオーバーキルなだけで問題ないか」と、至って冷静に蓋を閉めた。
数日後。
アレンは帝国書庫への立ち寄りのついでに、ベルンハルト侯爵邸へと足を運んだ。
「お土産を持ってきた」と一言告げられた執事は、あの冷徹なアレンが自発的に贈り物など持ってくるはずがないと内心怯えつつも、恐る恐るそれをエレーナの元へと取り次いだ。
応接室に通されたエレーナは、差し出された小さな小瓶を見つめ、わずかに眉をひそめた。
「これは……?」
「手紙に書いてあったろ。冷え性だの肌の乾燥だのの不調データに対する、簡易的な処置薬だ。実験のついでに作ったから、勝手に使え」
アレンはそれだけ言い残すと、用事は済んだとばかりにさっそく書庫の資料の話を切り出し、エレーナの返事も待たずに帰っていった。
残されたエレーナは、呆然と小瓶を眺めた。
――まさか、あの何気なく愚痴半分で書いた手紙の悩みを、あの規格外の男が本気にして薬を作ってくれるとは微塵も思っていなかったからだ。
「……試してみようかしら」
半信半疑のまま、エレーナはその透明な液体を肌に塗り、わずかに口に含んでみた。
直後――。
「……っ!?」
彼女の全身を、雷に打たれたような衝撃が駆け抜けた。
数年間、どれだけ温めても消えなかった芯からの冷えが一瞬で霧散し、血流が一気に最高効率で全身を巡り始める。
長年悩み続けていた肌の乾燥は嘘のように消え去り、触れた指が吸い付くようなもちもちとした質感へと変わる。
さらに、いつも重く絡まっていた髪は、まるで絹糸のようにサラサラと櫛通りが良くなっていた。
あまりの劇的な変化に、エレーナは鏡の前で絶句した。
「私の体内の魔素と血の巡りが……完全に最適化されている……!? これは何という神業の調合なの……!」
その日から、エレーナの周りの友人たちの間でも「アレン様からいただいた奇跡の美容液」の噂が爆発的に広がり、帝都の貴族令嬢たちの間で空前の「アレン様崇拝ムード」が巻き起こる原因となるのだが――本人は「ただの化学的近似値の実験だよ」と、相変わらず無自覚に首をかしげるばかりであった。
【バルツァー・ラボの巨大化と、無自覚な暴走】
帝都の喧騒から少し外れたエリア。そこにはかつて物流の拠点として使われていた広大な第4倉庫がそびえ立っていた。
現在のここは、アルカディア魔法帝国における「株式会社バルツァー・ラボ」の仮拠点――という名の、大陸経済を裏から牛耳る巨大プラントの中心地と化していた。
鉄骨むき出しの倉庫内では、数多の魔導研究員や特務秘書たちが、休む間もなく魔導端末を叩き、巨大な調合釜を稼働させている。
「おい、第2プラントの魔素供給ラインの圧力を上げろ! 帝都中央からの発注数が昨日の三倍に跳ね上がっている!」
「美容液『天使の滴(仮)』の原料在庫が足りない! 秘書室、至急追加の調達ルートを確保しろ!」
怒号と歓声が飛び交うその光景は、もはや一介の個人研究室の規模を遥かに超越していた。
すべての発端は、アレンが何気なく作り上げた「全粒粉クッキー(ビスケット)」と「美容液」の二つのプロダクトだった。
貴族の間で「江戸患い(脚気)」を劇的に治癒した全粒粉ビスケットは、富裕層たちの間で「肉体疲労を消し飛ばし、脳の処理速度を極限まで高める究極の健康食」として爆発的なブームを引き起こした。
日々の過酷な公務や魔導研究で慢性的なだるさに悩んでいた高位貴族や官僚たちは、こぞってこれを買い求め、健康思考に火がついた彼らの間でなくてはならない必需品となっていった。
一方の美容液も凄まじかった。
一応は「一般層にはやや高価」な価格設定であったものの、侯爵令嬢エレーナの劇的な変貌ぶりを目撃した民衆や中流階級の間で「多少無理をしてでも手に入れるべき奇跡の霊薬」として崇められ、飛ぶように売れていったのだ。
アレンが帝国書庫で文献を読み漁っている間に、雇われCEOと有能すぎる社員たちは、この二大ヒット商品を瞬時に量産化。バルツァー社は、設立からわずか数ヶ月で帝国の経済界を揺るがす大企業へと変貌を遂げていたのである。
そんな狂騒の真ん中、第4倉庫の一角に設けられた極めて静謐な執務室。
「……で、一体これはどういう状況だ?」
アレンは腕を組み、目の前に山積みにされた莫大な売上伝票と、金庫からあふれ出そうなほどの金貨の山を冷ややかな目で眺めていた。
その背後では、連日の激務で目の下にクマを作ったエルエルとルカが、疲労困憊の表情でガタガタと震えながら立っている。
「あ、あなたねえ……!『ちょっとした実験』とか言って適当に作ったお菓子と美容液が、今や帝国の全市場を独占して、我が社の株価がストップ高連発なのよ!? 私たちがどれだけその裏で、発注ミスや在庫管理のデバッグに追われたと思っておるのか……!」
エルエルの悲鳴交わりの抗議にも、アレンはふっと小さく息を吐くだけだった。
「効率的に栄養価と血流のデータを最適化しただけで、まさかここまで市場の流動性が偏るとはな……。需要と供給のバランスが完全にバグっているぞ」
「バグって言いたいのはこっちのセリフよ! あんたが勝手に引き起こした経済特異点のせいで、私の自由時間が完全にデリートされたんだけど!」
喚き散らすエルエルを無視し、アレンは手元の魔導端末を軽くスワイプする。そこには、バルツァー社の総資産額を示す途方もない桁数の数字が浮かび上がっていた。
(……現金資産がまた増えたな。これでは、ラボの自炊環境どころか、帝国全体の魔導インフラを丸ごと買い取ってもまだお釣りが来るレベルだ)
本人は「ただ静かに文献を読み、効率的な生活を送りたい」と願っているだけなのだが、その知性と技術が吐き出す成果物は、あまりにも巨大すぎて世界を強制的に書き換えていく。
「まあいい。企業の拡大自体は、今後の研究資材の調達コストをゼロにするための『インフラの安定化』という意味では合理的だ。……引き続き、CEOには勝手に運営させておこう」
アレンは面倒くさそうに肩をすくめると、山積みの伝票を無造作に放り投げ、再び自らの知的好奇心を満たすための「次なる研究テーマ」へと意識を切り替えるのだった。
現預金・流動資産: 約 1,250億 霊銀貨(日本円換算でおよそ 1兆2,500億円 相当)
株式・企業資産(バルツァー社): 時価総額 約 3兆円 相当
総資産フットプリント: 約 4兆円 超
500円のエールで換算
2,500,000,000杯 (25億杯分)に成長
黒曜龍討伐の段階では「エール601万杯分」なので、エール換算で約415倍に成長した。
そろそろステーキ換算にするべきか……




