35話:幕間 バルツァー・ラボの放任
ゼノリス王国西南の街、活気ある大通りに面した「バルツァー・ラボ」の執務室。窓の外ではギルドへ向かう冒険者たちの喧騒が聞こえるが、この部屋の中だけは奇妙なほど静謐だ。
壁一面に並ぶ経営資料、整然と管理された資産運用のポートフォリオ、そして冒険者ギルドとの独占契約書。それらはすべて、アレンが雇ったCEOの執務デスクに集約されている。
アレンは執務室の椅子に深く腰掛け、デスクに置かれた一通の承認書類にサインを走らせた。
「あとは任せた。報告は必要な時にだけ聞く」
冷徹なほどに合理的な指示を、CEOは恭しく受け止めた。アレンにとって、バルツァー・ラボは目的ではなく、成り行きで出来てしまった産物に過ぎない。
資産4000万の運用益は、自動的に次なる研究施設への設備投資と、最先端の魔導研究費へと変換される仕組みが構築されている。
煩雑な事務作業、ギルドとの泥臭い折衝、市場の相場変動。
――そんなものは、年俸1200万で雇ったCEOの仕事だ。
「好きに運営しろ。俺は俺の人生を歩む」
「好きな時に寝て、好きな時に酒を飲める。軍資金はたんまりある。気ままに行こうか」
ラボの扉が閉まる。背後でCEOが何かを言おうとしていた気もするが、アレンにとってはその声すら、すでに遠い場所の出来事のように響いていた。
【導入部 境界の越境】
ゼノリス王国の西南の街を離れたアレンを乗せた魔導馬車は、荒野を突き抜け、緩やかな下り坂を南西へと向かっていた。
この異世界の地形は、我々の知る地質学の法則をあざ笑うかのように、魔法的な法則で構成されている。車輪が刻む地面は、時折、地脈の奔流により青白く発光する『魔導層』の露出部を越えていく。
アレンの手元には、バルツァー・ラボのCEOが用意した旅の行程表があった。
報告には大陸全土に広がる魔力流の変動、帝国の法魔術的障壁の脆弱性、そして通過地域の魔獣による襲撃確率までが緻密に算出された「最短・最効率の計画書」だ。
アレンは馬車の窓から流れる景色を眺めながら、アイテムボックスに手を伸ばした。そこには、親っさんの特製『特上ボアステーキ』が収められている。時間停止効果により、作りたての芳醇な香りを保ったままだ。アレンは冷えたエールと共に、その肉塊を貪るように食らった。
「食欲という名の生理的欲求さえシステム・ルーティン化すれば、この異世界における生存戦略において、無駄なストレスはゼロになる」
食後の充足感を覚えながら、彼は手元の羊皮紙に目を落とす。バルツァー・ラボの経営を独裁するCEOからの報告書だ。そこには、帝国領内の主要な魔導植物研究機関とのパイプ確保に加え、アレンが首都の検問を通過する頃には現地での研究拠点選定も完了している旨が明記されていた。
南西へ向かう道中、気候がわずかに変わり始め、空気が重たく湿気を帯びてくる。それは異世界の地脈が変化し、未知の菌糸や薬草が繁殖しやすい環境にある証拠だ。
ゼノリスという穏やかな箱庭を出て、魔法と科学の深淵であるアルカディアへ。
アレンの心にあるのは、冒険の興奮と純粋な探求心だ。未知の魔法理論と未知の味覚が交差する、巨大な実験場への期待。
魔導馬車は揺れながら、二つの国家の境界を越える。
株式会社バルツァー・ラボは、今や一介の商店ではなく、この異世界の理を書き換える「自動成長する研究機構」として、その版図を確実に南西へと広げ始めていた。
アルカディア魔法帝国の国境検問所。そこには、アレンの馬車を待ちわびるかのように、真っ赤な絨毯が敷かれ、儀仗兵が整列していた。
「黒曜龍を討伐せし英雄、アレン・ノア殿の御到着だ!」
高官たちが深々と頭を垂れ、国賓としての厚遇を申し出る。アレンにとって、それは意外な展開であった。アレンは単にギルドの依頼で討伐したにすぎず、これは完全に想定外の事態だった。
謝礼は金銭で充分なほど頂いた。このような待遇は無駄なノイズ以外の何物でもなかった。
アレンは馬車の中に置かれた「共有管理帳」をパラパラと捲った。そこには、ゼノリスを出発する際、CEOが書き残した備忘録が記されている。
『国境にて国賓待遇の申し出あり。想定内。全て独断で「要求」を突きつけておきました。結果、帝国全域における行動の自由と、国家最高機密である魔導資料へのアクセス権を確保済み。詳細は帝都の支社にて。――CEO』
アレンはそれを見て、小さく鼻を鳴らした。
「余計な事を……まぁ魔導資料はありがたいな」
アレンは管理帳を閉じ、ペンで何かを書き込むこともせず、ただ無造作に放り投げた。
アレンは馬車から降りた。彼が足を一歩踏み出すたび、騎士たちが畏敬の念を持って道を空ける。
「アルカディア魔法帝国への招聘、感謝する。お前たちの機嫌を取ったり、行儀よく振る舞ったりするつもりはない。俺はただの冒険者だ。未知なる世界の深淵と、まだ見ぬ美味を探求しに来ただけだぞ」
高官たちはアレンの言葉に圧倒され、ただ沈黙をもって平伏した。自らをあくまで「冒険者」と定義するその姿勢に、彼らは政治的な思惑など微塵も持ち合わせていないことを理解した。
高官たちが国王への弁明に頭を抱えようが、アレンには無関係だ。彼が関心を寄せるのは、帝都という未知の環境に何が眠っているかだけである。
「すまない。あとで挨拶くらいはさせてもらう。さて……まずはどこから手を付けるか」
アレンは雑踏の中へと消えていった。背後で高官たちが慌てふためく声も、彼には街の騒音の一つとして聞き流される。冒険者アレンの、帝都における探求がここから始まる。
【導入部 同期エラー】
その移動があまりにも広大な領域をまたぐものであったがゆえに、アレンが国境を越えて進んだ結果、その足跡や影響が天界の「東部管区」や「中央聖域管区」といったエルエルの管轄を離れ、他部署の監視領域へ音もなく波及してゆく。
魔法帝国への国境検問所。アレンが何気ない顔で帝国の領土へ足を踏み入れた。ただそれだけの事だ。
*** 一方天界では
その時天界では、エルエルの担当部署でけたたましいエラー音が響き渡る。
「ピィぃぃぃーピィぃぃぃーピィぃぃぃー」
「――っ、はあ!? なによこれ……!」
周囲を確認した瞬間、エルエルの顔から血の気が引いた。これまでアレンの規格外の行動を「観測誤差」としてゴミ箱へ放り込み、報告書を捏造し続けていた隠蔽工作が、意味をなさなくなった瞬間である。
アレンが帝国の広大な「中央聖域管区」へ入ったことで、異常な魔素を感知しログが強制的に本部メインサーバーへと同期されてしまった。
他の監視担当天使たちが、アレンという「システムのバグ」を真っ向から目視したことを意味する。
【ログの不整合】
他部署の天使たちは、すぐに異常を察知した。
「おい、見てくれ。東の端っこで、特定の座標だけ『重力も空間の距離も、計算式が完全に無視されている』ぞ」
「またどこかの異端者が、何日分もの移動距離をノータイムで踏み抜いたのか? すぐに本部へ異常報告を上げろ」
容赦なく弾き出される不審なデータ。それらは隠しきれず、天上の基幹サーバーへと次々に吸い上げられていく。
『エルエル、これはどういうこと? 東部管区からの転送ログ、異常値が酷すぎます。説明しなさい』
中央聖域管区の天使からの通信が、容赦なく脳内に直接割り込んでくる。
「せんぱ〜い! どうしましょう。私、隠蔽するの反対しましたからね」
と、早速罪のなすり付けが始まる。
「ル、ルカ! あなた裏切るつもり〜うぅぃぅぅ~。薄情!」
【エルエルのパニック】
自室の端末にしがみつき、画面に映し出された真っ赤なアラートの群れを前に、エルエルは冷や汗を滝のように流していた。
普段なら、都合の悪い観測データは自分一人で華麗に改ざんし、適当に圧縮して闇に葬ってきた。
そうやって自分のサボりや身勝手な振る舞いを隠し通し、平穏な日々を謳歌していたというのに――組織横断的な本格的な監査の網が、今まさに彼女の首元に迫っている。
「うそ……嘘でしょ!? なんで他の部署の監視網に引っかかってるのよ……!」
画面には、アレンが道中でボアの群れを空間操作で一掃した際の、生々しい演算履歴が赤く点滅していた。
「あー、もう! 黙りなさいよ! う、うるさい! ……はぁ。センサーの感度調整が少し調子悪いのかな〜。魔素濃度のせいで誤作動が起きただけよ。ピィ〜♪ピュピュ♫」
(吹けない口笛を吹く)
「すぐにログをアーカイブして整合性を取っておくわ。わざわざ本部を煩わせるようなことじゃないでしょ?」
エルエルは必死にキーボードを叩き、ログを圧縮し、不整合を「測定ミス」という体裁で強引に書き換えようとする。
『隠蔽は通用しません。すでに本部が異常を検知済みです。監査が入ります』
「はあ!? ちょっと待ちなさいよ! 誰が通報したのよこのチクリ魔! 私の有給が……私いままでの努力が〜、全部パーじゃないの!」
通信が一方的に遮断される。エルエルは、これまで積み上げてきたアレンの監視という名の「私的な遊び場」が、本部直々の監査によって一瞬で灰になったことを理解した。
彼女は天界の自室で、これから始まる地獄の報告書作成と、最悪の場合の左遷を想像して頭を抱えた。
彼女の頭の中では、すでに「いかに自分の職務怠慢をルカのせいにするか」という、最低の言い訳リストが高速で構築されていた。
これまでのらりくらりと隠蔽し続けてきた不正処理(職務怠慢)が、ついに言い逃れのできないレベルでバレる瀬戸際に追い込まれる。
「アレン……お願いだから、頼むよ今は余計なバグ(問題)を起こさないで……!」
かつてないほど切実な、神(上司)にもすがる思いの祈りを捧げたところで、彼女は慌てふためき地上へと降臨する。
眩い光の渦が収まり、地上に降り立ったそこには、冷や汗を拭う暇もなく頭を抱えて崩れ落ちるエルエルの姿があった。
目の前では、アレンが魔法帝国の地下魔力炉を見上げて、興味深そうに視界にウィンドウを浮かべている。
「――で、一体何の用だ? エルエル」
目の前には、まったく悪びれた様子もなく、むしろ「邪魔をしたな」と言わんばかりの呆れた面持ちを浮かべたアレンが立っている。
その周囲の空間には、いまだに常軌を逸した重力波の余韻と、歪んだ座標の歪みが微かに残っていた。
「何の用だじゃないわよ! あんたねえ、どれだけ派手にやってくれたの!?」
エルエルはガタガタと震える手で宙に展開したホログラムの警告画面をアレンに突きつける。
「東部管区も中央聖域も、今や私の管理画面は真っ赤なアラートの嵐よ! 隠し通すためにこっちがどれだけの胃痛と労力を……って、ちょっと聞いてるの!?」
「勝手に監視網を張っているお前が悪い。俺はただ、目的地へ最短ルートで歩いていたまでだ」
「最短ルートっていうか、お前が踏み抜いたの『空間の物理法則そのもの』だからね!? 普通の人間があんな真似したら、存在ごと宇宙のゴミ箱行きよ!」
ピリピリと張り詰めた空気の中、天上の監査官たちが迫る足音が背後へと近づいてくる。
逃げ場を失えた二人を包み込むように、容赦のない強制召喚の光が再び足元から立ち上るのだった。
【神罰の御前】
眩い強制召喚の光が収まると、そこは先ほどの荒涼とした地上とは打って変わり、無限に広がる純白の神域――『最高裁決の間』であった。
足元には幾何学模様を描く神聖なグリッドが幾重にも敷かれ、その頭上には宇宙の真理を司る巨大な天秤のオブジェが静かに浮かんでいる。
「――おや、ご苦労だったな。エルエル担当官。そして、そちらが今回の件で話題の……アレン君か」
静寂を切り裂いて響いたのは、底冷えするような威圧感ではなく、どこか穏やかで理知的な神の声だった。
玉座の上から見下ろす最高神は、冷や汗を流して平伏するエルエルをひと目見てから、微動だにせず佇むアレンへと柔らかな笑みを向けた。
「神様……! その、色々とご迷惑をおかけして申し訳ありませんっ!」
必死に床に額をこすりつけるエルエルに対し、神は穏やかに手を振って制す。
「顔を上げなさい、エルエル。君のこれまでの報告と、今回のログの不整合について、システム側の記録を精査させてもらったよ」
神は手元のホログラムを軽くスワイプし、穏やかな口調で言葉を続ける。
「結論から言えば、今回の件はすべてが君の責任というわけではない。こちらの管理システム側の想定不足――つまり天界側の観測グリッドに古い仕様が残っていたことが、エラーを拡大させた主な原因だ」
「え……? じゃあ、私の隠蔽工作や職務怠慢は……?」
「それについても厳重注意は免れないがね。ただ、今回のトラブルの本質はそこではない。世界の理そのものが、未知の局面に直面しているということだ」
神は真摯な瞳でアレンを見据えた。
「アレン君。君が歩みによって引き起こした現象は、現在の世界の法では処理しきれない『システムの綻び』そのものだ。私たちが直接、世界の理に介入して修正することは、世界のバランスを崩すため不可能な相談となっている」
「……で、俺にその後始末をしろと?」
アレンが呆れたように問い返すと、神は苦笑交じりに頷いた。
「察しが良くて助かる。そこでだ、君にこの世界の各地で起きる『理の歪み』の解決を依頼したい。もちろん、タダとは言わない。協力してくれるというのなら、君の旅を助けるための正規の手続きを経て、空間を拡張し収納を自由にする『特殊アイテムボックス』の譲渡を約束しよう」
「……ふん。悪くない条件だな」
アレンが小さく息を吐いたのを確認し、神は満足そうにうなずいてから、傍らで青ざめているエルエルへと視線を移した。
「そして、今回の管理不行き届きと監査網の混乱の処分についてだが――エルエル、君には今日付けで『管理官』の資格を剥奪する」
「なっ……! そんな、私の平穏な日常が……!」
「左遷人事だ。今後はアレン君の『専属助手』として地上へ派遣し、彼の旅のサポートおよび監視を義務付ける。
身分としては、いわゆる『派遣社員』のようなものだと思ってくれたまえ。現地では予算も最低限だ、月に銀貨20枚といったところかな。
せいぜい安宿にでも泊まり、安いエールでも飲みながら節約に励むことだな」
神の淡々とした宣告に、エルエルはその場で盛大に崩れ落ち、絶望の声を上げるのだった。




