34話:株式会社バルツァー・ラボの設立
押し寄せる貴族たちへの対応を「個人」で行うことは、時間という最も貴重なものの浪費であると判断した。
俺は直ちに、貴族から提示された潤沢な資金と、冒険者として蓄えた自己資金を統合し、法的な枠組みを作り上げることにした。
「……『株式会社バルツァー・ラボ』。これが、栄養管理および身体機能最適化を目的とした法人だ」
俺は執務室で、辺境伯から派遣された書記官に淡々と指示を飛ばした。
この世界の貴族は「株式会社」という概念を持たない。だが、俺が提供する『調整剤』の独占的価値を人質に取れば、法制度そのものを上書きすることは容易だ。
俺の戦略はこうだ。
資金の透明化: 貴族からの出資を「投資」という名目の資本金に変換。
責任の限定: 調整剤による効果や副作用の責任は、法人格である『バルツァー・ラボ』に帰属させる。
ブランドの構築: 俺が直接対応するのではなく、ラボが認定した「管理スタッフ」が食事の摂取状況を監視する。
「アレン様、この……株主への配当、というのはどのような……?」
「配当は利益の分配ではない。ラボが生産する『最新の調整剤』への優先購入権だ。……配当を現金で欲しがるような低能は、そもそも我が社の株主には向かない」
俺は静かに言い放った。
貴族たちは、その「株主」という権利を得るために、さらに莫大な資金を積み上げる。彼らにとってそれは経済活動ではなく、自身の階級を証明するためのステータスゲームなのだ。
そして、集まった資金は迷わず「研究開発費」へと充てた。
城の地下を改修し、錬金釜を増設。魔素の流出を抑制するための魔法障壁を設置。さらには、薬草の栽培効率を最大化するための温室を構築した。
それは、もはや錬金術師の工房というよりは、高度なバイオ研究所と呼ぶべき場所へと変貌を遂げていた。
俺はデスクの上のモニター――魔法で出力した結晶盤――に映し出された財務状況を眺める。
資本金は潤沢。事業は独占。そして何より、クライアントである貴族たちが、俺の策定した「厳しい食事管理プログラム」を喜んで実行している。
「……合理的だ」
俺は深々と椅子に寄りかかった。
かつて自分が求めていた『最強の身体』への道は、今や巨大な経済循環を組み込むことで、加速的に構築されようとしている。
だが、この状況は同時に、俺を「ただの冒険者」から「この世界の仕組みを裏から書き換える経営者」へと変貌させていた。
その時、執務室の扉がノックされる。
入ってきたのは、かつて俺に難癖をつけてきたあの側近だった。しかし今の彼の態度は、以前とは比較にならないほど卑屈で、そして切実だった。
「アレン社長……。辺境伯閣下が、新たな『共同研究』を希望されているのですが……」
俺はペンを走らせる手を止め、冷たく言い放つ。
「……申請は後回しだ。今は、ラボの生産効率向上が最優先事項だ。……辺境伯と言えど、我が社の優先順位を乱すなら排除する」
こうして、貴族社会にどっぷりと浸かりながら、誰よりもドライにその富を吸い上げる、前代未聞の冒険者経営者が誕生した。
【決戦の序曲:座標0(ゼロ)の静寂】
ベストルム大陸北東。中規模国家として確固たる地位を築いてきたゼノリス王国は、今、建国以来最大の危機に瀕していた。
大陸を支配する魔法帝国アルカディアとの国境、その峻険なる山岳地帯に、世界の理を歪める「災厄」が迫っていたからだ。
幸いにも魔法帝国アルカディアとは強固な同盟関係にあり、帝国の多大な資金援助と軍備提供によって、最前線の防衛線は辛うじて形を成していた。
さらに、帝国の南方に位置するクレイズ神聖王国、レムリア法皇国という、戦力規模を超越した戦力を擁する二国も準同盟として名を連ねている。
これらの国家は、この未曾有の事態を重く見て、緩衝国として静かに、しかし着実に戦域を包囲していた。
国家の命運を分かつ開戦を前に、ゼノリス王国全土には国民への避難指示が発令された。避難誘導班が北東の街へと列を成す人々の安全を確保する
一方で、アレンが立つ山頂付近は、もはや人の領域を逸脱した極限の戦場と化していた。
作戦遂行のため、後方100kmの救護班を起点に、凡そ10kmおきに物資供給および搬送拠点が構築された。食料、武器、消耗資源――アレンの戦いを支える「血脈」が、山脈に沿って幾重にも張り巡らされている。
人々の避難と軍の配置が完了し、戦場に静寂が訪れる。
アレンがゆっくりと歩を進めると、眼前の大気が歪んだ。蜃気楼と共に浮かび上がるのは、空間そのものを食らい尽くさんとする巨大な影。
黒曜龍――その絶望的な破壊の化身が、半年の沈黙を破り、ついにその牙を剥こうとしている。
切り立った岩場にアレンが立つ。彼の視界には、人間には知覚できない数式が浮かんでいた。
空間の歪み、奔流する魔力の流れ、光の屈折率。世界を構成するすべての要素が、アレンの「空間操作」によってミリ単位で制御されている。
「準備は……完了だ」
アレンの言葉は、山肌を吹き抜ける風の音にかき消された。しかし、その声に迷いは一切ない。
彼の精神は冷徹な思考回路と化し、迫り来る「黒曜龍」という名の脅威を、論理的に葬り去るためのカウントダウンを開始していた。
雲間から差し込む月光が、アレンの携える大刀を冷たく照らし出す。
世界の歪みを正す、神にも等しき戦いの幕が、今上がった。
【凍結の牙城と、物理法則の終焉】
アレンが両手を突き出すと、数十メートル間隔で幾何学模様の魔法陣が連鎖的に展開された。
高度に制御された空間魔法の陣列――それは、対象を反対側の側面へと反転・加速させる、前代未聞の「空間レールガン」である。
砲弾となるのは、強固なアダマンチウム合金にアルミナコーティングを施した、耐酸化と強度を極限まで高めた化け物じみた一撃だ。
アレンは隠蔽していた魔素のロックを解除し、自らを無限機関へと変貌させる。
ゴガァァァァァァ……ッ!!
地鳴りのような咆哮を切り裂き、レールガンが火を吹く。
――ッダァンッ! ダダァンッ! ダダァンッ!!――
音速を突破する破砕音が連鎖し、地を揺らす重低音と耳を突き刺すソニックブームが戦場を蹂躙する。
轟音の奔流を纏った弾丸が黒曜龍の懐へと突き刺さったが、およそ半数はその強固すぎる鱗に弾かれた。
「……流石に硬いな」
アレンは魔素を容器に見立て、大気を強引に圧縮する。
――押し込み、押し込み、押し込み、押し込み。
臨界点を超えた魔素筒の中で空気が相転移し、マイナス200℃の液体窒素が生成される。
アレンは助走をつけて跳び上がると、その超低温の液塊を黒曜龍の鱗へと一気に放出した。
瞬時に白く霜が広がり、黒曜の鱗が凍てつく。脆くなった防御を見逃さず、アレンは間髪入れずレールガンをぶっ放した。
――ズドォォンッ!!
「ぐがぁぁぁぁぁッ!!」
堪らず唸りを上げた黒龍の鉤爪が、空を裂いてアレンを襲う。
だが、紙一重で躱しざまにクナイを投擲。弾き飛ばされた龍の爪が、遠く山麓の街の外れへと墜落し、大地を抉った。
「ハァ……ハァ……っはぁ、お前……硬すぎんだよ」
アレンは肩で息をしながらも、その瞳から冷徹な光を失わない。
「俺に呪文すら唱える暇も与えねぇなんて、あり得ねぇだろ。……なら、一旦死ね」
アレンは残る全魔素を練り上げ、最後の詠唱を開始する。
黒龍を巨大な魔力の膜で覆い尽くすと、物理的に空間を隔離し、内部の空気を高圧の液体窒素へと強制的に置換した。
完全なる真空の隔離空間と、絶対零度の冷気。
「生物なら死ぬんじゃないか? ……欠かせない酸素を欠いたこの空間じゃ窒素100%だ。人間なら吸った瞬間に一呼吸で死ぬんだけどな」
アレンの言葉通り、龍の咆哮は急速に弱まり、戦場には冷たい静寂が降り積もり始めていた。
「はぁ~……最初からこうすれば良かったかな。……ん?」
アレンがふと周囲の空間に違和感を覚えたのは、その直後だった。
先ほどまでの死闘を嘲笑うかのように、山脈の彼方や雲の合間から、何千、何万という「視線」が降り注いでいることに気づく。
「……観客満員御礼じゃないか。くっそ……!」
アレンは忌々しげに顔を歪める。彼の冷徹な思考は、何者かによって「見世物」へと書き換えられていた。
「俺の演技を、勝手に奪いやがって……!」
龍の断末魔をBGMに、アレンは空を見上げて悪態をつく。彼が最も嫌う「台本通りではない展開」が、この凄惨な決戦の舞台で幕を開けようとしていた。
【論理の崩壊と、観測者への呪詛】
アレンは安酒の瓶を握りしめ、机に突っ伏していた。
先ほどまでの冷徹な思考、常識を打ち破る神の如き姿はどこにもない。ただの、感情を制御できなくなった一人の男がそこにいた。
床には溢れた酒と、彼が流す涙が混ざり合い、黒ずんだ染みを作っている。
「どうしてだ……どうして……!」
しゃくり上げるたび、肩が大きく震える。
「……あいつら、ずっと見てやがったんだ。俺が、あんなに必死に……魔法を組んで、作戦を導き出して……! なのに、観客がいたんだ……見せ場だったのに!」
「ううぅわぁ〜ん」と子供のように声を上げて泣きじゃくる。その姿はあまりに痛々しい。
「演技すらできなかった……! 俺はただ、敵を攻撃して、この歪な世界を初期化しただけで終わったんだ……ッ!」
安酒の悪酔い、孤独感、そして「観客」という不特定多数の視線に晒されなかった(期待された輝きを魅せられなかった)屈辱が、彼の精神を蝕む。
「台本どころか、俺の動線すら理解されてねぇ。一世一代の晴れ舞台なのに……っ!」
彼は床に伏せたまま、誰に届く当てもない言葉を呟き続ける。
――その脳裏で、先ほどの戦いの様子が再生される。
眼球に怒りが走る。ターゲット捕捉。奴の攻撃を優雅に回避し、神経が限界を超えて癇癪を起こす。
『瞬殺』――滑らかに繰り出された一撃。
悲鳴を上げる鳴き声すらない。完全に機能停止。
まだ熱の残る死体を、時空トランクケースのインベントリへと丸ごと一瞬で全格納した。
「……完璧な台本だったはずだろ」
理路整然と構築されたはずの彼の世界は、今やただの散らかった作業場と、零れ落ちる涙の海に沈んでいた。
【黒曜討伐報酬】
冒険者ギルドの奥、重厚な扉の向こう側で、ギルドマスターは信じられないものを見る目でアレンを見つめていた。デスクの上には、討伐の証として提出された黒曜龍の鱗と、契約を完了させるための書類が整然と並べられている。
「……本当に、たった一人で成し遂げたのか。アレン・ノア、君の伝説は本物だな」
ギルドマスターが震える手で差し出したのは、重厚な革袋だった。中には、王室の承認印が押された聖金貨が詰まっている。
ずっしりと重いその感触は、アレンにとって単なる対価ではなく、自身の「技術」がこの世界において、いかに高く評価されたかを示す証拠でもあった。
アレンは表情一つ変えず、その革袋を受け取ると、淀みない動作で自身の腰に下げた。
「報酬は正確に受け取りました。今回の討伐は、あくまで私の構築した戦術の検証の一環に過ぎません。……結果は良好、といったところですね」
彼は事務的な口調でそう言い放つと、ギルドマスターの驚愕を背後に残したまま、踵を返した。
廊下を歩きながら、アレンは頭の中で計算を走らせる。
聖金貨30枚(30億円)。これで手元の現金は30億500万円。ラボの株式資産4,000万円と合わせれば、総資産は30億4,500万円に達する。
アレンは歩みを止め、ギルドの壁に手を当てて思考にふけった。彼の頭の中にある高度な計算力は、突如としてこの膨大な資金を、市井の生活基準という「身近な単位」に変換し始めた。
「まずエールだ。王都で一番の酒場なら、樽生が一杯500円(銅貨5枚)といったところか。30億500万円あれば……」
アレンの頭に計算結果が浮かぶ。
「……601万杯。毎日100杯飲んでも、理論上は164年以上生存可能ということか。過剰な予算だな」
次に彼は、大好物のステーキセットを試算する。大銅貨3枚(3,000円)の標準価格をベースにする。
「王都の『銀の食卓』の特選ヒレステーキセットが3,000円。これならばコストパフォーマンスは最適化されている」
アレンは指先で空中に数字をなぞった。
「30億500万円 ÷ 3,000円 = 1,001,666食。毎日3食ステーキを食ったとしても、913年間は消費できる計算になる」
アレンは満足げに頷いた。
「これなら『資産の寿命』は私の寿命よりも長い。実質的に、食事という『糧を得る手段』に対する永続的なアクセス権を確保したのと同じだ。毎日最高級の食事を摂り続けても、資金が枯渇する懸念はゼロに等しい」
彼はふっと笑みをこぼした。
「エール601万杯分もの流動資産を持ちながら、ステーキを食い続けても900年持つ。……実に合理的な一石二鳥だ。さて、まずはこの資金を使って、ラボの自炊環境を最適化する仕組みを組むべきか。安価な食材で最高級の味を再現する、方法の改善が必要だな」
傲慢な天才は、30億円の重みを感じながら、夕食の献立という名の「次なる計画」へと没頭していった。




