25話 お姫様抱っこの座標計算
「アレンさん! 大変なんです、西の森の奥でまた妙な魔素の揺らぎが――って、ひゃあああ!? ジョ、ジョッキがまた浮いて、いや、消えっ……!?」
翌朝。ギルドのロビーに駆け込んできたミアが、俺の前のテーブルを指差して目を丸くしていた。
俺は「あ」と思い、見えない左手で保持していた空のジョッキを慌ててテーブルに置く。屈折率の調律を緩めると、すうっと左手が空間から染み出すように現れた。
「……おはよう、ミア。ちょっと考え事していただけだ。それより、西の森がどうしたって?」
「あ、はい! ギルドの観測魔道具に、一時的ながら凄まじい空間歪みが記録されたんです。もしかしたら高位の転移魔獣が現れた可能性があって……」
ミアが提示した羊皮紙のデータシートを覗き込む。
……あー、これ、昨夜俺が酒場で重力場を強引にねじ曲げた時の熱暴走エネルギーの余波だな。ギルドの魔道具、意外と感度が良くて困る。
「なるほど、それは放っておくと面倒なことになるな(主に俺の異能がバレる的な意味で)。よし、俺が様子を見てこよう」
「あ、私も同行します! 観測器の調整もありますし!」
こうして俺たちは西の森へと足を踏み入れた。
だが、森の奥へ進んだところで、事態は物理的な意味で急変する。
ゴゴゴゴゴ……!
「きゃあ!? じ、地震……!?」
「いや、地滑りだ。上の崖が崩れてやがる」
上空を見上げると、一抱えもある巨岩と数トンの土砂が、猛烈な勢いでこちらへ自由落下してきていた。
まともに食らえば肉片も残らない。ミアは恐怖で完全に足がすくんでいる。
避けるのは簡単だ。俺一人なら一瞬で可視範囲の外まで加速して離脱できる。
だが、問題はミアをどうやって運ぶかだ。
「前回の『小脇に抱えて全力疾走』の時は、急激な加減速によるGでミアの三半規管を刺激して、危うく俺の服に胃の中のものをぶち撒けられるところだったからな……」
同じ過ちは繰り返さない。俺は優しい男だからな。
人間が急激な移動で「吐く」のは、移動速度そのもののせいではない。速度の変化――すなわち『加速度(G)』が三半規管のリンパ液を揺らし、脳に異常を検知させるからだ。
ならば、アレン・ノア式・超精密お姫様抱っこの出番である。
「ミア、暴れるなよ」
「えっ!? ひゃ、お姫様だっ――」
俺はミアを横抱きに抱え上げると同時に、極薄の「多層構造魔素バリア」で彼女の全身を包み込んだ。
これから行うのは、慣性制御。
俺の身体が超高速で踏み出し、そして急停止する際、ミアの身体が受けるべき『慣性力(F = ma)』のベクトルを、魔素の膜がすべて吸収・相殺するように座標計算を走らせる。
アレン(慣性系A)は音速手前まで加速するが、ミア(慣性系B)にとっての局所空間は、常に「静止状態(加速度ゼロ)」に維持されるように空間の歪みを調律する。
アインシュタインの等価原理を逆用し、加速によって生じる見かけの力を、魔素の逆方向へのベクトル圧縮で完全に相殺するのだ。
「システム起動。魔素密度、勾配急峻化――行くぞ」
ドォン!
背後で凄まじい土煙が舞う。俺は一歩で数十メートルを跳び、さらに急激な方向転換を繰り返して土砂の雨をすり抜けていく。
普通の人間なら、脳がシェイクされて即座に気絶するか、凄まじい遠心力で首の骨が折れている。
しかし、俺の腕の中にいるミアは――。
「え……? あれ……?」
不思議そうな顔をして、自分の髪がふわりと無重力のように浮いているのを眺めていた。
彼女の視界では、周囲の景色が恐ろしい速度で後ろに流れていくのに、肌を刺す風もなければ、急発進や急ブレーキの「体が引っ張られる感覚」が、一切、一ミリたりとも存在しないのだ。
「な、なんですかこれ……? まるでお部屋の中で、浮かんでいるみたいで……全然、気持ち悪くないです……!」
(だろう。慣性力の局所相殺だ。)
ミアが受けるべき加速度は、すべて俺の周囲の空間が熱として肩代わりして逃がしている。
ズザザザザッ!
土砂崩れのエリアを完全に離脱し、平坦な地面に着地して停止する。
俺の周囲の空気は、ショックアブソーバーの役割を果たした魔素の過負荷により、キィィィンと高音の金属音を立てて熱を発していたが、ミア自身は汗一つかいていない。
「……ふぅ、実験成功だな」
「す、すごいですアレンさん! 全然揺れませんでした! まるで魔法の絨毯に乗っているみたいで……!」
目を輝かせるミアをおろしつつ、俺は視界の端に現れた不穏な文字列を眺めていた。
【身体強化:Lv.3】 ⇄ 【慣性制御:Lv.Error(未認可物理演算)】
【Warning: Spatial coordinate "Mia_Seltz" has violated Newton's laws of motion.】
【警告:慣性質量のシステム書き換えが検出されました。天界監査を要請――】
やはり、ニュートン力学を真っ向から真似をすると、世界の監視システムが激しくアラートを上げるらしい。
だが。
【Error: Auditing process was forcefully terminated by character "L_L" (Reason: "No more overtime work").】
「……本当に、神界のエルエル様様だな」
あいつが過労死する前に、早くこの「空間の慣性や質量を丸ごとポケットに放り込む」ための【空間操作】を形にしてしまおう。
俺は熱を持った空気を手で払いながら、森の奥へと歩みを進めるのだった。
【その距離、ゼロセンチメートル】
土砂崩れエリアを抜けた先、森の最深部。俺たちの前に立ち塞がったのは、ギルドの魔道具が警報を感知した真の原因――ではなく、ただの「めちゃくちゃ巨大な岩」だった。
先ほどの地滑りで崖の上から転がり落ちてきたのだろう。直径十メートルはあろうかという巨岩が、V字状になった谷の狭路を完全に塞いでいる。
この岩のせいで、奥へと続く一本道が完全に遮断されていた。
「うわぁ……完全に道が塞がってますね。アレンさん、これ、迂回するとなると隣の尾根まで回らなきゃいけないので、丸一日かかっちゃいますよ?」
ミアが観測器を抱えながら、絶望的な顔で溜息をつく。
丸一日。それはつまり、今夜の定食屋の仕込みの時間に間に合わないということであり、キンキンに冷えたエールとボアのステーキを味わう権利が、俺の手から滑り落ちることを意味する。
(……避けて歩くなんて結構な距離になる、そんなの絶対に御免だ。目の前に目的地があるなら)
「直線距離で進めばいい」
「え? でも、この大岩を壊すんですか? そんなことをしたら、また衝撃で上の崖が崩れて――」
(壊す? いや、そんな脳筋な真似はしない。質量を破壊すればその分の運動エネルギーが周囲に霧散して二次災害が起きる。それはスマートじゃない。)
(要するに、この岩のせいで「俺のいる位置(座標A)」から「岩の向こう側(座標B)」までの距離が、物理的に遠回りさせられているのが問題なのだ。)
ならば、答えは一つ。
(光を曲げて、重力を逃がして、慣性を相殺できたんだ。だったら、空間そのものの『進路』を歪めて、ここと向こう側の距離をゼロに縮めればいい)
これまでの実験で、俺は魔素を使って空間の幾何学的構造に干渉する術を学んだ。
アインシュタインの一般相対性理論において、空間は平坦な紙ではなく、エネルギーによって伸縮するゴムシートのようなものだ。
俺は体内の魔力(現在一千兆(1.12e15)の臨界点で一時ロック中)から、ごく微量――しかし極めて高密度な魔素を抽出し、俺の目の前の空間座標と、岩の向こう側の空間座標の二点にそれぞれ「アンカー」として打ち込んだ。
そして、その二つの座標の間に存在する空間の曲率を、局所的に最大化する。
二点を結ぶゴムシートを、指先でギュッとつまんで密着させるイメージだ。超ミクロな簡易版ワームホール――アインシュタイン・ローゼン橋の局所形成。
「ア、アレンさん……? なんだか、岩の周りの空気が、ぐにゃぐにゃに歪んで……ひゃっ!?」
ミアの悲鳴。
俺たちの目の前にある巨岩の表面が、まるで熱した飴細工のようにドロリと歪み、その中心に「向こう側の景色の断片」が万華鏡のように映り込み始めた。空間の位相が狂い、光の経路が完全にショートカットされている証拠だ。
「よし、位相結合。座標の距離、ゼロセンチメートル」
俺はミアの手を掴み、目の前の「歪み」に向かって、ただ普通に一歩を踏み出した。
感覚は全くなかった。
ただ足を前に出した、それだけだ。
しかし、次の瞬間。
「え……? あれ……?」
ミアが呆然と声を漏らす。
振り返ると、そこには先ほどまで目の前にあったはずの「巨大な岩の裏側」があった。
俺たちは岩を破壊することも、登ることも、迂回することもなく、文字通り空間の隙間を『すり抜けて』、一瞬で岩の向こう側へと移動していたのだ。
「す、すり抜けた……!? 壁抜けの魔法……!?」
ミアが観測器の数値を二度見、三度見しながらガタガタと震え始める。
俺は「やれやれ、これで今夜のステーキには間に合うな」と一安心したが、俺の脳内はそれどころではなかった。
視界の端で、過去最大級の真っ赤なエラーログが、大音量のアラート(脳内幻聴)と共に爆発した。
【⚠️Critical Error: Thread "Spatial_Geometry" split detected.】
【空間操作:Lv.0】 ―― 認可条件「世界律の段階的理解」を満たしていません。
【Warning: Authorization bypass detected. Character "Allen_Noa" has forced write access to absolute coordinates.】
【警告:システムエラー。該当スレッドの強制終了を試みます――】
世界の根幹である「空間」を力技で折り畳んだのだ。システムの防衛プログラムが牙を剥くのも無理はない。
だが、その素っ気ない警告文を、斜め上からの「物理的な暴力(神権)」が力ずくで叩き潰した。
【Error: Debug-thread was completely deleted by Administrator "L_L".】
【ログ文言:「もう無理!システム止まったら私の査定が死ぬ!エラー吐くな!!実質Lv.1ってことで処理通すから!!お願いだから大人しくしてアレン!!」】
【――処理を変更します】
【空間操作:Lv.0】 → 【空間操作:Lv.1】
【システムは正常に(涙目で)処理を継続します】
「……うん、やっぱりエルエルは優秀な管理者だな」
裏でどんな血尿もののデバッグが行われたのかは知らないが、無事に【空間操作】がLv.1としてシステムに正式認可された。
これで、空間を「切り取る」理論的基盤は全て揃った。
「よし、ミア。用事は済んだ(岩を抜けた)し、暗くなる前に街に戻ってエールを飲もう」
「え、えええ!? 森の奥の調査は不問ですか!?」
混乱するミアを促し、俺は再び空間をちょいと歪めて帰り道をショートカットする計算を始めながら、足早に歩き出すのだった。
【エルエルの怨み節】
朝は未だ肌寒い季節、しかも小雨が降る天気だった。対面の路地で一人の少女がずぶ濡れで此方を恨めしそうに睨んでいる。
「俺、なんか恨まれるようなことしたかな?」
心配になった俺は紳士的に近づき声をかける。
「どうかしましたか? 大丈夫ですか?」
ふるふる震える少女……。
「だ……大丈夫?
大丈夫なものですか! 誰のせいで私の『有給』内緒で使っていると思っているの!」
「!?......あ、」
「ひょっとして、駄女神?」
「だ、駄女神ですってぇぇ!? 誰が駄女神よ! 私はこれでも天界監察局の敏捷なトップエリート、エルエルよ!……って、自分で言わせないで、この世界律の破壊魔!!」
少女――いや、人間の肉体を依代にして無理やり現界したエルエルは、ずぶ濡れの金髪を振り乱しながら、アレンの胸ぐらを掴んで激しく揺さぶった。通りすがりの冒険者たちが「おい、あのアレンが女の子を泣かせてるぞ……」「修羅場か?」とヒソヒソと囁きながら通り過ぎていく。
「ちょ、ちょっと待ってくれ。有給ってなんだ。それにその格好……」
「格好じゃないわよ! あなたが昨日、西の森で『質量とエネルギーの等価原理がどうの』とか言って空間を雑巾みたいに絞り込んだせいでしょ!? 神界のサーバーが真っ赤な警告灯で大爆発したんだから!」
エルエルはハンカチをキッと噛み締めながら、涙目でアレンを睨みつける。
「上層部にバレたら私の『キャリア』が死ぬの! だから『有給休暇の申請書』を偽造してデバッグルームに籠もって、徹夜であなたの残した時空間の歪みを一文字ずつ手動でパッチ当てしてたのよ! なのに、現界するための座標をちょっとお借りしたら、この大雨の路地裏にパイルダーオンするなんてどういうこと!?」
「あー……。確かにあの時、空間の歪みの逃げ道を、適当に丸投げした記憶があるな」
アレンは顎に手を当てて納得した。スネルの法則や一般相対性理論を力技でねじ込んだ際、帳尻合わせのために空間の「排熱処理」を行った座標が、まさにいまエルエルが立っているこの路地裏だったのだ。
「理詰めで納得しないでよ! おかげで私の大切な有給(実質残業)が、あなたの尻拭いで全部消し飛んだの! 責任とりなさいよ! 美味しいもの奢りなさいよ!」
お腹が「きゅ〜〜」と情けない音を立てるエルエル。神の肉体とはいえ、地上に器を作って降りてきた以上、エネルギーの消費(代謝)からは逃れられない。
「……ハァ。分かった。悪かったよ、優秀な管理者様。ちょうどこれから、昨日のボア肉の残りを融通してもらいに酒場へ行くところだったんだ。お詫びに特上のステーキと、美味いエールでも奢る。それで手を打ってくれ」
「ステーキ! エール! ……ふ、ふん、当然の権利ね。私の労働価値は金貨3枚ぶん(神界予算規模のデバッグ)なんだから、お肉は一番厚いやつにしなさいよね!」
さっきまでの怨み節はどこへやら、ステーキの単語に一瞬で目を輝かせたエルエルは、アレンのコートの裾を掴んで「案内しなさい!」と急かす。
アレンはため息をつきながらも、ふと彼女の濡れた身体を見て、脳内で熱力学の計算を走らせた。
(……この寒さでずぶ濡れは、人体の免疫力を著しく低下させるな。どうせ人様から借りた器なんだろうし、エールを飲む前に体温の調節しておくか)
アレンが一歩踏み出すと同時に、臨界点でロック中の魔力から、数滴ほどの魔素を抽出。エルエルの周囲の空気分子に「超微細な高周波振動」を与え、摩擦熱を局所的に発生させた。
ジジッ……。
エルエルの身体から一瞬にして白い湯気が立ち上り、濡れていた服と髪が、まるで最高級の乾燥機にかけられたかのようにフワフワに乾いていく。
「ひゃあ!? な、何これ、あったかい……っていうか、あなたまた神界の物理演算サーバーに変な負荷かけてない!?」
「ただの分子の摩擦熱(電子レンジの応用)だ。服を乾かしただけだろう」
「それがおかしいって言ってるのよおぉぉぉ!」
天界の管理端末室では、ルカがまたしても「あ、先輩が地上に降りた途端に、周辺の熱量パラメーターが局所熱暴走を起こしてる……」と頭を抱えていたが、エルエルは目の前のステーキの誘惑に負け、すでにそのログを脳内で「見なかったこと」にゴミ箱へドラッグ&ドロップしていた。
こうして、世界を裏で困らせる男と、それを涙目で隠蔽する社畜女神の、最悪で最高な「お食事会」が幕を開ける。




