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小説の先にある世界  作者: 藤咲玲


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24/121

24話:ベアとボアどっちだっけ

 いつものように騒がしい空気が漂う冒険者ギルド併設の酒場にて、アレンはいつも通りの定位置のカウンター席に腰を下ろしていた。


「親っさん、とりあえずいつものエールを一杯頼むわ! あと、メニューにあるならステーキを……そうだ、ワイルド・ボアの肉はあるか? あの野性味あふれるぶ厚い肉は、噛むと脂がちょうどいい感じでジューシーに口の中に広がって美味いんだよな~」


 そう言って気さくに声をかけると、カウンターの向こうでグラスを拭いていた酒場の親っさんは、困ったような、しかしどこか呆れたような顔をして首を横に振った。


「おや、あんちゃん。あいにくそのワイルド・ボアの肉なんてものは、うちの店じゃすっかり切らしちまったよ。最近の若い冒険者連中は、ベア系の魔物なんかを見かけてもろくに依頼を受けようともしないからな。やっとの思いで討伐したとしても、ギルドに提出するための証明部位だけを切り取って、それ以外の美味い肉がたっぷり詰まった重い胴体部分は、そのまま現地にぽいっと捨てちまうらしいよ。まったく、最近の若い奴らは贅沢でいけねえや」


 それは耳を疑うような、あまりにももったいないとんでもない情報だった。そんな上質な食材を野ざらしにするなんて信じられない。勿体ない……いや、でも俺自身がもしその場で解体して持ち帰るとなると……やっぱり、そのまま捨てるか。だって、肉の塊なんてどう転んでもかさ張るし、持ち運ぶだけで面倒くさいからな。


「……ま、愚痴ってても仕方ねえか。そんなに美味い肉が惜しいなら、いっそのこと自分で取りに行くか」


 アレンがそう呟くと、親っさんは面白そうに髭を揺らしてニヤリと笑った。


「ほう、あんちゃんが自分で狩ってくるってのか? ならば話は早い。もし本当にワイルド・ボアの新鮮な肉をまるごと一頭分持ってきてくれるなら、その場でちゃんと綺麗に血抜きをして処理してあることが条件だが……うちで高く買い取ってやるし、何よりこの厨房で最高の料理にしてやるよ。頼んだぜ!」


 そう言われたらもう行くしかない。俺は今から極上の酒の肴、つまり最高のツマミを自らの手で調達しにゆくための準備を淡々と進める。


 町の西側に広がる鬱蒼とした森、そのさらに奥深くへと歩みを進めると、せせらぎの音が心地よい清らかな沢に行き当たる。どうやら、その周辺の一帯がワイルド・ボアたちの日常的な水飲み場であり、よく出没するお気に入りのポイントらしい。周囲の様子を警戒しながら、俺は物陰に身を隠しつつ、そっと腰に下げていた特製の匂い袋の紐を解いた。中に入っているのは、以前調合した、野獣たちの強烈な食欲を本能的に刺激する特殊な香辛料の混ざった匂い袋だ。


 風下に身を置き、静かに待つこと数時間。草木をガサガサと揺らしながら、狙い通りに巨体のワイルド・ボアが姿を現した。奴の視線がふと、隠れていたこちらと真っ直ぐに交わる。瞬間、野生の獣特有の警戒心と怒りが爆発したのか、ボアは一瞬で興奮状態に陥り、地響きを立てながら狂ったような勢いでこちらへ一直線に突進して来た。


 凄まじい突進の勢いに呑まれることなく、俺はギリギリのタイミングでその巨体の脇をすれ違いざまに飛び退く。その刹那、手元に構えていた鋭い短剣を、奴の急所である首筋の静脈へと正確無比に深く挿し込んだ。


 流石に一撃で即死とはいかなかったが、大量の血が失われていくにつれて、ボアはみるみるうちにその巨体を支えきれなくなり、やがて眠るように静かに地面へと倒れ込み、二度と動かなくなった。


 ここからの手際が肝心だ。職人技のような正確さで、まずは完璧な血抜きを行う。さらに、巨体を後ろ足から逆さにしっかりと吊るし上げ、思い切って太い大動脈を完全に切断する。内部の汚れた血をすべて絞り出した後で、手際よく腹部を綺麗に切り開き、独特の臭みの原因となる内臓を一気に掻き出し、あらかじめ掘っておいた穴の中へとまとめて捨てた。ちなみに、モツ系部位は個人的に一切喰わない主義だ。……いや、単にあのベタベタした面倒くさい下処理と洗浄作業が心底嫌いなだけなのだが。


 血抜きと不要な内臓の処理が終われば、あとは綺麗な食用部位だけを素早く切り分け、衛生的で頑丈な特製の葉にしっかりと包み込む。それをあらかじめ借りてきていた頑丈な大型の収納袋に押し込み、準備完了だ。これにて、俺様のための極上のツマミの出荷準備が整ったというわけだ。


 ※


「おっ、おかえり! お待ちどうさん……って、おいおいおいおい、あんちゃん! 本当にこれっぽっちの短時間で、マジであのワイルド・ボアの肉を持ち帰ってきやがったのか!?」


 ギルド併設酒場の薄暗い厨房裏、俺がドサリと差し出した大振りの葉包みを開けるやいなや、親っさんは飛び出さんばかりに目玉を丸くして仰天していた。


 包みの縛りを解いて中身を完全に広げると、そこから現れたのは、プロの職人もうっとりするような見事なロースとバラの巨大な塊肉だった。肉の表面には余分なドリップや水分が一切浮いておらず、野性味あふれる強靭な生命力を物語る一方で、触れなくても分かるほど瑞々しく鮮やかな深い赤色を保っている。


 親っさんは思わず感嘆の声を漏らしながらその肉に顔を近づけ、鼻をヒクヒクとさせて入念に匂いを嗅いだ。それから、納得したように深く、何度も力強く頷いてみせる。


「……こいつはすげえ、完璧だ。獣特有の嫌な臭みが鼻を突く匂いが一切しねえ。間違いない、仕留めてから一瞬の迷いもなく即座に頸動脈を落としたな? 心臓の自然なポンプ作用を利用して、内部の血が隅々までこれ以上ないほど綺麗に抜けてやがる。それに、内臓を素早く処理したから熱が肉に移った形跡もまったくないし、その後の外気による冷やし込みの加減も完璧だ。そこらの経験豊富なベテラン猟師のじいさんたちでも、ここまで手際よく完璧な処理をやれる奴はそうそういねえぞ、一体どうやって……」


「へへん、どうだ、参ったか。最高の美味いツマミを心置きなく食うためなら、俺のこの華麗な短剣捌きなんて、ギルド長のしょうもない剣技よりもよっぽど冴え渡っているのさ」


「大口を叩きやがって、まあこれだけの腕前を見せられたら文句も言えねえな。だがな、この最高の状態に仕上がったボアの肉なら、どんな料理にしても文句のつけようがねえ極上の品になるぜ。よし、約束通りうちの店自慢の特上のステーキにしてやるよ! この分厚い肉の脂身が持つ最高の美味さを一番引き出せるように、強火で一気に表面をカリッと香ばしく焼き上げて、中は肉汁を閉じ込めた極上のレア気味に仕上げてやるから、そこの席で大人しく待ってな!」


 親っさんは機嫌をすっかり良くし、楽しそうに陽気な鼻歌を歌いながら、巨大な鉄板に豪快に火を入れて調理を開始した。


 それからわずか数分後、厨房の奥から漂ってきたのは、食欲を暴力的に刺激する香ばしい肉の匂いだった。じゅうじゅうと威勢の良い激しい音を立てながらテーブルへと運ばれてきたのは、厚さがなんと指3本分はゆうに超えている、圧倒的な存在感を放つワイルド・ボアの特製ステーキだった。鉄板の熱で溶け出した上質な脂が、肉の香ばしい表面の上で黄金色の美しい光を放ちながらキラキラと輝いている。


 待ちきれずに専用のナイフを入れ、まずは一口分の厚切りを切り分けてそのまま口の中へと運ぶ。


 ――美味いっ!


 噛んだ瞬間、野性味あふれる力強い肉本来の旨味と、噛むほどに上品な甘みがジュワッと溢れ出すジューシーな脂が、口いっぱいにこれでもかと広がった。それでいて、普通のジビエ料理にありがちな嫌な臭みや血生臭さは驚くほど一切ない。完璧すぎるほどの血抜きと下処理のおかげで、この肉が持つ本来のクオリティが120%以上の最高値で引き出されていた。


 その濃厚な余韻を追いかけるように、すかさずキンキンに冷えたエールのジョッキを傾けて喉の奥へと勢いよく流し込む。クゥーッと乾いた胃の腑に染み渡る強烈な苦味が、ボアの濃厚で贅沢な脂を見事にさっぱりと洗い流し、次の一口を今か今かと待ちきれずに急かしてくる。


「はぁ~、親っさん、この焼き加減は最高だよ! 命がけでわざわざ西の森の奥まで足を運んだ甲斐があったってもんだわ!」


「ハハッ、そいつは本当に何よりだ! これほど美味い肉が食いたくなったら、いつでもまたウチのために狩ってきな。あんちゃんが今回みたいに綺麗に処理して持ってきてくれるなら、いくらでも高値で買い取って、ウチの店の自慢の看板メニューにしてやるからよ!」


 即席の激しい解体作業で少しだけ張ってきた腕の筋肉の心地よい疲労感を感じながら、俺はこの異世界でののんびりとしたグルメ紀行の物語をさらに盛り上げるために、すかさず二杯目の冷えたエールを追加注文したのだった。


【黒焦げの魚と、反射のロジック】


 いつものように脂の匂いと冒険者たちの喧騒が充満する、薄汚れた定食屋の片隅。俺の目の前にある粗末な木目のテーブルには、またしても焼き時間を完全に間違えられて皮が炭のように真っ黒に焦げた、得体の知れない川魚の塩焼きがドサリと無造作に置かれていた。


「わりぃな、また火加減を間違えて焼きすぎちまった。客には出せねえし、捨てるのも勿体ねえから、焦げてる部分を我慢して食うならタダでやるよ」


 頭にタオルを巻いた気のいい無骨な店主は、豪快に笑いながらそう言って俺の前に皿を突き出した。


 俺は「もらえるものは病気以外なら何でももらう」という現代人特有のさもしい精神を発揮し、ありがたく木製の箸をつけながら、ふと自分の左手へと視線を落として深く見つめていた。


 先日のことだ。俺はこの異世界の物理法則と魔法の在り方の裏をかくための、「闇」を生み出す実験をひそかに試みた。俺の頭の中では、それは完璧な理論に基づいて構築されたはずだった。


 光というものが、空間を伝わる『山と谷』で構成される波の性質を持っているとするならば、その光の波に対して、山と谷が完全に逆の位相となる波を意図的にぶつけてやればいい。そうすれば、波の性質として互いの力は完全に打ち消し合い、振幅はゼロになる。つまり、光そのものが存在しなくなる。俺はそうやって、自分の手の表面を人為的な完全な「闇」で包み込もうとしたのだ。


 だが、その結果はあまりにも惨憺たるものだった。


 俺の左手は、今まさに箸で突っついているこの「炭のような黒焦げの魚」のように、いや、それ以上に不自然極まりない『空間にインクをこぼしたようなドス黒い影の塊』となって、明るい周囲の空間から異様なほど浮き上がって見えたのだ。


「……そりゃそうだ。少し考えればわかることだったのに、俺のバカさ加減には、飲んでいるエールも呆れて喉に詰まらせるレベルだな」


 俺は冷えかけて炭酸の抜けかけたエールを自嘲気味に一口煽り、脳内の思考を静かに整理する。


 なぜ俺の手は真っ黒に見えたのか。答えは極めて簡単で単純な理屈だ。光の波が打ち消し合って反射が「ゼロ」になったということは、その物体は外部からのすべての光を一切反射せず、完全に吸収する『完全黒体』へと変化したということに他ならない。


 周囲にはランプの灯りや窓からの太陽光が煌々と満ちているというのに、俺の手の形をした部分だけが不自然に光を100%吸い込んでいるのだ。そんなものが空間にポツンと存在していれば、人間の目には「不自然なほど真っ黒な異物」「世界に空いた底なしの穴」として観測されてしまう。隠れるどころか、逆に異常すぎて目立って当然だ。


 俺が本当にやりたいのは、自分の存在を周囲から隠す「存在の隠蔽」であって、ドス黒い手袋をはめて道化師のように目立ちたいわけじゃない。


 ならば、どうするべきか?


「光を吸収するから、黒くなって目立つんだ。だったら、そもそも俺の身体に光を『当てなきゃ』いい」


 俺は考えながら、テーブルに並べられた水滴のついたコップを指先でツンツンとつつく。


 光を自分にぶつけて完全に吸収するのではなく、俺の身体に向かって飛んできた光を、まるで川を流れる水流が巨大な岩石の障害物を避けて滑らかに流れるように、「迂回」させて、俺の身体の背後へと受け流してやればどうなるか?


 俺の正面から来た光は、俺の身体の表面の輪郭に沿うようにして綺麗に屈折し、そのまま後ろへと抜けていく。逆に、俺の後ろから来た光も同様のルートを辿って前へと通り抜ける。


 そうすれば、俺を正面から見ている観測者の目には、俺の身体を迂回して通り抜けてやってきた「俺の後ろにある景色」だけが、そのまま真っ直ぐに届くことになる。


「光の屈折率の緻密な操作による、空間的な光の迂回。――これだ。これぞまさしく未知の光学迷彩の原理だ」


 理論が固まった俺は、さっそく体内の魔素を極細の糸のように繊細に操作し、左手の周囲の空間に、極めて薄く、かつ何千何万もの多層構造を持った「魔素の膜」を形成し始めた。


 光が俺の皮膚に直接衝突する前に、空間の密度――いや、光の屈折率をミリ単位よりもさらに細かいグラデーション状に変化させていく。この不可視の魔素の層によって、光の軌道を滑らかなカーブを描くように曲げてやるのだ。


 究極の集中。現在の俺の体内には一千兆(1.12e15)という規格外の臨界点に達した魔力があり、暴走を防ぐために一時的に封印をかけている状態だが、そこからごくごく微量の魔素だけを精密な手つきで削り出すように抽出し、左手周囲の空間を物理法則に従って「調律」していく。


 じわっ、と左手の輪郭が熱気を帯びたように滲み始めた。


 空間の屈折率が狂い、俺の左手の向こう側にある背景――木目のテーブルの柄が、夏の砂漠の蜃気楼のようにグニャグニャと歪んで見える。


「……あ、惜しい。もうちょっとだな……いや、空間の屈折率のグラデーションの変化が急すぎるんだ。これじゃただの分厚いすりガラスだ。もっと滑らかに曲げないと」


 より精密に、より滑らかに。前世の高校の物理の授業で習った「スネルの法則」の公式を脳裏に鮮明に思い浮かべ、光の入射角と屈折率が織りなす極限の空間密度の答えを、限界まで研ぎ澄ませた思考で導き出す。


 ある瞬間、世界と俺の魔力がカチリと音を立てて、空間の歯車が完全に噛み合ったような不思議な感覚があった。


 ――ふっと、消えた。


 俺の左手が、手首の境目から先にかけて、忽然と完全に消失したのだ。


 上から自分の手を見下ろしてみても、俺の視界にあるのはただの「古びた木目のテーブル」だけだ。手首の先には何も存在しない。試しに見えない左手の指をゆっくりと動かしてみるが、テーブルの木目の景色は一切歪むことなく、俺の左手だけが、まるでこの世の最初から存在しなかったかのように、完全に周囲の風景へと完璧に溶け込んでいる。


 さらに確証を得るため、見えない手を高く掲げて窓から差し込む太陽の光にかざしてみる。だが、テーブルにも床にも「手の影」すら一切落ちていない。これはつまり、太陽からの光が完璧に俺の左手を迂回して、何一つ遮られることなく床に届いているという何よりの絶対的な証拠だ。


「……できた。ついに完成したぞ。これぞ真の意味での『気配遮断』。いや、魔法というオカルト現象を用いた、物理的な観測のパラドックスの完全なる克服だな」


 俺は一人、ほくほくとしたドヤ顔を浮かべながら、炭のように黒焦げになった川魚の身を見えない左手で器用に摘み上げ、そのまま口へと運ぶ。


 もし今の俺の姿を傍から他の客が見ていれば、宙に浮いた黒焦げの魚の死骸が、虚空に向かってひとりでに動いてはパクパクと消えていくという、とんでもない怪奇現象かポルターガイストにしか見えないだろうが、そんな他人の目など今の俺にはどうでもいいことだ。


 その時だった。俺の視界の端の何もない空間に、いつもの見慣れた半透明の幻の文字が微かに、しかし世界の理を書き換えるように確かに明滅した。


【見えない手と、消えるジョッキ】


 光学迷彩(気配遮断Lv.1)の構築に成功した翌日の夜。俺はいつもの酒場のカウンターで、一人ご満悦でエールを傾けていた。


 現在、俺の左手は手首の先から完全に「消失」している。


 正確にはそこにあるのだが、光が俺の皮膚を迂回して背後に抜けているため、上から見てもテーブルの木目が完璧に透けて見えるだけだ。


「これ、思った以上に便利だな……」


 試しに、見えない左手で木製のジョッキを持ち上げてみる。


 傍から見れば、琥珀色の液体が入った大ぶりなジョッキが、何もない虚空にぷかぷかと浮き上がっているようにしか見えない。


「ひっ……!? お、おい、見ろよあのジョッキ……!」


「浮いてる……!? 幽霊(ゴースト)か!?」


 背後のテーブル席にいた冒険者たちが、引きつった声を上げた。


 俺は慌ててジョッキをテーブルに戻し、平然とした顔で右手でジョッキを掴み直す。


「……すまない、ちょっと手が滑ってな。いや、気のせいだろ」


「そ、そうか……? いや、完全に浮いてたぞ……」


 怪訝そうな顔で見つめてくる冒険者たちを適当にいなし、俺は再び思考の海に沈む。


 光を曲げる。それはつまり、光の進路という「空間の幾何学的な経路」に干渉したということだ。


 ならば、だ。


 光が曲がるなら、ジョッキそのものが持つ『質量』――すなわち、地球(この世界)の重力場がジョッキを引っ張るベクトルも、同じように空間的に「迂回」させて逃がせないだろうか?


 質量とは、アインシュタインの一般相対性理論によれば「エネルギーによる空間の歪み」そのものである。


 もし俺が、魔素の層を使ってジョッキの周囲の空間の曲率をほんの僅かに相殺し、重力の影響をゼロにする、あるいは別方向へ受け流すことができたなら。


「……重量の局所的無効化。つまり、疑似的な無重力状態の形成か」


 俺はテーブルの下で見えない左手を広げ、浮かせたジョッキに「魔素の膜」を極薄く纏わせる。


 今度は光だけでなく、重力のベクトル(下向きの加速度)を打ち消すように、魔素の密度勾配をジョッキの底面から上面に向けて急激に変化させていく。


 ピキリ、と脳裏で空間が軋む音がした。


 スッと、見えない左手に感じていたジョッキの重み(約一キログラム)が、完全に消失する。


「お……?」


 指先を離す。


 ジョッキは、テーブルの上空わずか十センチメートルの位置で、ピタリと静止した。


 今度は俺の手すら触れていない。文字通り、質量を空間的に「騙して」その場に固定したのだ。


「うわあああ! やっぱり浮いてる! 今度は誰も触ってねえ!!」


「おい! マスター! この店、マジで呪われてんぞ!」


 酒場の中が本格的にパニックに陥り始める。


 だが、当の俺はそれどころではなかった。


 ジョッキを固定した魔素の膜が、周囲の空気を歪め、微かに空間そのものが「熱」を持ち始めていることに気づいたからだ。


「マズいな、重力場の干渉を強引に魔素でねじ伏せているから、エネルギーの逃げ場がなくなって熱力学第二法則が牙を剥きかけてる……」


 このまま放置すれば、熱が暴走してジョッキごとエールが沸騰するか、あるいは空間の歪みが弾けて小さな衝撃波(ソニックブーム)が発生する。


 俺は慌てて見えない手でジョッキを掴み、魔素の循環を強制的に切断した。


 ストン、とジョッキが何事もなかったかのようにテーブルに着地する。


「……ふう。危うく、冷たいエールを台無しにするところだった」


 俺が胸を撫で下ろしたその時、視界の端でシステムログが激しく明滅し、見たこともないエラーメッセージを吐き出し始めた。


【Warning: Character "Allen_Noa" has bypassed gravity vector authorization.】


【空間歪みの未認可パラメーターを検出。デバッグプロセスを強制起動します――】


 だが、そのシステムからの警告は、すぐに「別の不具合」によって上書きされるようにパッと消え失せた。


【Error: Thread "Gravity_Control" was forcefully hidden by Administrator "L_L".】


【システムは正常に処理を継続します】


「ん……? エルエルのやつ、またなんか裏で余計な処理をして誤魔化したな?」


 まあ、あいつが勝手にバグを揉み消してくれるなら、俺としては大いに助かる。


 俺はすっかり透明なままの左手をテーブルに置き、右手でようやく冷たいエールを口に運んだ。


 質量(重力)を曲げられるなら、あとはこの空間の一部を「切り取って」固定するだけだ。


 そうすれば、重さも体積も無視して、美味い肉や酒を好きなだけ持ち運べる「俺専用のゴミ箱(アイテムボックス)」が完成する。


「よし、次は座標の完全固定だな」


 天界で誰かが血尿を吐きながらシステムエラーと戦っていることなど露知らず、俺は二杯目のエールを注文するために、見えない左手で軽快に指を鳴らすのだった。


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