26話 勘違いの飽和点
カチャカチャと賑やかな音が響く酒場の扉を開けると、肉の焼ける香ばしい匂いと共に、見知った顔が視界に飛び込んできた。
「あ、アレンさん!……って、ええっ!? その隣の女の子は誰ですか!?」
真っ先に声を上げて立ち上がったのはミアだった。その横には、なぜか空の小瓶を握りしめて虚空を睨んでいた鍛冶屋の親父も座っている。二人の視線が、アレンのコートの裾を必死に掴んでいるエルエルに集中した。
「……知り合いか? アレン。お前、そんな年端もいかない娘を泣かせて連れ回す趣味があったのか」
カウンターの奥からボア肉を切り分けていた酒場の親っさんまでが、ゴミを見るような目で此方を見てくる。
「違う。これはその、俺の……」
弁明しようとしたアレンの言葉を遮り、エルエルがふんぞり返って胸を張った。
「フフン、怪しい者じゃないわよ! 私はアレンの『上』に立つ者、言わば彼の『すべてを管理する運命のパートナー』よ! 今日という今日は、こいつにうんと言わせる(これまでの労働の対価支払わせる)ために実家(天界)から来たんだから!」
ドヤ顔で言い放たれた「運命の人」「返事を待ってる」「実家を出てきた」という言葉(勘違い)の羅列に、ミアの顔が急速に青ざめていく。
「すべてを管理する、運命の人……。まさか、アレンさんがいつもブツブツ言っているあの奇妙な言葉や、変な行動って、この人のため……!?」
ミアの脳内で「少女との関係を歪めるアレン」と「自分に告白した」三角関係の構図が完璧に出来上がっていく。
「いや、ミア、それはなんか違くないか――?」
「違わないわよ! あなたが昨日、私の許可(認可プロセス)もなしに勝手に(巨岩をすり抜けた)せいで、もう後戻りできないところまで来ちゃったんだからね!」
(実家の親(上層部)にどれだけ怒られたと思ってるの!?)
エルエルは距離を詰め、アレンの胸ぐらを両手で掴んでグイグイと詰め寄る。その必死な顔には「既成事実を作って逃げ場をなくそうとする本気の女」にしか見えなかった。
「あ、アレンさんが、実家の親御さんにまで挨拶を済ませるほどの深い関係……。しかも、許可なくって、それは一体どこの一線を越えたんですか……!?」
ミアはショックのあまりガタガタと震え、手にしたスプーンを落とした。
「おい、アレン。お前、いつの間にそんな大人の階段を音速で駆け上がってたんだ……。男として、落とし前はきっちりつけろよ」
親っさんがボア肉を包丁で叩きつけながら、ドスの利いた声で追及してくる。
「……待て。みんな落ち着いてくれ。まず言語の定義から整理しよう」
アレンは冷汗を覚えつつも、脳内の思考をフル稼働させて誤解の収束を図ろうとした。
「エルエルが言っている『すり抜けた』とは、一般相対性理論に基づく局所的ワームホール、つまりアインシュタイン・ローゼン橋を形成して空間幾何学的な経路をショートカットした物理現象のことであって、倫理的な一線を越えたという意味では――」
「ほら、またそうやって難しい言葉で煙に巻いて誤魔化そうとする! いつも勝手に時空間を私物化して、私のキャパシティを限界突破させておいて、いざとなったら理論で逃げるなんて最低男よ!」
「ちょ、エルエル、主語と文脈を正確に繋げろ。周りの人間の認知の歪みが飽和している」
「うるさいわね! とにかく私を満足(お腹いっぱい)にさせるまで、絶対に実家(天界)には帰らないんだから!」
腰に手を当てて言い放つエルエル。その横では、鍛冶屋の親父がエルエルの髪から漂う微かな熱の残滓を凝視し、「……あの熱量。間違えねぇ、あのお嬢ちゃんは鋼の組織を鍛造できる、白い粉の『精錬聖女』だ……!」と、これまた完全に別方向の狂気へ走り始めていた。
(……ダメだ。この空間の全観測者の脳内エントロピーが増大しすぎて、対話によるバグ修正は不可能(フリーズ状態)に近い)
アレンは諦めてため息をつき、カウンターへ銀貨を滑らせた。
「親っさん、特上ボアステーキを二つ、それと冷えたエールを。これ以上話すと世界の秩序より先に俺の胃壁が破れる」
「へいへい、修羅場特注ステーキ一丁。しっかり責任とって食わせなよ」
天界の管理端末室では、ルカが「あ、先輩が自爆発言を連発したせいで、現地の人間関係のフラグが回復不能なレベルでバグってます……」と虚無の表情で画面を見つめていたが、エルエルは運ばれてきたエールのジョッキを奪い取り、「ぷはーっ! これよこれ!」と、自らが引き起こした人間関係の崩壊をすべてゴミ箱へドラッグ&ドロップしていた。
【ステーキとウラシマ効果】
親っさんが差し出した二つの特上ボアステーキからは、暴力的なまでに芳醇な肉汁の香りが立ち上っていた。しかし、アレンの前に置かれた皿の肉は、まだ中心部がレア――いや、生に近い状態だった。
「親っさん、これはまだ熱伝導が不均一というか、内部のタンパク質が凝固温度(約65度)に達していないようだが」
「あぁ? 悪りぃなアレン、ボアの塊肉が厚すぎて火が通りきってねぇんだ。完全に中まで火を通すにゃ、あと30分はかかる。修羅場の最中なんだ、そっちのお嬢ちゃんと話でもして待ちな」
「30分……」
アレンの胃壁が、空腹による胃酸分泌で微かな悲鳴を上げる。隣では、エルエルが既に自分の分のステーキを獰猛な勢いで咀嚼し、エールで流し込んでいた。
「んむ! 美味しい! これよこれ、徹夜デバッグの後の塩分と脂質は最高ね!……って、アレン、何その生肉。あなたそんな猟奇的な食趣味があったの?」
「いや、単に加熱時間が不足しているだけだ。しかし、30分も待つのは合理的ではない。俺の空腹のタイムリミットが先にくる」
「だからって、また変なこと考えてないでしょうね? 私、いま美味しいお肉を食べて超ハッピーなんだから、私の網膜にエラーログを投影しないでよ?」
エルエルがジト目で警告するが、アレンの脳内では既に、アインシュタインの特殊相対性理論の数式が展開されていた。
(……光速に近づくほど時間の進みは遅くなる。ならば、あのボア肉の局所空間における『流動クロック(時間の進行係数)』を相対的に1万倍に加速させれば、周囲の30分はあの肉にとってのわずか0.18秒になるはずだ)
「おい、アレンさん……? 目が、またあの世界の真理を冒涜する時の目になってます……!」
ミアが怯えたように身を引く。
アレンは静かに生肉の皿へ手をかざした。魔力から極小の出力を絞り出し、皿の上の空間を「周囲の時間軸」から物理的に切り離す。空間の計量テンソルを局所的に歪ませ、肉の周囲だけ時間を「超加速(周囲から見れば時間が静止・減速している状態)」させた。
ジジ、ジジジジジッ――!!
皿の周囲の空気が、まるで時間の摩擦音を立てるかのように細かく振動する。アレンの手のひらの下で、生肉の色がミリ秒単位で鮮やかな褐色へと変色し、肉汁が猛烈な勢いで沸騰し始めた。
「ひゃあ!? なにこれ、お肉の周りだけ時間が早送りになってるぅぅ!?」
エルエルがエールを吹き出しそうになりながら叫ぶ。
「ウラシマ効果の逆応用(時間減速の物理的再現)だ。空間のクロックをズラし、現実世界の0.18秒の間に、肉にだけ30分ぶんの熱運動を経験させた」
「それがおかしいって言ってるのよおぉぉぉ! 料理の待ち時間をゼロにするために世界の時間(同期クロック)をハッキングするなーー!!」
天界の管理端末室では、ルカが机を叩いて立ち上がっていた。
「先輩!! 地上の酒場の一部座標で、時間の同期が完全にフリーズしました!
神界のアニメ配信サーバーと、天界の終電(移動ポータル)のスケジュールが30分ぶんズレて消滅しかけてます!!」
「アレン!! 私のささやかな私生活(推しのアニメ)まで時間泥棒しないでぇぇ!!」
エルエルは頭を抱えて絶叫したが、アレンは完璧にウェルダンに焼き上がったステーキをナイフで切り分け、平然と口に運んだ。
「うん、中まで完璧に熱が通っている。やはり物理法則は裏切らないな」
「裏切るわよ! ルカ、ごめん! 今すぐその空間のラグを『ネットワーク遅延』として偽装して! 処理落ちってことにして上層部に通してぇぇ!!」
エルエルが涙目で虚空(管理端末)に向かって叫んでいる。世界の同期クロックを強引に書き換えられた天界は大パニックの真っ最中のはずだが、アレンの表情は至って平然としていた。
鍛冶屋の親父は、肉に触れずに一瞬で焼き上げやがった様を見て、さらに深い狂信の淵へと叩き落とされていた。
【最適化への回帰】
ふと、アレンは視界の端で微かに明滅するシステムログに目を留めた。
自身のステータス画面。そこには、先ほどの無茶な時間操作の代償が、剥き出しのエラーメッセージとして刻まれていた。
【魔力】1.1258990e15固定(隠蔽中)。
【空間操作:Lv.1】
【時間減速】処理落ち(リセット)
(……ほう。処理落ち、か)
アレンはフォークを動かす手を止め、脳内で急速にロジックを組み立て始める。
転生直後の時点で確認した自身のステータスにおいて、そのスキルは確かに
【時間減速】Lv.0 未開放
と表示されていた。それが、現世のアインシュタイン相対性理論を無理やり適応し、現実世界の0.18秒に30分を圧縮した結果、強制的なシステムリセットがかかり、表記が変異している。
(なぜ、私の完璧な物理計算に対して世界がここまで致命的なエラーを吐いた? 質量とエネルギーの等価原理の時もそうだ。排熱リスクや深刻な同期ズレが毎回発生する……。計算のプロセスに破綻はない。ならば、破綻しているのは『前提』の方か)
アレンの鋭い視線が、ステーキの断面から立ち上る湯気をじっと見つめる。
(この世界のシステムにおける、本来の『正しい始まり』は……Lv.1からだ。
システムが正規の挙動として認識し、バグを起こさずに処理できる下限値。俺は、その定義すらされていない『Lv.0 未開放』という虚無の領域のまま、システムの外側から強引に現世の物理理論という重い関数を叩きつけた)
だからこそ、サーバー側は想定外の負荷を処理しきれず、毎回世界を巻き込むレベルの「処理落ち」を発生させていたのだ。
(だとすれば、だ。わざわざ現世の小難しい理論をガチガチに組み上げて、世界をバグらせながら力技でねじ伏せる必要など、最初からなかったのではないか?)
エルエルがまだ「もう! アニメの録画サーバーまで巻き込まれたらどうすんのよ!」と隣で頭を抱えて絶叫している。
アレンは静かに結論を導き出す。
この世界の「仕様」である不思議魔法。Lv.1から始まる正規のフレームワーク。
そこに処理を丸投げしてしまえば、世界が最初から用意している安全な正規ルートとして、なんの排熱リスクも同期エラーもなく、スマートに現象を処理できるはずだ。
「……なるほど。郷に入っては郷に従え、か。パラダイムシフトが必要だな」
「あんたが不敵に呟く時は大抵ろくなことがないんだけど!? ねぇ、今度は何を企んでるのよアレン!」
エルエルがジト目で詰め寄ってくるが、アレンはただ平然と、二口目のステーキを口へと運んだ。
「いや、これからはもう少し、この世界の『ルール』を優雅に運用しようと思っただけだ」
物理ハックによる力技から、異世界システム(魔法)の正規運用へ。
アレンの思考が完全に切り替わったその瞬間を、隣のミアだけが、何か世界の底が静かに変容したかのような、言葉にできない戦慄と共に凝視していた。
【魔力】1.1258990e15固定(隠蔽中)。
【空間操作】:Lv.1
【時間減速】:Lv.1(リセット済み)
【身体強化】:Lv.3
【慣性制御】:Lv.1(認可)
【気配遮断】:Lv.1(最適化)




