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小説の先にある世界  作者: 藤咲玲


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第2章:底辺からの書き出し

薄汚れた安宿の狭い部屋で、アレン・ノアは己の置かれたあまりにも厳しい状況を、一つひとつ噛みしめるように整理していた。


部屋の隅に置かれた、表面の銀がところどころ剥げかけた小さな鏡を覗き込む。そこに映っているのは、旅の泥と埃にまみれ、着ている服も継ぎ接ぎだらけのみすぼらしい少年の姿だった。だが、その顔立ちの奥にある双眸だけが、夜空の星を閉じ込めたかのように異様に澄んでいる。


アレン・ノア。それがこの世界における彼の名だ。


両親は数年前、この地方を荒らし回った魔王軍の残党による襲撃を受け、帰らぬ人となった。アレンに遺されたものといえば、村の外れで風雨に晒される雨漏りだらけの小さな小屋と、使い古されて錆びついた手入れの行き届いていない農具だけ。村の住人たちからも「親の死に目にも会えず、ただ生き延びただけの運のない男」と陰口を叩かれ、侮蔑と哀れみの視線を向けられる、正真正銘の最底辺の存在だった。


「……随分と極端で、救いのない設定に放り込まれたものだな」


アレンは口元に自嘲の笑みを浮かべ、誰もいない部屋で乾いた呟きを漏らした。


しかし、思考を冷徹に巡らせていくにつれ、彼の胸中には別の計算が働き始めていた。この極貧と無力さこそが、今の自分にとって何よりも強固で安全な『隠れ蓑』になるのではないか、と。


もし仮に、大貴族の跡取りや裕福な豪商の子供として転生していたならどうなっていただろう。周囲には常に厳重な監視の目が光り、少しでも不可解な行動を取ったり、あり得ない幸運や知識を見せたりすれば、瞬く間に「怪しい」「何かに憑りつかれたのではないか」と疑いの目を向けられたはずだ。


だが、この村の誰もが気にも留めない「無力で不幸な平民の孤児」を完璧に演じ切ってさえいれば、仮に影で多少の知略を巡らせ、奇妙な幸運を引き寄せたところで、誰一人として深く追求しようとはしないだろう。都合の良い隠者として生きるには、この環境はむしろ理想的ですらあった。


アレンは宿を後にし、街の外れへと続く寂れた街道を静かに歩き始めた。


目指すのは、彼の実家がある小さな集落だ。村の最も見晴らしの悪い端っこに位置する、雨漏りだらけの粗末な小屋。それこそが、現時点におけるアレン・ノアという人間のすべての生活基盤だった。


長い道のりを歩き通し、ようやく辿り着いた小屋の木製ドアの鍵を開ける。ギギギと嫌な音を立てて扉が開くと、長期間放置されていた特有のカビの臭いと乾燥した埃が舞い上がり、アレンは小さく咳込んだ。


室内を見渡すと、ろくな家具もない。ガタつく木の椅子と、傷だらけの粗末な机が一つ。その机の上に、かつて亡き父が使っていた古びた皮表紙のメモ帳がポツンと残されていた。


アレンはそれを手に取り、パラパラとページをめくった。そこには、生前の父が書き残した村の住人たちの特徴や、近隣の森や街道の環境についての雑多な走り書きが記されていた。アレンは息を詰めてその文字を追い、頭の中で現在の自分の状況と照らし合わせていく。


(……ふむ、やはり客観的に見てもひどい状況だな)


家族構成は完全な天涯孤独。

土地はあるものの、土壌は痩せ細り、まともな作物が育つ見込みのない日当たりの悪い農地。

両親が遺してくれた財産といえば、いつ壊れてもおかしくない修理が必要な農具数点と、本格的な冬が訪れれば一瞬で底を突く程度のわずかな蓄えだけ。


さらに悪いことに、両親の死後に発生した畑の境界線を巡る小さなトラブルのせいで、近所の村人たちとの関係も完全に冷え切っていた。


アレンは軋む椅子に静かに腰掛け、手持ちの知識と、この世界で得た身体、そして置かれた生活基盤をいかに効率よく活用していくべきか、腕を組んで冷静に思案した。


最初から世界を救うだの、名声を高めて成り上がるだのといった大層な目標を掲げるつもりはない。まずは地に足をつけ、日々の生存を確定させることが最優先だ。


「……何はともあれ、まずはこの雨漏りをどうにかしないとな。これじゃあ冬を越す前に風邪を引いて死んでしまう」


アレンは立ち上がり、天井のひどく木目が傷み、光が漏れている箇所を見上げた。


魔法や異能に頼るまでもない。今の彼にできる泥臭い一歩は、敷地内に転がっている余剰の木板を削り、屋根の隙間を塞ぐ修理作業だった。


トンカチと錆びた釘を手に取り、何度も指を打ちそうになりながら試行錯誤を繰り返す。小一時間ほど格闘した末、ようやく板目がカチリと合わさり、天井の不吉な隙間が綺麗に消えてなくなった。


たったそれだけの作業だというのに、アレンの額からはダラダラと汗が滲みでており、空腹の限界を告げるお腹の虫が激しく鳴り響いた。


特別な力も、奇跡的な救いも、ここには存在しない。あるのは、自分が今夜冷たい雨に濡れずに眠る場所を確保するための、ささやかで泥臭い技術の記憶だけだ。


だが、その手応えは確かにアレンの胸に小さな充実感を与えてくれた。


「明日の朝一番で、村の外れで採れる野草と果実の生息場所を『確認』しに行こう」


翌朝、薄すらと東の空が白み始める朝日とともに、アレンは目を覚ました。


胃袋が絞られるような空腹感は既に限界に近かったが、まだ体が動くうちに食料を確保しなければ、本当に動けなくなってしまう。


彼は昨晩、父のメモ帳から読み取った地形と植生の情報を頭の中で反芻しながら、村外れの打ち捨てられた古い街道跡を目指して足を進めた。


背丈ほどもある灌木が密生する鬱蒼とした茂みを掻き分け、足場の悪い岩場を慎重に登っていく。すると、メモの記述通り、岩陰の日明かりが届く一角に、野生のベリーの群生がひっそりと実をつけていた。


熟して深い紫色に染まった実をいくつか摘み取り、そのまま口の中へと放り込む。


噛みしめた瞬間、甘酸っぱい果汁が口いっぱいに広がり、空っぽだった胃袋の奥底へと染み渡っていくのが分かった。


「……よし、毒性はない。これなら当面の間の貴重な栄養源になってくれる」


アレンは安堵の息を漏らすと、用意してきたボロボロの麻袋を取り出し、食べ頃の実だけを一つひとつ丁寧に詰めていった。


誰の目にも触れない隠れた場所で、静かに、そして確実に収穫を続ける。派手な魔法も強力な武器もない今の自分にとって、この地道な確保作業こそが唯一の「正しい選択」だった。


ずっしりと重くなった袋の感触を確かめながら、アレンはふと足を止め、眼下に広がる小さな村の方角を振り返った。


食料を確保できたとはいえ、これだけで問題が解決したわけではない。冷え切った村人たちとの人間関係、痩せ衰えた農地の開拓、そして近づく冬への備え。乗り越えなければならない壁は山積みだ。


だが、アレンの瞳には絶望の色はなかった。ボロボロの袋をしっかりと肩に担ぎ直すと、彼は昨日よりも少しだけ力強い足取りで、自分の居場所へと戻り始めた。

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