2話:偽りの弱者
薄汚れた安宿の狭い部屋で、アレン・ノアは己の置かれたあまりにも厳しい状況を、一つひとつ噛みしめるように整理していた。
部屋の隅に置かれた、表面の銀がところどころ剥げかけた小さな鏡を覗き込む。そこに映っているのは、旅の泥と埃にまみれ、着ている服も継ぎ接ぎだらけのみすぼらしい少年の姿だった。だが、その顔立ちの奥にある双眸だけが、夜空の星を閉じ込めたかのように異様に澄んでいる。
アレン・ノア。それがこの世界における彼の名だ。
両親は数年前、この地方を荒らし回った魔王軍の残党による襲撃を受け、帰らぬ人となった。アレンに遺されたものといえば、村の外れで風雨に晒される雨漏りだらけの小さな小屋と、使い古されて錆びついた農具だけ。村の住人たちからも「親の死に目にも会えず、ただ生き延びただけの運のない男」と陰口を叩かれ、侮蔑と哀れみの視線を向けられる、正真正銘の最底辺の存在だった。
「……随分と極端で、救いのない設定に放り込まれたものだな」
アレンは口元に自嘲の笑みを浮かべ、誰もいない部屋で乾いた呟きを漏らした。
しかし、思考を冷徹に巡らせていくにつれ、彼の胸中には別の計算が働き始めていた。この極貧と無力さこそが、今の自分にとって何よりも強固で安全な『隠れ蓑』になるのではないか、と。もし大貴族の跡取りとして転生していたなら、少しでも不可解な行動を取れば瞬く間に「何かに憑りつかれたのではないか」と疑われたはずだ。だが、誰もが気にも留めない「無力な平民の孤児」を演じ切ってさえいれば、影で多少の知略を巡らせたところで、誰一人として深く追及しようとはしないだろう。都合の良い隠者として生きるには、この環境はむしろ理想的ですらあった。
それと同時に、アレンは自分に残された唯一にして最大の武器の存在を再確認した。あの転生と覚醒の瞬間に、その肉体と魂へと深く刻み込まれた、三つの特異なスキルである。
【空間操作】亜空間を操る Lv.0 未開放
【時間減速】時を少し操作可能 Lv.0 未開放
【身体強化】肉体出力の底上げ Lv.0 未開放
試しに意識を集中させてスキルを呼び出そうとしてみても、手応えは全くなく、身体の奥底からの反応は皆無に近かった。現状の未熟な自分では、これらの未知のスキルを行使することなど到底叶わず、今すぐ当てにできるのは己の頭脳と泥臭い行動力だけだと思い知らされる。
「……まあいい。今はまだ、高望みをするときじゃない。さて、行動に移すか」
村の住人たちが自分をハナから期待もしていないおかげで、彼が村を静かに脱出しようなどと企てているとは、誰一人として夢にも思っていない。この無関心と侮蔑こそが、今の自分を解き放つ最大の盾だった。
アレンは宿を後にし、実家のある小さな集落へと足を向けた。長い道のりを歩き通し、ようやく辿り着いた小屋の木製ドアの鍵を開ける。ギギギと嫌な音を立てて扉が開くと、長期間放置されていた特有のカビの臭いと乾燥した埃が舞い上がり、アレンは小さく咳込んだ。
ろくな家具もない室内。傷だらけの粗末な机の上に、かつて亡き父が使っていた古びた皮表紙のメモ帳がポツンと残されていた。手に取ってページをめくると、生前の父が書き残した村の住人たちの特徴や、近隣の森や街道の環境についての雑多な走り書きが記されている。アレンは息を詰めてその文字を追い、頭の中で現在の自分の状況と照らし合わせていく。
土地はあるが、土壌は痩せ細り、まともな作物が育つ見込みのない日当たりの悪い農地。両親が遺してくれた財産といえば、修理が必要な農具数点と、冬が訪れれば一瞬で底を突く程度のわずかな蓄えだけ。さらに、両親の死後に発生した畑の境界線を巡る小さなトラブルのせいで、近所の村人たちとの関係も完全に冷え切っていた。
(……ふむ、やはり客観的に見てもひどい状況だな)
だが、アレンの瞳には絶望の色はなかった。この閉塞した村を去り、新たな未知へと踏み出すためには、最低限の旅の資金と食料、そして移動に必要な装備が不可欠だ。村人たちはこの痩せた土地の価値をひどく低く見積もり、ただ明日の糧を得るためだけに惰性で生きている。だが、それは裏を返せば、彼らの無知と諦めが見過ごしている真の価値が、この土地の至るところに手付かずのまま転がっているということでもあった。
まずは雨漏りを塞ぎ、食料を確保する。トンカチと錆びた釘で天井の隙間を塞ぎ、翌朝には村外れの自生地でベリーを摘んだ。そして、村人たちの雑談から拾い集めた記憶を頼りに、周辺で採れる薬草の価値と、それを高く売れる街のルートを頭の中で組み立てていった。
哀れみや軽蔑の視線に晒され続けるだけの狭い世界を捨て、自分の足で未来を切り拓くために――今はただ、自分の手足と知恵の限界までを使い尽くし、最も確実で手っ取り早い手段を選び取って前へ進むだけだった。
*
ざらついた砂埃を巻き上げながら、使い古された木製の荷車がたてる重々しい車輪の音が、街道の先から規則正しく響いてくる。アレンは周囲の視線を計算に入れた絶妙な位置の道端に、先日からひそかに集め、適切に仕分けした薬草の束を丁寧に広げ、まるで熟練の行商人のように堂々と腰を下ろしていた。
やがて、アレンの目の前でギィィと嫌な音を立てて荷車がぴたりと停止する。御者台から顔を出したのは、日焼けした初老の商人だった。彼は荷物の隙間から不機嫌そうな視線を向け、吐き捨てるように言い放つ。
「おい、そこをどけ。邪魔だぞ。それに、この村で調達できるまともな薬草や特産品なんてのは、もうとっくに私が根こそぎ買い取った後だ。お前のようなガキが今さら道端で何を並べていたところで、もうろくな物なんて残っちゃいねぇよ」
商人の声には、相手をするだけ時間の無駄だという露骨な呆れと苛立ちが滲み出ていた。しかしアレンは微動だにせず、ただ静かに微笑みを浮かべたまま、その鋭い眼光を商人の顔へと真っ直ぐに向ける。
「あんたが買い集めたのは、誰の目にも分かる上物ばかりだろう。だが……これは違う。ただの雑草だと思い込んできた代物だ。売り方さえ間違えなければ、王都じゃずっと高く売れる」
アレンの口から澱みなく発せられた言葉は、一分の隙もなかった。その薬草が持つ隠された成分の効能、どの季節に採取されたものが最も純度が高いか、そして都市部のどのギルドや工房がいま最もそれを求めているのか。そのすべてが論理的に整理されており、誰が聞いても一瞬で納得せざるを得ないほど精緻に組み上げられた利益の構造が、静かに、しかし一片の曇りもない確信に満ちたトーンで語られていく。
その瞬間、商人の濃い眉がピクリと大きく動いた。最初はただの物乞いか、小遣い稼ぎのガキの戯言だと聞き流すつもりだった男の目が、アレンの手元へと釘付けになる。目の前に広げられている一見すると雑草にしか見えない植物が、実は専門の知識を持つ者によって完璧に選別され、明日にも都市で高額で売りさばける一級の素材として美しく整理されていることに、百戦錬磨の商人としての直感が素早く気づいたからだ。
「……お前、年端もいかないガキのくせに、随分と詳しいようだな。どこでそんな商売の裏技を仕入れた?」
商人の声音から先ほどまでの軽蔑の色が消え、代わりに値踏みするような鋭い警戒心と、微かな興味の色が混ざり始めた。
「どこで知ったかなんてどうでもいいことだ。ただ、必要に迫られたから徹底的に調べ上げた、それだけの話さ。あなたにとっても、足繁くこの寂れた村に通って二束三文の品をちまちま買い集めるより、私がここで綺麗に価値を高めておいたこの薬草の束をごっそり仕入れてそのまま街へ運ぶほうが、どう考えても移動の手間も、支払う元手も、得られる最終的な利益もすべてにおいて効率がいいはずだ。違うか?」
アレンは商人の返答をゆっくりと待ち受けるような真似は一切せず、自らリードを握ったまま、淀みないトーンで具体的かつ圧倒的に得をする取引の条件を次々と突きつけていく。商人はしばらくの間、御者台の隣に座る相棒と顔を見合わせ、言葉を失って深く沈黙した。
やがて、彼は重い腰を上げると荷車からひょいと飛び降り、アレンが差し出した薬草の束を一つひとつ手にとって厳しく検品し始めた。その指先に迷いは微塵もなく、純粋に目の前の利益を極限まで追求するプロの商人の目つきになっていた。
静寂の中、かすかに風が吹き抜ける。薄汚れた道端の小さなスペースで、利益を最大化しようとする者同士の、静かで、しかし火花散るような確かな交渉が、今、静かに成立したのだった。




