第1章:プロローグ:深夜二時、神の羽ペン
東京都内の雑居ビル、その一室にある六畳の部屋。
締め切りまで残り三時間。アレン・ノアこと「佐藤」は、パソコンの液晶モニターと睨めっこをしていた。売れない小説家である彼にとって、静まり返った夜の静寂は唯一の友であり、同時に容赦なく自分の無能さを突きつけてくる牢獄でもあった。
「……ダメだ。構成が、あまりにも甘すぎる」
アレンは自嘲気味に毒づくと、キーボードから手を離し、手元にあった手書きの大学ノートに荒々しくペンを走らせる。
今書いているのは、次回作として出版社に提出する予定のプロットだ。剣と魔法、過酷な身分差社会、そして何の後ろだても持たない力なき平民が、知略と執念だけで成り上がっていく冒険譚。どれも使い古された王道の要素だが、彼にとっては自分の理想と救いを詰め込んだ大切な物語だった。
その時だった。
ピシャリと、閉め切っていたはずの窓ガラスが振動した。
(風……か?)
不審に思って視線を向けた直後、カーテンの隙間から眩い光の奔流が溢れ出し、薄暗い部屋を一瞬で白銀の世界へと変えた。
光の渦の中から、コトンと重厚な金属音が響き、デスクの上へと何かが落ちてくる。
手元に触れたのは、冷たくも温かい、不思議な質感を持った重厚な手ごたえ。それは、美しい細工が施された白銀に輝く一本の羽ペンだった。同時に、そのすぐ横には見たこともない真っ黒なインク瓶が現れる。吸い込まれそうな瓶の底を覗き込めば、そこにはまるで夜空を切り取ったかのような、深遠で渦巻く星雲が見えた。
「……なんだ、これは。夢でも見ているのか……?」
アレンは困惑し、眉をひそめた。だが、思考を巡らせるよりも早く、その羽ペンがまるで生き物のように自らの指先に吸い付いてくる感覚を覚えた。
じわじわと指先から全身へと伝わる、微かな熱。次の瞬間、アレンの意思とは無関係に、手が猛烈な勢いで動き始めた。
文字通り、神の如き速さでペン先がノートの紙面を滑る。アレンが長年、脳内の奥底で妄想し続けてきた「理想の世界」の設定が、ノートの余白へ、溢れ出る濁流のように書き殴られていく。
「――アルカディア大陸。剣と魔法が支配する閉塞した世界。アレン・ノアという名の平民。誰もが見取れる美しき容姿。時空を自在に操る規格外の力。だが、その力の源泉は魔力という名の『自身の生み出した物語を信じる力』に依存する……」
書けば書くほど、世界の理が歪んでいくのが肌で分かった。
ペン先から滴る漆黒のインクは、単なる液体の枠を超え、ノートの紙面を突き抜けて床へと垂れ落ちた。そして、それは空間そのものを切り裂く刃となって広がっていく。
部屋の壁が、天井が、モニターの青白い光が、黒いインクのヒビ割れとともにバリバリと音を立てて崩壊していく。その亀裂の向こう側から、見たこともない異世界の豊かな自然と、見渡す限りの広大な風景が侵食してきた。
「待て、書きすぎだ……! 待て! まだプロットの途中だぞ! これじゃ整合性が取れなくなる……!」
アレンは必死になって自分の腕を抑え込み、ペンを止めようと抗った。しかし、羽ペンは自らの強い意思を持っているかのように、最期の行を凄まじい筆圧で書き切る。
「――そして、彼はその世界で、自らの手で自身の物語を完成させる」
書き終えた瞬間、白銀の羽ペンは眩い光の粒子へと分解し、一気に天井を突き抜けて空へと昇華していった。
直後、アレンの全視界が圧倒的な光によって真っ白に塗りつぶされた。
*
どれほどの時間が流れただろうか。
湿り気を含んだ冷たい土の感触と、鼻をくすぐる青々とした草の匂いで、アレンはゆっくりと目を覚ました。
まぶたを開け、最初に見上げた空は、現世の東京で見慣れた灰色がかった狭い天井ではなく、吸い込まれそうなほど美しく突き抜ける群青色だった。
「……ここは……」
体を起こそうとした瞬間、彼の視界の端に、淡い青光を放つ半透明の文字列が浮かび上がった。
【空間操作】亜空間を操る
Lv.0 未開放
【時間減速】時を少し操作可能
Lv.0 未開放
【身体強化】肉体出力の底上げ
Lv.0 未開放
ステータス
体力(10)
力(5)
敏捷性(5)
持久力(5)
精神力(3)
魔法:不明
魔力(測定不能)
「な……なんだこれ……まるでゲームのステータス画面じゃないか……」
茫然と呟きながら、アレンはゆっくりと立ち上がった。足元にあった小さな水たまりにふと視線を落とすと、そこに映っていたのは見慣れた疲れ果てた冴えない男の顔ではなかった。
そこにあったのは、自分がノートに書きつけた通りの姿——「星空を映したような蒼い瞳」と、誰もが目を奪われるような完璧で端正な顔立ちをした青年の姿だった。
「……この顔は……誰だよ……。まさか、本当に僕がノートに書いた小説の通りの世界になったのか……?」
アレンは自分の頬に触れ、その滑らかな肌の感触に思わず息をのんだ。天界を見上げても、そこにはただ平和で雄大な空が広がっているだけだ。この世界の神々は、現代日本から放り込まれたこの小さな世界のバグに気づいていないのか、あるいは最初から気づかないふりを決め込んでいるのか。
ふとポケットに違和感を覚えて手を突っ込むと、そこにはあの羽ペンもインク瓶もなく、自分が執筆時に使っていたボロボロの大学ノートだけが残されていた。ページをめくると、先ほど勝手に書き殴られたプロットと設定が、鮮明な文字で記されている。
「……信じる力が、魔力になる、か」
アレン・ノアとなった「佐藤」は、ボロボロのノートを強く握り締めると、見果てぬ広大な異世界の大地へと向かって、静かに第一歩を踏み出した。




