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小説の先にある世界  作者: 藤咲玲


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19/120

19話:俺、カエルしか見てないんですけど

 ギルドからの早朝の緊急招集は、昨晩の調子に乗って飲みすぎた最高に美味いラガービールが完全に祟っている俺の二日酔いの頭には、あまりにも刺激が強すぎた。ガンガンと鐘の音が響いているかのような頭痛をこらえながらギルドに顔を出すと、そこはすでに戦場のような騒ぎになっていた。


「アレン! お前、現在のランクはDだよな? いや、そんな些末なことは今はもうどうでもいい!」


 ギルドマスターの筋骨隆々な大男が、血相を変えて俺の肩をガシッと掴んで揺さぶってくる。やめてくれ、胃液が逆流する。


「昨日の深夜、西の『嘆きの沼』を中心とした湿地帯一帯で、前代未聞の大規模な魔素反応と、それに続く不自然な『完全なる空間の沈黙』が観測された! ギルドの魔力計の針が振り切れてぶっ壊れるほどの異常事態だ。Sクラス級、いや、特級指定の厄災が侵入した可能性がある。お前、昨晩はあそこの沼竜討伐の依頼を受けて現場のすぐ近くにいただろう!? 地理にも詳しいはずだ、調査隊の先遣として、今すぐ彼らに同行してくれ!」


 ギルドマスターの鬼気迫る剣幕と、周囲の冒険者たちの悲壮な決意に満ちた空気に完全に押し切られ、俺は二日酔いの割れるような頭を抱えながら、渋々調査隊の馬車へと連れ出されるハメになってしまった。


(いや、だからさ……違うんだって。昨日俺が酒場を出た後の路地裏で、酔っ払った勢いで適当に木の枝で泥にいじって描いた「だだ漏れの魔力蛇口を締めるための制御魔法陣」が、俺のバグったステータスのせいでちょっと広範囲にまで干渉しちまっただけだって……。厄災とか魔神とか、そんな物騒なものは微塵も関係ないんだよ……)


 馬車に揺られること数十分。問題の西の湿地帯に到着して早々、馬車から降りた俺に同行した調査隊の歴戦のベテラン冒険者たちは、揃いも揃ってその顔面を血の気のない真っ青な色に染め上げていた。


「……異常なしだ。いや、この状況は異常すぎるッ!」


「周辺の、それこそ泥の中に潜む低級の虫ケラから、生態系の頂点にいるはずの大型魔獣に至るまで、すべての気配が完全に、文字通り一匹残らず消え失せている。それどころか、この一帯の淀んでいた魔素の流れそのものが、何者かの手によって一時的に『強制停止』させられたような、不気味すぎる痕跡が残っているぞ……!」


 彼らは、俺が昨日やっつけ仕事で放出・遮断してしまった魔素の巨大な残滓と空間のバグを、宇宙の理から外れたような恐ろしい上位存在が顕現した痕跡だと完全に勘違いして震え上がっているらしい。


「おいアレン! お前、昨日の討伐任務の際、何か尋常じゃないものを見なかったか!? この死に絶えたような圧倒的な沈黙は絶対に普通じゃない。間違いなく、S級を凌駕する未知の絶望がこのエリアを更地にしていった後だ! 思い出せ、どんな些細なことでもいい!」


 血走った目で胸ぐらを掴まんばかりに問い詰められ、俺は心底めんどくさそうに生返事のため息をつき、足元の湿った泥の感触をブーツの先でトントンと踏みしめた。


(何も見なかったか、か……そりゃそうだろうよ。俺が歩いたそばから、魔力圧で勝手に全部消滅していったんだからな)


「いや、マジで何も不審なものは見てないっすね……。強いて言えば……せいぜい、そこにいた緑色のアマガエルが平和そうにピョンピョン鳴いてたぐらいですかね」


 俺は心底どうでもいいような、二日酔い特有の気の抜けたトーンで素直に答えた。実際、俺が昨晩あそこでやったことといえば、だだ漏れの魔素を泥に流して「蛇口」をキリッと調整しただけだ。そこに魔獣なんて最初から一匹もいやしない。


 だが、俺のその真実の報告を聞いた調査隊長は、なぜかガタガタと大剣を持つ手を震え上がらせ、顔をひきつらせた。


「カ、カエルしか……いない……だと……? つまり、この広範囲に及ぶ数千、数万体の凶悪な魔獣の気配消失は、貴様がここに足を踏み入れた瞬間に、音もなく完了していたというのか……ッ!? そして貴様は、その惨状の中でカエルの鳴き声に耳を傾ける余裕すらあったと……!?」


 隊長は、まるで人類の天敵、あるいは人の皮を被った底知れぬ化け物でも見るような、純粋な恐怖の眼差しで俺の顔を凝視してきた。


(あ、これ完全に誤解が変な方向に、しかも修復不可能なレベルでこじれるやつだ……)


 俺が昨日、泥酔した勢いで路地裏の泥遊びの延長みたいな魔力制御をしていたことなど、目の前で勝手に絶望している屈強な男たちが想像できるわけもなかった。


 案の定、街のギルドに戻るや否や、俺の冒険者ランクはなぜか正規のルートを外れ、「極秘指定・隠密特化の裏社会Aランク相当」としてギルドマスターの権限で勝手に超特急の格上げ処理をされてしまった。


 いつもの馴染みの受付嬢をはじめ、酒場にいる同業者たちの誰もが、俺を見るなりサッと道を空け、遠巻きに敬遠し、同時に怯えと畏敬の混じった視線を送るようになってしまった。


 俺はギルドの隅っこの、誰も近寄ろうとしない孤立したテーブルに一人で腰を下ろし、また深く深く、人生への大きな溜息をつく。


(……これで、またこの街の酒場で、バカ話に花を咲かせながら静かに美味いラガーを飲むのが難しくなったな。どうしてこうなった……)


 調査隊の帰還報告書には、俺の証言通り「カエルしかいなかった」と事実がありのままに記載された。だが、ギルドの上層部はその間抜けな記述を、絶対的な死を意味する恐怖の「暗号(隠語)」だと勝手に深読みし、俺を「西の湿地帯を単騎で沈黙させた絶対的支配者」として、有り難くも神のように崇め奉り、同時に監視対象にすることに決めたらしい。


 俺のささやかな平穏と、美味しいお酒を望むスローライフな冒険者生活は、今日もまた「盛大な勘違い」という理不尽すぎる重力によって、ガラガラと音を立てて崩れ去っていくのだった。


【天界、デバッグルームの悲鳴】


 遥か上空、世界の理を司る天界。その中枢に位置する管理監察局の執務室。


 普段は絶対の静寂と、規則正しい計算音だけが響く、本来は波風ひとつ立たないはずの管理モニタールームに、似つかわしくない絶叫が轟いた。


「ぎゃ〜ぁぁぁっ!」


 部屋全体をけたたましく真っ赤に染め上げる激しい警報音と共に轟く、後輩女神ルカの悲鳴。


「……ありえない。ルカ、ちょっとこれを見て。下界のあのアレンが、またとんでもないことをやらかしたわ!」


「ぐぬぬぬ……っ! あたしの来期の昇進どうすんのよぉ!」


 先輩女神であるエルエルが、余裕と狂気の入り混じった笑みで巨大なホログラムモニターを指先でなぞる。


 そこには、世界の理として本来なら『不動』であるはずの、個人のステータス数値が映し出されていた。しかし今、その数字と文字の羅列は、強風に煽られた砂漠の砂の如くサラサラと音を立てて崩れ落ちている。その光景はまるで、悪質な『ウィルス』に侵され、致命的なバグを引き起こした哀れなPC画面のようだった。


 崩れ落ちては、デタラメな数値として再構築され、そして再び強固に固定化されていく様子が克明に映し出される。


「ひ、ひぃぃぃーっ!? 先輩、あれは何ですか!? 彼自身の魔力ステータスの上限値が……私たちが設定した管理プログラムの自動補正を完全に無視して、足し算じゃなくて乗数で際限なく増殖してます!」


 ルカがホログラムのコンソールに泣きつき、青ざめた表情で絶叫する。


「指数表記すら超えて『1.1258990e15』なんて、私たちの管理外の数値に突入しているじゃないですか!」


「しかもこれ、ただの表面的な数値改変じゃないわ。彼、さっき泥に刻んだあの雑な魔法陣を、自分のステータスに直接付与したのよ。我々神族が持つ管理システムの『読み取り専用(リードオンリー)』権限を、『書き換え可能』な状態に強引にアップグレードしているわ!」


 世界崩壊の危機。しかし、エルエルは慌てる様子もなく、むしろ手にした極上のワイングラスを揺らしながら、その不敵な笑みを深めた。


「面白いわね。ただの酔っ払いが、道端で下品に泥遊びをしているのだと思っていたけれど。まさか彼……自身の『魔力上限』という世界の絶対変数を、その辺の木の枝によるペンの残影だけで、直接書き換えるなんてね」


「お、面白がっている場合ですか!? 先輩!」


 ルカは神聖な大理石の床をバンバンと叩いて、子供のように地団駄を踏む。


「このままじゃ世界がパンクします! 今のうちに特例の次元剥奪処分を執行して、彼ごと証拠隠滅するしか〜っ!」


「うぁぁぁん! 始末書じゃ済まないですよぉ!」


「いいえ、絶対に消去はしないわ」


 エルエルは涼しい顔で、しかし極上のエンターテインメントを見つけたように言い放ち、画面の中で薄汚れた路地裏の壁に手をつき、「オェェェ……」と情けなく弱音を吐いているアレンを見下ろした。


「あの規格外の『生ける筆記具』が、この先どうやって私の寂しい『財布』を豊かに熟してくれるのか。今の彼に宿ったこのデタラメな権限が、下界にどう作用するのか……その結末を、誰よりも最前列で見届けてあげたいのよ」


「……先輩、さっきから自分の欲ばかりで、なに言っているのか意味が分かりません!」


 ルカは涙目で震える手を伸ばし、コンソールを激しく操作した。そして、せめてもの対策として、アレンの異常な数値を隠蔽する『付箋』を貼り付けた。


「とりあえず、上層部や監査局のお偉いさんたちに気づかれる前に、この付箋でログだけ隠蔽します! ……あぁ、もう! ダメだ、何をやっても付箋の隙間から勝手に新しい数値が書き換わって溢れ出してくる! まるで彼という存在そのものが、世界の法則を真っ白に塗りつぶす『修正液』みたいじゃないですか!」


 天界の管理者たる二人が、アレンのあまりに杜撰で、しかし神の権限すら凌駕する強力すぎる「デバッグ作業」に振り回され、絶叫と狂乱の渦に飲まれているその間。


 当の本人である人間界のアレンは、自分の腹に刻み込まれた危険極まりない魔法陣を優しく撫でながら、ただ平穏に、そしてひどく満足げな顔で大衆酒場の席に座り、酒を飲み続けていた。


「……へへへ、やっと耳鳴りが静かになったぜ。さて、次はもう一杯、キンキンに冷えた美味い酒を飲もうかな」


 彼がたった今、自分の気まぐれで世界設定の根幹を致命的に書き換えているなどとは露知らず。


 遥か頭上では、エルエルが悪女のような笑みを浮かべて年代物のワインを傾け、ルカは責任の重圧と、次々と剥がれ落ちる付箋の山に頭を抱えて崩れ落ちている。神界の厳格なはずの管理システムは、今日も「ただ美味い酒が飲みたいだけの泥酔した一人の冒険者」の無意識の手によって、着々と彼に都合の良い形へと最適化(改悪)され続けていた。

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