17話:代謝の計算、あるいは食卓の防壁
俺は今、昨日の命がけのクエスト報酬で得たばかりの分厚い銀貨と銅貨が詰まった革袋を懐に忍ばせ、人生で数少ない大勝利の余韻を噛み締めながら、冒険者ギルドに近い大衆酒場の片隅で久々の贅沢を心ゆくまで満喫している。
そう、俺が自らのささやかな祝いのために注文したのは、鉄板の上でジュージューと暴力的な音を立てて脂を跳ねさせる極上の肉厚ステーキと――そして、表面にびっしりと水滴がついた、キンキンに冷えた『ラガービール』だ! 間違っても、昨日まで啜っていたような酸味の強いぬるいエールなどではないぞ! 圧倒的な炭酸の喉越しと、あの舌を突っ切るようなキレのある豊かな苦みがたまらない(笑笑)。
くはっ、と一息つき、ビールで喉を潤し、ひと心地ついたところで、俺はふと手元のグラスから視線を外し、真剣な眼差しで思考の海へと深く耽っていく。
よくよく冷静になって考えてみれば、『嘆きの沼』の徹底的なお掃除や、あそこの絶対的主人である沼竜の討伐なんて、どう考えても、Dランクに甘んじている万年落ちこぼれの駆け出し冒険者が、片手間にひょいとこなせるような楽な依頼であるはずがなかったのだ。それなのに、あんな化け物どもの巣食う魔境をこうも簡単に、文字通り「一掃」できてしまった決定的な要因はいったい何なのか……。
あれか。原因は間違いなく、あの時酒場でヤケクソになって引き起こしてしまった魔力総量の“ビッグバン”だ。足し算ではなく、掛け算で魔力が増幅し続けるというチートを通り越した致命的なバグ。
「……ステータス(小声)」
周囲の酔っ払いたちに聞こえないよう、テーブルの下でそっと指を動かして密かにウィンドウを呼び出し、確認する。
魔力:1,048,576 ↑さらに猛烈に上昇中
「はぁ~、マジでこれ何とかしないと本気で洒落にならないだろ……」
幸い、あのポンコツの女神(?)が慌てて押し付けてくれた高位の隠蔽スキルのおかげで、今のところ周囲の人間やギルドの高性能な魔道具には、ただのちょっと魔力が高めの一般冒険者として上手く誤魔化せている。だが、俺の体内では刻一刻と魔力が増殖を続けているのだ。
このまま際限なく保有魔力の数値がインフレし続けて、この人間の矮小な肉体と周囲の空間は本当に大丈夫だろうか?
人間の肉体の限界値って、魔力という抽象的なエネルギーで換算した場合いったい幾らが限度なんだ? ふと、前世か、あるいはこの世界に転生して間もない頃に学園の図書室の片隅で読み漁った、古びた魔導書の黄色く変色したページが脳裏に鮮明によみがえってきた。
『魔素の視認性と物理的干渉に関する考察』
通常、微量な魔素は完全な透明無臭のエネルギー体であり、魔力視を持つ生体の眼や、高価な専用の魔道具を除いては観測不可能である。これを、極めて高濃度の魔素が局所的に存在する場に例えて考察を述べる。高濃度の魔素は、その圧倒的な密度故に大気中に陽炎や水面のような澱み(よどみ)を生み出し、空間を通過する光の波を無理やり屈折させることで「魔素の可視化」が理論上可能となる。
さらに踏み込んで言えば、魔素は本来の性質として、物理法則に直接干渉しない概念的なエネルギーである。しかし、その濃度が空間や個体の許容量の限界を遥かに超えて圧縮された場合、気体や液体、あるいは固体といった通常の「質量」に近い性質を物理的に帯びるようになる。質量を持つに至った魔素は、周囲の空間に対して不可視の物理的な圧力を常にかけ続けることになり、結果として、その濃度次第では術者の意思に関わらず、物質への直接干渉や無差別な破壊すら可能と考えられるのだ。
「ふぅ~……ってことはだ……これ、本気でヤバいんじゃないか!」
脳内で導き出された最悪の結論。つまり、今の俺は歩く高圧縮魔力爆弾であり、息をしているだけで周囲の空間を重力異常のように歪めかねない存在になりつつあるのだ。背筋が凍りつくような冷たい悪寒が走り、俺は思わず手元の厚手なグラスを強く、あまりにも強く握り締めてしまった。
自慢のラガービールを、この冷や汗をかいた喉へ景気よく一気に流し込もうとした、その瞬間だった。
――パキッ!
あまりにも乾いた、しかし日常生活においては絶対に聞いてはいけない致命的な破裂音が、騒がしい酒場の俺の席周辺だけに妙に響き渡った。
なんと、手元にあった分厚いガラス製のラガービールのジョッキの把手が、ただの無意識の握力(あるいは、俺の全身からコントロールしきれずにじみ出た過剰な魔力の物理的圧力)によって、見る見るうちに細かいヒビ割れを起こし、粉々に砕け散っていたのだ。黄金色のビールと白い泡が、無惨にもテーブルの木目と俺のズボンにぶちまけられる。
「……っとに、俺も不注意だな。この店のガラスは随分と質が悪かったか」
周囲の客たちが怪訝な視線を向けて振り返る前に、俺はそっと何食わぬ顔で立ち上がり、テーブルに肉と酒の代金である銀貨を置き、足早に、しかし極めて自然な動作で静かにその場から店を後にした。
だが、酒場の重い木製の扉を押し開けて夜の街へ出た瞬間、極限まで蓄積されてコントロールを失った魔力の強烈な反動と、精神的な極度のプレッシャーが、一気に胃の腑を突き上げた。
「オェェェ〜〜!」
静かで冷たい夜の街の暗い路地裏に、圧倒的な力で無双したはずの哀れな異世界転生者の情けない悲鳴と、さっき胃に流し込んだばかりの最高に美味かったはずのラガービールが混じった苦いゲロの音が、虚しく盛大に響き渡るのであった。




