第16章:揺れる車内と、目覚めぬ力
ガタゴトと音を立てて荒れた街道を揺れる馬車の乗り心地は、かつて自分が暮らしていた静寂な現代の六畳間で過ごした日々とはあまりにも対照的だった。
すり減った木製の車輪が固い石畳を規則正しく叩く単調な響き。狭い車内に充満する、隣り合わせた他の旅人たちの汗と古い革の匂い、そして微かな寝息やいびきが混じり合う独特の空気感。アレンはそんな喧騒の真ん中に身を置きながらも、どこか冷めた意識でぼんやりと窓の外を流れていく景色を眺め、その右手の指先を誰にも気づかれないように小さく動かしていた。
(……あの日。あの部屋で目を覚ましたとき、確かに何かが自分の体の中に直接流れ込んできた感覚があった)
この不条理な世界に放り出された瞬間に網膜の裏へと浮かび上がってきた、あの青く光るステータスウィンドウの文字列の数々。それらは今でもアレンの脳裏に焼き付いて離れない。
特に、数ある項目の中でも【空間操作】と【時間減速】という見慣れない記述は、彼がかつて理想の世界を思い描くために自らの手で設定した、いわば絶対の「切り札」に他ならなかった。
だが、今の現実の彼には、その眠っているはずの莫大な力をどうやって身体の内側から引き出せばいいのか、その具体的な手順すら全く分からなかった。指先に全神経を集中させ、意識を研ぎ澄まして魔力を練り上げようと何度試みても、そこにあるのは手応えのない空虚な徒労感だけだった。
(……そもそも、この世界の人間にとって魔力とは『誰しもが生来持つ当たり前の力ではないのか?』――あの設定資料のなかに、たしかそう書き殴ったはずだ)
だが、現実の自分のステータス画面に表示された魔力の項目は「測定不能」という不可解な文字のまま止まっている。
力の源泉が一体自分の肉体のどこに隠されているのかも分からず、ただスキル欄に並ぶLv.0という冷徹な数字だけが、自分の圧倒的な無力さと未熟さを突きつけてくる。
もし、この先目指す学園でこの『切り札』の力を満足に引き出せなければ、自分はただ少し頭が回るだけの、文字通りの「知識を持つだけの脆弱な平民」に過ぎない。この過酷で暴力に満ちた剣と魔法の世界を生き抜くには、知恵だけではあまりにも脆く、一瞬で踏みにじられてしまうだろう。
アレンは窓ガラスの表面にうっすらと映り込んでいる、冷徹で端正な自分の顔の輪郭をじっと見つめ返した。
もしこれが転生前の、ただ流されるままに生きていた「佐藤」という平凡な人間だったなら、こんな不確かな状況に直面した時点でとうに絶望し、諦めていたに違いない。だが、今の冷徹な合理主義者としての彼には、そんな弱音を吐く余裕も、あるいはその必要すらなかった。
(学園という組織のなかには、この世界で長年培われてきた体系化された高度な魔術の知識があるはずだ。他ならぬ、自分の訳の分からないこの力を『正しく定義』し、それを『現実のものとして信じ込む』ための確固たる理論がな)
窓の外を流れる風景が、徐々に険しい荒野から開けた石造りの巨大な街並みへと姿を変えていく。目的地である城塞都市オルフェリアが、もうすぐ目の前まで迫っていた。
自分が手に入れたこの規格外の力は、もしかしたら神界のシステムにおける致命的な「バグ」やエラーの産物なのかもしれない。ならば、なおのこと他人に任せるのではなく、自分自身の手で完全に制御し、思い描いた通りの物語の結末を書き上げてみせる。
まだ完全には目覚めない理不尽な力に対する焦燥感やいら立ちは確かにあった。だが、それ以上にアレンの胸のなかでは、これからその街で手に入れるであろう「絶対的な力と知見」に対する強烈な渇望が、静かに、しかし確実に燃え盛っていた。
ガクン、と車体が大きく揺れ、馬車が速度を落とし始める。
車内の空気がざわめき立つ中、アレンは静かに目を細めた。
――目的地への到着だった。




