第131章:ルッセナへの帰還と、割に合わない道中
各地の支店の視察と最低限の経営合理化を終えたアレンは、次なる目的地であるゼノリス王国西南の街――ルッセナへと馬車を走らせていた。
揺れる馬車の車内、硬い木製のベンチシートに腰掛けながら、アレンは手元の帳簿に目を落としていた。幾重にも積み重なった物資の調達コスト、移動にかかる日数のロス、そして現地での滞在費。それらすべての収支バランスを頭の中で冷徹に計算し、わずかに眉をひそめる。
「……まったく、辺境の流通網の非効率さには毎度うんざりさせられる。これでは輸送コストだけで想定利益の数割が削られる計算だな」
向かいの席で、ぐったりと凭れかかっていた金髪の女神――エルエルが、乾いた笑いを漏らしながら口を開いた。
「ちょっとボス、少しは旅の風情とか楽しんだらどうなのよ。こっちは揺れる馬車に揺られてお尻は痛いし、昨日の宿では硬い豆のスープしか出ないしで満身創痍なんんだけど!」
「風情などという実体のないものに配分する予算は我がラボには存在しない。お前のその不満タラタラな態度も、賃金以外の無駄なエネルギーの浪費だな」
冷ややかに言い放つアレンに対し、エルエルは不服そうに頬を膨らべるが、反論する気力もないのかすぐにぐったりと沈黙した。
やがて、窓の外の景色が開け、石造りの壁と独特の白壁が立ち並ぶルッセナの街並みが見えてきた。かつて足を踏み入れたこの街も、相変わらずの活気と、同時にどこか独特の澱んだ空気を纏っている。
馬車が市門の検問を抜け、ガタゴトと石畳の道を進んで目的の地区へと差し掛かる。御者が手綱を引いて馬車を停めると、アレンはトランクケースをしっかりと掴み、冷徹な足取りで扉を押し開いた。
「到着だ。……おい、いつまでも寝ているな。ここでの調査と資産の確認をさっさと終わらせるぞ」
「はいはい、分かりましたよーっと……。ほんと、休む暇もないハードスケジュールね……」
愚痴をこぼすエルエルを完全に無視し、アレンはルッセナの冷たい空気の中へと堂々と踏み出していくのだった。
【オルフェリア学園の「端数」と、不本意な最高権力】
城塞都市オルフェリアの冷たい石畳を踏みしめながら、アレンはふと足を止め、胸の内でこれまでの軌跡を巻き戻していた。
異世界へと放り出されてからの時間を思えば、随分と遠くへ来たものだ。手探りで生存を図っていたあの頃の自分と、数兆円規模の経済圏を背景に持つ現在の自分とでは、置かれた環境があまりにも違いすぎる。
だが、今の自分を形作り、この世界の理を解体するだけの基礎戦闘力を与えてくれたきっかけが、ほかならぬこのオルフェリア学園であったことは紛れもない事実だった。
(あのとき、情報の差を埋める手段がここになければ、間違いなく詰んでいたな)
無駄な権威や血統主義に縛られず、学ぶ意欲とわずかな代償さえあれば必要な資金や資料にアクセスできる環境。あの効率的なプラットフォームが提供されていなければ、自分の手で魔法体系の矛盾を突くことも、ここまでの知見を得ることもできなかった。
思考を現実へと引き戻し、アレンは目の前にある扉の向こうへと視線を戻した。
城塞都市オルフェリアの理事長室。そこには、かつての栄光が嘘のように冷え切った、澱んだ空気が充満していた。
長年にわたる経営難と魔力発生装置の老朽化により、この歴史ある魔法学園は、いまや物理的にも財政的にも崩壊の瀬戸際に立たされている。
頭を抱える財務責任者や教職員たちの前に、アレンは静かに足を踏み入れ、使い古されたトランクケースをテーブルの上へと置いた。かつて自分に知のインフラを提供してくれたこの場所への、最低限の筋を通すように。
「……生きる術も知識もなかったあの頃、身分を問わず開放されたここの科目等履修生制度や公開講座がなければ、今の私の基盤は間違いなく存在しなかった。あのとき受けた恩と、提供されたインフラの価値を考えれば、この程度の額は過去の負債を綺麗に帳消しにするための適正な対価だ。貸し借りはこれで完全に相殺とする。学園の立て直しに使ってくれ」
静かにそう告げて、アレンはアイテムボックスを使用しトランクケースに満たした。中から飛び出したのはおよそ『300億円相当の金塊と聖貨200枚』だった。
(※聖金貨:1億円 )
あまりの重みに、床板がわずかにきしむ。
「なっ……! これはいったい……!?」
震える手で差し出された証書に目を走らせた財務責任者は、その桁違いの数字を見た瞬間、文字通り息を呑んで硬直した。学園の数年分の赤字を一瞬で完全に覆し、さらには全校舎を最新鋭の設備へと丸ごと改装しても余りあるほどの莫大な富。
かつて一学生としてこの地に身を置き、科目等履修生制度に救われた身として、必要な分の精算を済ませたに過ぎないアレンは、どこか冷めた目で淡々と視線を巡らせる。
「……これだけの規模があれば、当面の設備維持や授業の継続には十分だろう。環境さえ整えば、あとは各自が勝手に学んで成果を出すだけの話だ」
ただ冷静に、今後の事務的な着地点を呟くアレン。しかし、その落ち着いた言葉を聞き取った学園関係者たちの脳内では、まったく異なる壮大な美談へと勝手に変換されていく。
「かつて一学生として我が校に身を寄せた恩義を、これほどまでに深く刻み込んでいたとは……!」
「自分の貢献を誇ることもせず、ただ淡々と母校の未来を支えるために必要な資金を差し出す……! なんという謙虚さと、底知れない気高さ……!」
「『環境さえ整えば』だと……? 私利私欲のためではなく、学生たちが学びやすい世界を築くことこそが彼の望み……まさに我らの救世主だ!」
室内に急速に広がる、妙な熱を帯びた一体感。アレンは周囲の空気が嫌な方向にねじ曲がっていくのを肌で感じ取り、思わず面倒臭そうに眉間を押さえた。
「いや、ちょっと待て。話を聞け。私はただ過去の借り分を清算して、さっさと退散しようと――」
しかし、アレンの冷静な制止の言葉は、すでに興奮のピークに達した教職員たちには届かない。むしろ彼らの目は、異様なまでの崇敬の光を帯びて輝きを増していた。
「逃がしません……いいえ、ご謙遜を!」
「資産や権利だけを置いて立ち去るなど、この崩壊寸前の学園にすべての責任を押し付ける無責任な真似、この私たちが許すわけにはいきません!」
一歩、また一歩と、教職員たちがじりじりと包囲網を狭めてくる。アレンはわずかに後じさったが、背後を固める財務責任者が素早く回り込み、完全に退路を断った。
「そうだ! 巨額の資財を出資した者が経営の全権を握らなければ、組織のガバナンスが崩壊する! 我々の未来を守るためにも、今すぐ最高責任者としての座に就いていただきます!」
「は? 待て、私はただの監査や清算のつもりで――」
なおも抗議しようとするアレンの声を無視して、財務責任者が部屋の隅に隠されていた最高級の重厚な椅子を力強く押し出す。磨き上げられた床を滑るようにして、その椅子がアレンの背後へと猛烈な勢いでスライドしてきた。
逃げ場を完全に塞がれたアレンの身体が、物理的にその座面へと押し付けられるようにして強制着席させられる。
「お言葉はしかと受け取りました! 権力のためではなく、あくまで『教育環境の正常化という最低限の防衛線』を守るために、不本意ながらその重責を引き受けてくださるのですね!」
「さすが我らの総帥! この腐敗した学園を救えるのは、もうあなたしかいません!」
講堂を揺るがすほどの盛大な拍手と歓声が湧き起こる中、アレンはぐっと深くため息をつき、半ばやけくそになって片手を挙げた。
「……待て、妥協案だ。表向きは今の理事長が仕切ってくれ。俺には他にもやることが多すぎるからな。これで手を打たないか?」
しかし、その現実的な提案すらも、狂気的なまでの崇敬に満ちた教職員たちの脳内フィルターを通ることで、全く別の壮大な美談へと歪められていく。
「なんと……! 自らの権力欲のなさを証明するかのように、現理事長の面子や立場まで完璧に配慮してくださるとは!」
「すべてを独占せず、現場の運行を信頼して委ねる……! なんという懐の深さと、完璧なガバナンス構築力!」
「『やることが多すぎる』というのも、裏で我が校を世界最高の学府へと押し上げるための、途方もない大事業を同時並行で進めているからに違いありません……!」
財務責任者が感動に震える声を絞り出す。
「お言葉、しかと承りました! 表の雑務はこれまで通り我々が担当し、あなたは最高権力者として影から我が校の未来を統べる……! なんという洗練された組織運営の妙……!」
(いや、単にめんどくさいから丸投げしたいだけなんだが……)と頭を抱えるアレンの抗議は、もはや誰の耳にも届かない。
こうして、平穏な日常と無駄な雑務の回避を強く望んでいたはずの立場に、アレンは本人の意思とは完全な逆方向のまま、盛大な誤読の嵐に巻き込まれて就任させられてしまうのだった。




