第五章:それは追加契約になります(2)
「ご迷惑をおかけしております……」
そう彼女は口にするが、クライブとしては迷惑だとは思っていない。なんだかんだで毎朝のこのやりとりすら、楽しみになっている。
「昨夜は、すまなかったな。いきなりで驚いただろう? それよりも、身体は辛くないか?」
ぽっとイリヤの頬が紅色に染まる。
「やはり、熱でもあるのか?」
「ち、ち、違います。大丈夫です……閣下、その……少しだけ離れていただけませんか?」
無意識のうちに彼女の身体を抱き寄せていた。その手を離すと、イリヤは毛布の中で距離を取った。
身体の調子は良さそうだ。いつもの彼女である。
昨夜、イリヤには聖女の身代わりを頼んでしまった。もちろんイリヤは動揺してあたふたし始めたのだが、それよりも隣から助けを求める声があがった。
よくわからないが、マリアンヌが大泣きして暴れていた。魔力が暴走して、部屋中のものをひっくり返していた。
すぐさまイリヤはマリアンヌの元へと向かったのだが、そのとき、マリアンヌの魔力を抑えるために、イリヤもだいぶ魔法を使ったようだ。
マリアンヌがぐずぐず言いながら眠り、部屋を元通りにしたときには、イリヤもぐったりとして自力で歩くのもままならない状態であった。それをクライブが抱き上げて、部屋にまで運んできたわけだが。
「わ、私。マリアンヌが心配なので、様子を見てきます。聖女身代わりの件は……少しだけ考えさせてください」
「ああ。イリヤが引き受けてくれるのであれば、もう少し詳しい話をする。だが、無理してまで引き受ける必要はない」
「……はい」
寝台からしゅるっと下りて部屋を出て行く彼女の背を見送った。
*~*~*
ドキドキする心臓をおさえるように胸に手を当ててから、イリヤはマリアンヌの部屋へと向かう。
「おはようございます、奥様」
扉を開けると、すぐさまナナカがイリヤに気づき、笑顔で挨拶をする。
「おはよう、ナナカ。このような格好でごめんなさい。マリーは?」
「あ~だ~」
ベッドの上でおすわりしているマリアンヌは、返事をするかのように声をあげた。最近ではこうやって一人でしっかりとおすわりもできるようになった。それでも押されればバタンと倒れてしまうので、アルベルトが近くにいるときには誰かが目を光らせている。
ごめんなさいと謝ったアルベルトだが、謝ったからと言って次はやらないというわけではない。あれ以来も、何度も同じことを繰り返そうとしていた。
子どもは、大人が思うよりも物事を覚えていない。そして、心の中の妄想すら、現実と区別がつかなくなるもの。それをしっかりと正しい道へと導いていくのが、周囲の大人の役目でもある。
「はい。あのあとは朝までぐっすりと。いったい、マリアンヌお嬢様もどうされたのでしょうね?」
言葉で意思疎通ができない分、ああやって泣くしかない。
おそらくマリアンヌは生後十ヶ月程度。この時期は夜泣きに悩まされる者も多いと聞くし、イリヤの一番下の妹もよく泣いていた。成長していくうちに、何か不快なことや興奮したことがあるのだろうが、言葉が伝わらないためよくわからない。
「そうね。成長している証ね。着替えてくるわ。マリーをお願いね」
マリアンヌの元気そうな顔を見て、心が軽くなった。昨夜は体調を崩してくずっていたわけではないのだろう。それがわかっただけでも一安心だ。
私室に戻ったイリヤは、サマンサを呼ぶ。今日は登城の日ではないから、身体をしめつけないようなゆるいドレスを選んだ。
実は身体も少しだけだるい。昨夜、暴れるマリアンヌを取り押さえ、彼女がめちゃくちゃにした部屋を直したからである。もちろん、それは魔法を使って。
ただそのときに、思っていたよりも魔力を消費してしまったらしい。いきなり身体が重くなって、立っていられなくなった。それをクライブが抱き上げて部屋まで運んでくれた。
そこから記憶はないのだが、そのまま眠ってしまったのだろう。
最近、目が覚めると目の前にクライブの顔がある。イリヤのほうから彼に寄っていくのだ。もちろん、それは眠っている間のことなので、自覚はない。
だが、さすがに半裸の彼に「身体は辛くないか?」と問われたら、昨夜にナニがあったのかと勘ぐってしまう。いや、ナニもなかったと思っているのだが。
クライブという男は、よくわからない。あれは無意識なのかわざとなのか。いや、天然だろう。もう少し、言葉の意味を考えてもらいたい。
彼がイリヤの身体を心配したのは、昨夜、魔力をほぼ使い切ってしまったからだ。一晩寝たら、少しは魔力も回復したようだが、万全とはいかない。
「奥様、今日はお疲れのようですね」
「えぇ。マリアンヌが夜泣きして」
「まだまだ、手もかかる時期ですから。奥様もご無理をなさいませんように」
サマンサの言葉が身に染みた。
マリアンヌの部屋に寄り、彼女を腕に抱いて食堂へと向かう。
クライブは先に席についていた。黒い髪を後ろになでつけ、眼鏡もかけている。いつも通りの彼である。
寝起きの彼と目の前の彼。
髪型と眼鏡だけで、がらりと雰囲気が異なる。
ドキッと心臓が震えた。
「おはようございます」
「あ~あ~」
イリヤの言葉に合わせて、マリアンヌも声をあげると、クライブの顔はゆるむ。
「ああ、おはよう」
先ほども挨拶したが、マリアンヌがいる前でも挨拶をするのが日課となっている。
イリヤはマリアンヌを隣の椅子に座らせた。これはマリアンヌ用にと高さを合わせ、落ちないようにと固定してある椅子である。
「あ~あ~あ~」




