第四章:新しいお仕事ですか?(5)
「すまない、イリヤ嬢。アルベルトが、座っていたマリアンヌを押した」
エーヴァルトのその説明だけで、何が起こったのかが容易に想像できた。妹たちもよくやっていたものだ。おすわりができた赤ん坊を押して後ろに倒す。
「まぁ、よくあることですから。そうやって加減を覚えていくのですよ。何をどうしたら痛みを感じるのか、怪我をするのかって」
アルベルトはトリシャからこっぴどく叱られているようだ。マリアンヌの泣き声は落ち着いてきたのに、アルベルトが嗚咽を漏らし始める。
「トリシャ様、マリアンヌは大きな怪我もありませんし」
「まりぃ、ごめんなさい」
次からやらなければそれでいいのだ。
「マリーも驚いただけですよ。ですが、やはりぶつかると痛いですから。気をつけてくださいね」
「まりぃ、いたいのいたいの、ごめんなさい」
アルベルトが手を伸ばして、マリアンヌの頭をなでた。
落ち着きを取り戻したマリアンヌは、うつらうつらとし始める。
「アルベルト様、マリーはそろそろお昼寝の時間のようです」
イリヤの腕の中で、マリアンヌは鼻水を垂らしながら眠っていた。
そうなるとアルベルトも眠そうに目をこすり始める。トリシャがメイドを呼んで、アルベルトを預けた。
「マリアンヌ様もお預かりしましょうか?」
メイドはそう声をかけてくれたが、イリヤはそれを断った。多分、今はイリヤの腕の中のほうが眠ってくれると思ったからだ。寝台におろした途端、起きそうな気がした。
そのままマリアンヌを抱いたまま、四人は他愛のない話をした。
だが、トリシャはエーヴァルトに政務をきちんとこなして、クライブに迷惑をかけないようにとビシッと言ってくれたのは大きいだろう。
クライブが顔をほくほくと輝かせていた。これでトリシャとクライブの仲が少しだけ改善されるとよいのだが。
イリヤもなんとかクライブとの生活に慣れた。いや、裸の彼と共寝することだけは慣れない。慣れたのは、屋敷のこと、定期的に王城へ足を運ぶこと。これくらいである。
クライブのいない間は、女主人として屋敷の切り盛りをする。数字は苦手であるが、そうも言ってられない。いやいやながらも付き合っているものの、最後の確認だけはクライブにやってもらう。
最初は「このような簡単な計算も間違えるのか」「いったいどのような教育を受けてきたのだ」と散々であったが、最近では計算間違いも減ってきた。
「閣下、こちらの確認をお願いします」
そう言ってイリヤがクライブに手渡したのは帳簿である。
「それから、マーベル子爵がお会いしたいと手紙がきておりました」
マーベル子爵、つまりイリヤの伯父。
手紙を受け取りながらも、その名を聞いたクライブは、眉間にしわを寄せた。
「日にちの指定はあるのか?」
「いえ、閣下のご都合のよい日にとのことで。公爵邸を来訪したいとのことです」
「当分は、無理だな。今、王城の仕事がごたごたしている」
エーヴァルトはあのときのトリシャの喝が効いたのか、最近では真面目に政務に励んでいるようだ。それでもごたごたしているというのであれば、エーヴァルト絡みの件ではないのだろう。
クライブは髪の間に指を入れるようにして頭を抱えた。よく見れば、目の下にもうっすらと隈ができている。
最近の彼は、イリヤが眠ってから眠り、イリヤが起きる前に起きている。寝ていないのでは、と思ったこともあるが、少し乱れた寝台とほのかなぬくもりが、先ほどまで彼がそこにいた証拠でもある。寝てはいるようだ、一応。
「お忙しいのですか?」
「あ、まぁ。忙しいといえば忙しいが、いつものことと言えばいつものことだ」
それでもクライブは、夕食に間に合うように帰宅するし、マリアンヌを風呂にまで入れている。
「お忙しいのであれば、こちらのことは無理なさらずに」
「忙しいというか、悩ましいというのが正解だな」
あのクライブが悩ましいというのは、いったいどのような問題なのか興味が沸いてくる。イリヤはけしてクライブを嫌っているわけではない。ただ、少しだけぎゃふんと言わせてやりたいという、そんなささやかな対抗意識を持っているだけ。
だから、些細なことでも彼の弱みを握っておきたいと、そういった下心が満載なのだ。
「私がお聞きすることで、閣下の悩みが少しでも軽くなるのなら、お話ください」
イリヤがそう言ったのにも理由はある。クライブはちらちらとイリヤに視線を向けてきたから。言いたいけど言えない。そんな様子が伝わってきたのだ。
となれば、話しやすい雰囲気を作るのも大事だろう。だからそう思って声をかけた。
「話を、聞いてくれるのか?」
眼鏡の奥のアイビーグリーンがほのかに揺れる。まるで、イリヤに助けを求めているようにも見えて、胸の奥がきゅっと疼いた。
「私だって話を聞くくらいならできますよ」
にっこりと微笑むと、クライブはソファに座るようにと促す。立ち話する内容ではないのだろう。
イリヤがそこに腰を落ち着けると、クライブが隣に座る。てっきりテーブルを挟んで向かい側に座ると思っていたのに。
「閣下、距離が近くありませんか?」
「オレたちは夫婦だから何も問題はないだろう?」
「これから、お仕事の話をするのではないのですか?」
「オレの悩みを聞いてくれるのだろう?」
また甘えるような視線を向けてくる。四姉妹の長女として妹たちの面倒をみてきたイリヤとしては、こういった甘えられる仕草を見せられると弱い。
いつの間にかチャールズがやってきて、二人の目の前にお茶を並べていく。個装された一口サイズのお菓子も添えられた。
チャールズと目が合うと「ごゆっくり」と彼の目が言っている。
本当によくできた執事である。




