~大樹~ 行く道は険しく、珍しく
大樹の木陰の下、桜たちの珍道中は続く。気温はいまだ高く、蒸し暑い熱気がパイロットスーツ越しからも伝わってくる。
「助けてくれてありがとっ」
桜の肩で、小人の女の子は何度目かの礼を述べた。
「いいえ。リッサ・ヘッサ様のお話、わたしたちも希望が持てましたから」
桜は顔を少し肩の方に向けていった。
枝葉の天蓋から落っこちてきた少女、リッサ・ヘッサは大きな瞳を瞬かせる。金色の蜜のような大きな瞳の色は不思議な雰囲気があった。それでも。頬を紅潮させて、次第に笑みをこぼす表情の変化は普通のヒトと変わらないあどけなさを持っている。
「そう? あなたも、ううん。あなた様が導師であることの方が希望だと思うな。だってそうでしょう?」
と、リッサの小さな唇がとどまることを知らず言葉が矢継ぎ早に桜の耳へと投げ込まれる。
「田舎も田舎。それも四方を巨大な山に囲まれた北の大地に来るなんてふつうしないわ。バカならするでしょうけど。あ、だからといって導師様がバカって意味じゃないよ。本当よ?」
マシンガンのように放たれる言葉の羅列に桜も気おされ気味にほほ笑んだ。
「こんな薄暗い世界が下に広がってるだなんて、誰だって想像つかない。ああ、だからね! 見てみたいって思うのは当然だし、それだけの価値はあるのは当然よ。わたしだったらそう。そして、導師様はそういうのを見るために、わざわざここに来た。そうでしょう? えっへん」
リッサ・ヘッサは自己完結気味に言って腰に手を当てて胸をそらす。自分の論理が的を射ていると思い込んでいるのだ。そのほとんどが口の弾みで出てきたものであっても、彼女は構いはしなかった。
それを間近で聞く桜はそうですね、と会話を途切れさせようと口を開くが、それよりも早くリッサの口は動いた。
「だから思うの。わたしたちが出会ったのって運命だなって。そうじゃなきゃ、わたしは生まれてずっと、ずぅっと、空も飛べないメララの恥さらしってバカにされ続ける人生を送ることになるもの。でも、そうじゃなかった。導師様に出会えた! とってもとても素敵!」
またリッサはめいっぱい細い腕を広げて、瞳を爛々と輝かせる。背にある二対の翅はわずかに痙攣するように震える。よく見れば一対の翅はしわくちゃによれて萎んている。
「あの娘……」
桜が対応に困っているのを後ろから眺める勇子とミュウは小うるさい小人を見据えながら後に続いていた。
「落下の衝撃で頭がおかしくなったのではないか?」
「もともと小さい頭ですけど……。それはさておき、どう思います?」
ミュウと勇子は寄り添い合うようにして囁く。キノコ傘が互いに触れて、かすかに胞子を降らせる。
ミュウは隣を一瞥してから、リッサへと視線を戻す。
「大樹の上の方であの小娘の国があって、〔アル・スカイ〕らしいものが運ばれたという話か? つじつまは合うと思う」
「メララ族というのも、気になるけどね」
勇子はリッサの小さな背中をじっと見つめながら胸の内がドキドキしているのを感じた。
平静を装っていても内心、妖精の姿に心ときめかないはずがないのだ。
「寝物語で聞く妖精みたいで……」
勇子はうっとりとした声を漏らす。
メララ族という翅をもった種族。その小国家が大樹の上に出来上がっている。お伽噺に出てくる花の王国とか、竜宮城、空の城を空想すれば、彼らの存在が妙に説得力がある気がする。
それでも猜疑心が完全に消えたわけではない。むしろ、膨らんだともいえる。
「問題は、ここから町までのガイドを買って出たってこと」
「地元民なのだから、それくらいは――」
「頭上にある国暮らしで、しかもあの口ぶり……。信用ならないわ。それに大昔の妖精は軒先に動物の死骸を置いていくとか、子供を連れ去ったり、挙句妖精の子とを取り替えたりしていたって記述をどこかで読んだことがあるわ」
ミュウは後半のうんちくには肩をすくめる。お伽噺な部分が現実的な知識と思っているのが、なお哀れに見えてきた。
「それはお伽噺の中の話、なのだろう? あれはれっきとしたヒトだ」
「わかってるわ。そんなこと」
勇子はミュウから離れると、口元をとがらせてグローブに内蔵されている小型立体投影機を起動させる。そこには〔アル・スカイ〕との更新履歴、通信状態などを示したグラフが表示されている。
「通信記録も途絶えたまま……」
思わずため息が漏れる。
隣で聞いているミュウはうなじにかかる髪をさっと払って空気を送る。
「お腹がすいて、気が立っておるのか?」
「姫様ほど、短絡的ではないわっ」
プイッと勇子は顔を振って、歩調を速めて桜の横につく。
「リッサ・ヘッサっ」
勇子の声にリッサの小さな方が揺れて、振り向いた。
「なにか御用?」
リッサは爛々と好奇心旺盛な金色の瞳で近づいてくる勇子を見る。後ろになでつけられていた触角がピンッと立ち、翅がぎこちなく震えた。
桜は歩みを止めると、思わずマシンガントークから解放された安堵にほっと一息つく。
「あなたは樹の下にきた経験はあるの?」
「ないよ」
リッサは満面の笑みで答えた。
勇子は面食らって、何度か目を瞬かせた。ガイドをするからにはお遍路的なものがあると思っていた。
「じゃぁどうやって登るというの?」
「大昔に使ってたっていう幹の中を通っていけば、あるいはつくかも。いや、つくはず。でも、つくかなぁ? お婆ちゃんが言ってた大昔の話だから……」
曖昧模糊な言葉づかいでリッサは首を左右にひねった。口に出してみて確認をとっても、脳みそに蓄えられている記憶の裏付けはひらめかない。
「なんなのその曖昧な情報は?」
勇子の額に青筋が浮き上がる。
桜は彼女の放つ殺気に気づいて、振り返ると温和な表情を向ける。
「大昔のことですから。それに、ニィ様達の前例もございます」
「う、うぅ。そうね。前例はあるものね」
勇子は桜の言葉を飲み込んで、自分の見当違いだと言い聞かせた。
ファルフェンのように地下に戦艦が眠っていたことを考えれば、巨大樹のてっぺんに行く道筋はあってもおかしくない。それにリッサの小さな体を見ても、飛行能力があったとしても枝葉の天蓋にたどり着くのは難しいだろう。
と、ここまでは納得できたが、桜の頬にぴったりとくっついて頬ずりするリッサを見た途端別の気持ちが膨れ上がった。
勇子は桜を睨んだ。
「でも、姫様は空腹でイラついているわ。休まなければならないでしょっ」
「誰がっ」
追いついたミュウが勇子の言葉を聞くなり素早く切り返す。いつの間にか、引き合いに出されて、しかも駄々っ子みたく扱われては心外だ。
「ほら。あなたには食べられるものと、食べられないものを見分けるとか、飲み水の確保とかできる?」
「わかるもん」
「どうだか?」
勇子はリッサにグローブで覆われた指を突きつける。
リッサは胸元をとんと押されて、よろけるも桜の頬から離れると偉そうに胸を張った。
「じゃぁ、最初のわかることを言うよ? キノコは食べれません。土の上に浮き出た水は飲めません。あと、虫とか鳥とか動物は食べません。これ、メララの常識。ねぇ?」
「ま、まぁ、お伺いしましたけども……」
リッサの同意に桜は困った表情を浮かべて、むくれる勇子を見る。なぜ恨み節な視線を向けてくるのがわからない。しかし、正面切って聞くにはあまりに迫力があって、いらない溝を作りかねなかった。
「何さっ」
勇子は桜の上にいるリッサをひったくるようにして掴む。
「ヒトを馬鹿にするのもいい加減にしなさい!」
「離して!」
リッサは勇子の握り拳の中で身をよじり、小さな手で指を叩く。
華奢なお人形のような細さに、勇子も一瞬握る力加減を考えさせられた。
「勇子様、乱暴はよろしくありませんよ?」
「舌先三寸で切り抜けようっていうのが気に食わないわ。口は動くのに、何一つ役に立たないじゃない」
勇子はつい感情的になって桜に強く言う。
すると、桜の提灯草に照らされた顔が険しい影を落とした。
「勇子様こそ、口が過ぎますよ」
桜は手を差し伸べて、勇子に凄む。
様子を見ているミュウは笑みをこらえながら、二人の様子を見守る。いつも口先で言い押さえる勇子が大人しい桜に気おされている。そのことが愉快であった。
勇子は顎を引いて、視線を泳がせるが渋々桜の掌にリッサを解放する。
「まるでわたしが悪役みたいじゃない」
「自分より小さいものを盾にしてればそうだな」
ミュウが横間から冷やかして、くすくすと笑う。
「まだ会って間もありません。それに、リッサ様の情報はお役に立ちますよ」
桜は厳しい視線を勇子に射てから、リッサが座り込む掌を引き寄せて朗らかにほほ笑んだ。
「はい。導師様」
リッサは軽々と虫に噛まれたキャベツのスカートを揺らして、桜の肩に乗る。
勇子は鼻を鳴らして、むしゃくしゃした気分に任せてパイロットスーツのファスナーを下ろす。上着の部分を脱いでキャミソールをあらわにすると、キノコ傘を肩にかけて先へ進む。
その横をミュウがついた。
「相手はヒトだといったはずだ。愛玩動物ではないのだぞ?」
「そんなこと、知ってる」
勇子は怒気を含んで短く息を吐き出すとしゃんと胸を張った。
「はぁっ。情けないんだから、わたしっ。ちゃんとしろ!」
自分を叱咤して、キノコ傘の柄を反対の肩にかけ直して気持ちを入れ替える。
後ろに続く、桜とリッサは揺れる二つのキノコ傘の明かりを追った。
暗がりの行く手には数多の試練が待ち構えているとも知らず。
* * *
幹に近づくたびに険しくなる根っこの道。大蛇が這う様な曲がりくねった道、大波のように上下する道を歩き、少女たちは先を行く。
と、ちょうど太い根っこの合間にできた大きな水たまりが進路をふさぐ。壁のようにそそり立つ根っこには水上水中に淡く輝く苔と微生物が群生していた。
荘厳で、神秘的。銀河を綿あめにできたら、水面と樹皮に絡む光のようになるのかもしれない。
桜たちは水辺で立ち止まって、周囲を観察する。
「あの葉っぱ、足場にできそうか?」
ミュウが水面に浮かぶ巨大な蓮の葉を指さす。
かすかにホタルのような虫たちが羽を休めて、お尻を発光させている。それがぽつぽつと飛び石のように点在しているのがわかる。
「飛び移れない距離ではないだろう」
ミュウは目測からそう判断した。
「ここの水も、飲めそうにないわね」
一人跪いて水質を確認する勇子は掌から落ちていくヘドロのような水を眺めて言う。水を確保できたら楽なのだが、ろ過する装置もないために諦めるしかなかった。
「そうですか……」
桜が落ち込んだ声音で言ったそばから、カッカッと虫たちの歯ぎしりのような音が響く。
じっとしていられる余裕はないのかもしれない。彼女たちは飲み水にできなくとも、この腐葉土の木の下で生きる虫たちには貴重な水源になっている可能性はある。
迷っているだけ、時間の無駄だ。
「わたしが先に行きます。リッサ様は――」
「預かるわよ?」
勇子は立ち上がって、リッサに手を差し伸べる。
しかし、リッサは不機嫌に顔をそむける。
「大丈夫。振り落とされないように、帽子の下にしがみついてる」
リッサは是が非でも桜から離れたくないらしく、そそくさと桜の髪の毛を掴んでハンチング帽の下に潜り込んだ。
桜は痛いようなむず痒いような感触に口元を固く結わえる。
「いたく気に入られているな」
ミュウがキノコ傘の柄を回しながら言った。
「ちょっと痛いですけど、心強いです」
そう言いながら、桜もパイロットスーツの上着を脱いで、腕の部分を腰に巻き付ける。肌に張り付く長袖のTシャツが一気に冷たく感じられた。
「それでは」
「気をつけなさいね」
桜は勇子の声を背に受けて、少し水辺に入ると最初の蓮の葉へ飛び移す。
着地すると羽を休めていた虫たちが舞い上がる。
思ったよりもぶよぶよした足の裏の感触と揺れに肝を冷やす。それから短く息を吐くと何度か蓮の葉を踏みつける。沈む様子はない。穴が開く心配もないようだ。
「大丈夫みたいですね?」
桜は小さくつぶやいて、提灯草を大きく振った。
それに続いて勇子とミュウが飛び移ってきた。三人乗っても蓮の葉は沈む様子はなかった。
「この調子で次に――」
桜は蓮の端に立って足元を確認した瞬間、ぎょっとした。全身の毛が逆立って、硬直する。
「どうした?」
勇子が怪訝そうに尋ねる。
桜は目を大きく見開いて、小さく手招きをする。
「何なのだ? まったく」
ミュウも辟易した様子で桜の横へ移動し、足元を見た。
そして、勇子とミュウも足の裏から頭のてっぺんまで泡立つ感覚を覚える。
提灯草に照らされた水面。底からひょっこりと出ている巨大な目玉がじっと虚空を見上げている。蛙の目だ。
「か、かか、カエルっ」
「カエルの頭の上にいるのです」
狼狽するミュウに桜が口元に人差し指を当てて言った。
「河童、かしら? 始めてみたわ」
勇子は一人、驚きと共に『ノア』の古い伝承に残る妖怪の名前を口にした。
しかし、水面に出ている目は動くことなく、同じように出ている鼻先からはいびきのような音まで聞こえる。寝ているようだ。
桜たちは彼らが起きないように祈りつつ、巨大カエルの蓮の葉頭を八艘跳び。八匹の蛙の頭を踏み渡り、ようやく陸地へとたどり着いた。
「スケールが違いますね」
桜はそうつぶやいて、一度カエルたちが眠る水たまりを振り返る。そうしてようやく、緊張していた気持ちが弛緩して、肩がどっと重くなる。
と、ハンチング帽のつばを少し上げて、リッサが言う。
「春先だからまだ忙しくないのかも。夏になると下の方は騒がしくなるから」
「冬眠中?」
桜はカエルたちののんびりした生活にどう反応してよいやら、と困るばかりであった。
ただ『ノア』の農業コロニーでも岩のように巨大なカエルはいない。すべてが縮小化されて、人間の都合のいいように作られた世界と自然の力が生み出した生存競争の世界ではまるで違う。その感慨は大きく、桜の胸に突き刺さる。
「桜、先に行くわよ」
勇子が背中を叩いて、せかした。
「はい。行きましょう」
桜は振り返って歩き出すと、リッサは頭をひっこめた。
* * *
先に進めども、幹らしい巨大な影は見えてこない。光を放つ動植物たちのイルミネーションがまるで天の川のように遠く感じられる。
三人はあまりの空腹と喉の渇きに胃がキリキリと痛み出していた。吐く息にも熱がこもり、体から吹き出していた汗も少なくなっていた。
「む。なぁ、これは食えるのではないか?」
と、目ざといミュウが蔦植物に成っている真っ赤な木の実を見つける。ソフトボール大のずっしりと重たそうな果肉、熟れた色づき。食べごろだと言わんばかりの誘惑がにじみ出ていた。
勇子がミュウの横につくとその果実をじっと睨んだ。
「どうだ? 食べられるか?」
「お姫様が食い意地を張るだなんて、はしたないわ」
「そうは言うがな。このような、おいしそうな色合い。あぁ」
ミュウはため息をついて今にも果実をもぎ取ってかじりつきそうであった。
軽い脱水症状でふわふわする脳みそと空腹のあまり締め上げられる胃の痛みは冷静さをそぎ落としていた。
「落ち着いてください。ミュウ様」
桜はミュウが空腹のあまり冷静さを失っていると判断して提灯草で制する。
「調べるわ」
勇子はその間にブーツの側面についているジッパーを開いて、中から折り畳みナイフを取り出す。
桜はミュウの肩に腕を回すようにして、ぐずる彼女を抑えた。伝わる体温は火照ったように熱く感じられた。南国の太陽のカラッとした熱気と、ねばりつくような蒸し暑さではミュウの体は相性が悪かったようだ。
「お願いします」
「わらわは、落ち着いておる」
「ミュウ様、疲れているのはわかりますが、ご辛抱ください。もしかしたら、空腹の動物を引き寄せて寄生してしまう植物かもしれないのです」
「リッサ、知ってる。おいしそうに見えるものには毒をいっぱい持っているやつもあるって」
桜の帽子を上げて、リッサが付け足す。
勇子はその忠告を耳にしつつ、一つ果実を取ってナイフで二つに切り分ける。それから、グローブの端末に備え付けられている米粒のような端子を引っ張って完熟している果肉に突き刺す。
立体スクリーンが起動すると成分解析をしてくれた。
「毒物らしいもの、ありませんよ」
分析の結果は人体には無害だと出た。
しかし、勇子も暗い木の下に実っている果実が安全かどうか、不安が残る。
「じゃぁ、あたしが見てみる」
「リッサが?」
勇子は訝しんだが、桜の帽子から出てきたリッサは彼女の肩まで下りてくる。それからスカートのすそを軽く払う仕草をして、ちょこんと腰を下ろした。
「渡して」
「偉そうに……」
勇子は切った果実の半分をリッサに渡した。キャベツのようなスカートが果実の重さで沈んだ。それから、意識を集中させるようにして瞳を閉じると頭を下げる。
「ああ! 抜け駆けとは――」
「そうではありませんよ。ほら」
空腹のミュウが声を荒げるのを、桜は制しながら、提灯草をリッサが腰かける肩の方に持っていく。
照らされたリッサは頭についている触角で果肉を探り、集中しているようであった。
「メララ族もここで暮らす人ですから、耐性があるのですよ」
桜はリッサが話してくれたことを思い出して、ミュウに言い聞かせる。
事実、リッサは沈黙し、頭に直接流れ込んでくる化学物質的なものを検知する。すっと顔を上げると、その表情は曇っていた。
「これは……。食べられない」
「メララにとってであろう?」
ミュウはあきらめなかった。
「体はちょっと違うかもしれないけど、導師様たちと似ているから拒否反応が起きるかも。こんな風に」
と、彼女は爪楊枝のように細い腕を差し出した。
勇子とミュウは頬を合わせるようにしてリッサの腕を注視する。
そこには幾何学模様を描く模様のようなものが浮き上がっていた。
「ちょっと、大丈夫なの?」
これには勇子も心配してしまう。
「へいちゃら。こうやって模様が出てくると毒とかがあるって証拠だから。すぐに消えちゃうけど」
そういってリッサは腕をひっこめる。
「毒見したのか?」
ミュウが問う。これまで散々抜け駆けだと嫌っていたが、彼女の様態を見てしまって一気にその衝動は冷めてしまった。自分にも何らかの異変が起きるのでは、という自制心が働く。
「毒見? そんなことしてないよ。これを使うとね、メララは毒があるとか、病気の原因とかがわかるんだ。導師様やあなたたちにはないけど、とても便利なの。導師様にもあれば便利さがすっごくわかって、素敵なことだって思うはず。けど、これを取ってしまうとわたしはとても不便しちゃう」
リッサは自分の触角を撫でながら、早口に言う。
「取りませんよ」
間近で見ている桜からも彼女は元気に見える。空元気にしてはあまりに元気。笑顔を浮かべて、翅をわずかに揺する姿は遜色なくみえる。
それから、ふて腐れるミュウへと視線を移す。
「ミュウ様、もうしばらくご辛抱ください」
「むぅ……」
ミュウは納得いかないと頬を膨らませると、桜から視線を外す。それから、思い出したように桜の細い腕を振り払った。
それから、進行方向の暗闇をじっと見つめる。
その時である。
タッタッタッ。タッタッタッ。
リズミカルな足音がミュウの耳を叩く。それが幾重にも重なって、ゆっくりと近づいてくる。
「足音?」
ミュウは耳元の髪を後ろに流して、向かってくる足音をじっと待ち構える。六本足の虫のリズムとは違う。聞き覚えのある、ちょうど馬か犬のような歩調のリズムである。
勇子と桜はミュウの様子に気づいて、緊張の面持ちを見せる。
「リッサ様、隠れてください」
桜はそういって、リッサから果実を受け取る。
リッサは頷き、またハンチング帽の中へと隠れていった。
「虫?」
勇子にも足音が聞こえた。
「いや、そんな感じではないな。数もそこそこいる」
ミュウは横につく勇子にささやきながら暗闇に目を凝らす。
やがて、足音はしどろもどろになって警戒するように近づいてくる。桜たちは下手に動かず、相手の出方をうかがった。
すると、ミュウのキノコ傘が照らす地面に鼻先が現れた。そして、キノコ傘の青白い光に一匹そろそろと出てきた。まだ小さく、サッカーボールほどの大きさで、縦に沿って流れる縞模様の体毛、先割れスプーンのような蹄、つぶらな瞳が潤んで光る。
「ん。ブタ……?」
特徴的な鼻先からそう判断したミュウは屈みこんで、そっと手を差し伸べる。姿を現したブタらしき生き物はさっと後退った。
「これ――」
と、勇子が嬉々とした様子で同じように屈みこんだ。
「ウリ坊じゃないかしらっ」
「ウリ……、ボウ?」
「イノシシの赤ちゃんだと習ったわ。ほら、おいで」
勇子は猫なで声で言って、手にしている果実を差し出してみる。
すると、キノコ傘の明かりを避けていたウリ坊たちが鼻を鳴らして、一匹、二匹と集まってくる。果実の断面に興味津々といった様子で幾度も鼻をつけては探りを入れている。
「食べない?」
「イノシシも食べないなら、ニンゲンが食えるものでもないのだろう」
ミュウはそういって、集まってくるウリ坊たちを見渡す。
いつの間にかウリ坊の数が十匹を超えて、ミュウと勇子の周りをうろちょろして彼女たちの足に鼻や前足をかけていた。おねだりのつもりなのだろう。
「この子たち、どうしたんでしょう?」
桜は脛に体をこすりつけるように回るウリ坊たちを見下ろしながら勇子に聞いた。彼女もウリ坊を見るのは初めてであったし、対処に困った。
「お母さんとはぐれちゃったのかな? それにしてもかわいい……」
勇子はすり寄ってくるウリ坊がもう可愛くて仕方なかった。
警戒心が解けたからか、体に触れてもウリ坊は逃げようともしない。縞模様の毛の意外にやわらかい触り心地に彼女もデレデレである。そのうえ、短い尻尾を元気よく振るのだから愛嬌がある。
ミュウは可愛いものに目がない勇子をはた目に見ながら、ひょいと一匹抱き上げた。ブピィとウリ坊が鳴く。
「そんな乱暴に扱わないっ。かわいそうでしょう!」
勇子が厳しい口調で言った。
ミュウはジタバタとせわしなく足を動かすウリ坊を観察する。まだ授乳期間ともあってか肉付きがほとんどなく、手足もか細い。重みもさしてない。
それでもイノシシだ。
「イノシシの肉なら、食べられるか……。こんだけ小さくとも」
「食欲に目がくらんで、なんてことを言うの? 食べようっていうの?」
「小さかろうが肉だ。肉に違いはない」
「姫様のそういう何でもかんでも食べようっている意地汚さ、本当に王族出身なのか疑わしいわ」
勇子とミュウは睨み合って、唸り声を上げる。
見かねた桜が二人の間に立って仲裁する。
「おやめください、お二人とも。これだけ赤ちゃんがいるということは母親だって――」
その時、木をへし折る不協和音が響き渡った。
桜たちがびっくりして顔を上げる。
暗がりの中で巨大な何かが移動している。足取りはゆっくりと、しかし、一蹴りごとの地鳴りと地響きは重々しく力強い。
ウリ坊たちが桜たちの下にすり寄る。今度は暗闇を恐れて、キノコ傘や提灯草の明かりの下に集まる。
すると、暗闇から巨大なイノシシの鼻先と巨大な牙が提灯草の明かりの下に現れた。直径一メートルはあろうかという巨大な鼻先は鼻の穴を伸縮させて、ひくひくと躍動する。
「これがイノシシの大きさか?」
ミュウは抱きかかえているウリ坊を胸元に寄せて、かすかに見える蹄を凝視する。それだって、岩盤のように強固そうで岩をも踏み砕きそうな筋肉質な足のしなりが見える。
灯りで捉えきれなくとも、大型トラックなみの大きさと威圧感があった。
抱きかかえられたウリ坊はミュウの胸を前足で押し付けながら、はい出ようと暴れ、喚いた。
すると、巨大な鼻先がミュウのほうにむけられる。
「お母さんイノシシですか?」
桜は恐る恐る濡れた鼻先に問いかける。
すると、巨大な鼻は桜へと向けられた。荒々しい鼻息が噴き出すと、桜はその風圧に足元がよろけ、手から果実が落ちる。あまりにも強く、他を寄せつかない強さがあった。
すると、ウリ坊たちは鼻をせわしく働かせて、トコトコとその鼻下をくぐっていく。
ただ一匹、ミュウに抱かれたままのウリ坊だけが取り残される。
「姫様、早くその子を返してあげてください」
「う、む」
ミュウはこわばった表情を浮かべたまま、野太い鼻音に戦慄する。
もちゃもちゃと口元が音を立てると、食べられてしまうのではないかという恐怖が襲い掛かってくる。象牙のような巨大な牙を見るに、母イノシシが持つ歯が人間の骨肉を噛み砕くなど造作もないように思える。
ミュウがウリ坊をそっとおろすと、その子はそそくさと母イノシシの後ろへと姿を消していった。
「さぁ、返したぞ……」
ミュウは緊張して言う。
しかし、イノシシの鼻はどくことなくミュウや勇子を探るように鼻息を吸い込んだ。その生暖かく、しかも言いようのない汚臭に頭がしびれてくる。
「た、食べてもうまくないぞ」
「そんなベタなことが通じる生き物ですかっ」
ミュウと勇子が怯えていると、桜は意を決して一歩前に出る。
「桜っ」
「な、何とかします」
「何とかって――」
桜は鼻先の注意が自分に向いたと確信しつつ、その滑り台のような鼻筋を目で追った。
そして、そこには大きな黒い真珠のような瞳がじっと白い少女を見据えている。微かに鼻先が引っ込んで、息遣いが静かになる。
互いの視線が交わり、しばらく硬直状態が続いた。
それで意志が通じるはずはない。それでも桜にはこうするほか、考えが浮かばなかったのも事実である。
それでも、母イノシシは何かを感じ取ったかのように鼻息を吹きかけると踵を返して去っていく。
後ろをついていくウリ坊たちはトコトコとせわしく足を動かして、母親の大きな尻尾を追っていく。
「帰ってった」
勇子は危険が去ったと思って、安どのため息を吐いた。
「何だったのだ? あのイノシシは?」
ミュウは立ちあがって、イノシシ親子が消えていった暗闇を見つめる。
「よくはわかりませんが――」
小刻みに震える桜は急にこみあげてくる恐ろしさに引きつった笑みを二人に見せる。
「どうにか、なりました」
その一言がすべてであった。
なにかをしたという実感はない。それでも対峙してみて、道は開けた気がした。
「みなさん、イノシシ親子を追いましょう」
「冗談――っ」
勇子はもう腕を全力で振り下ろして、地面を強く蹴りつけた。
と、ハンチング帽からリッサが顔を出す。
「ああいう生き物って根っこを食べていきてるから、大樹のことわかってると思う。あたしよりも詳しい道筋を知ってると思う」
リッサの言葉に勇子は半信半疑であった。
確かにイノシシは虫や木の根などを食べて生きている。だからといって、巨大な木の根を掘り返して食べようとするのは、本能的にもわかるはずだ。
「虫ばかりの場所で哺乳類がいるのです。もしかしたら、わたしたちが食べられるものを見つけてくれるかもしれませんでしょう?」
桜はそう言って、ウリ坊の最後尾についていった。
ミュウと勇子は拒否権もなく、その後ろについた。
「イノシシが食べられるから、わらわたちが食べられるとも限らんだろう?」
「でも、水浴びも好きな動物ですから。水の確保くらいは期待したいわ」
それがささやかな期待となって、三人は歩みを再開する。




