94話 これからのこと
翌朝――防災対策課・医療棟。
窓から差し込む柔らかな朝の光が、静まり返った病室を照らしていた。
ベッドの上で、俺――橙真はゆっくりと目を開ける。
「……」
身体を少し動かして、ゆっくりと起き上がった。
全身に重だるい疲労感が残っている。
それでも、動けないほどではない。
自分の両腕を軽く曲げ伸ばししていた、そのときだった。
コン、コン、コン。
病室の扉が、三度ノックされた。
「どうぞ」
静かに声をかけると、扉が開き、風宮さんが入ってきた。
「おはようございます、風宮さん」
「ああ。おはよう、日向」
風宮さんはベッド脇まで静かな足取りで近づいてくると、鋭さの中にも温かさを宿した眼差しで、俺の顔をじっと見つめた。
「体調はどうだ?」
「大丈夫です」
「本当に?」
「はい」
風宮さんは微かに眉を寄せる。
「身体に痛む場所は?」
「少しだるいくらいです」
「一人で立てるか?」
「たぶん、大丈夫です」
俺は布団を押し上げ、ベッドの端からゆっくりと両足を下ろした。
床へ足の裏をつけ、膝に力を込めて立ち上がる。
立ち上がった瞬間、視界が一瞬だけ揺れ、身体が小さくふらついた。
だが、すぐに壁へ手をついて体勢を立て直す。
「それ、自力でたてているのか?」
「大丈夫ですよ。立ててます」
「無理をしてないか?」
「してないですよ」
風宮さんは何も言わず、しばらく俺の様子を観察していた。
やがて小さく息を吐き、静かに口を開く。
「日向」
「はい」
「学校へ行く気はあるか?」
「学校、ですか……」
俺は少し視線を落とした。
以前なら、怪我を押してでも、何事もなかったかのように登校することを考えていただろう。
けれど今は、自分の体力がまだ完全には戻りきっていないことを自覚していた。
「学校は……しばらく休もうと思います」
「そうか」
風宮さんも反対する様子は見せなかった。
「俺も、その方がいいと思っている」
「蒼太と碧羽も、まだ眠っていますしね」
「ああ」
風宮さんはふっと視線を外へ向け、窓の外の景色を見つめる。
「三人とも、今は無理せず身体を休めることを最優先した方がいい」
「分かりました」
俺が素直に頷くと、風宮さんは胸ポケットから取り出した小さな箱を差し出してきた。
「それと、もう一つ」
「?」
両手で丁寧に箱を受け取る。
「開けてみろ」
静かに蓋を開ける。
中に入っていたのは、黒いフレームのスマホだった。
「スマホですか……?」
「ああ」
俺は思わず目を丸くした。
「これって……」
「以前使っていたものは戦いで壊れただろう」
「でも――」
「気にしなくていい」
風宮さんは、いつも通りの淡々とした口調で続ける。
「支給品だ。それに、前のスマホのデータはすべて移行してある」
俺は手に収まった新しいスマホの感触を確かめるように見つめた。
「……風宮さん、ありがとうございます」
「大事に使え」
「はい」
側面のボタンを長押しして電源を入れる。
見慣れた起動画面が表示された。
端末を確認すると、以前のスマホに入っていた写真や連絡先が、何一つ失われることなく残っている。
まるで、あの激戦など、まるでなかったかのように。
風宮さんが静かに立ち上がった。
「今日はまだ大人しく休んでいろ。調査の日程が決まったら、また連絡する」
「分かりました」
風宮さんはそれ以上何も言わず、病室の扉へ向かった。
カチリ。
扉が閉まり、部屋に再び静寂が戻ってきた。
俺は手の中の新しいスマホを見つめる。
そのスマホを触っているうちに、ある人の顔が思い浮かんできた。
「……咲どうしてるかな?」
時計を見る。
まだ午前の早い時間だった。
今電話をかけても、授業の邪魔になる。
連絡するなら、放課後の方がいいだろう。
俺はスマートフォンをベッド脇のサイドテーブルへそっと置いた。
***
窓の外が少しずつ茜色に染まり、部屋の中に長い影が伸び始めていた。
そろそろ学校が終わる時間だ。
俺はベッド脇からスマートフォンを取り上げる。
画面をスワイプして連絡先を開き、『咲』の名前を探す。
指先でタップし、通話ボタンを押した。
プルルルル。
静かな室内で呼び出し音が響く。
数回のコールの後、小さくノイズが混じって電話が繋がった。
『もしもし?』
「咲?」
『橙真先輩ですか?』
「うん」
『最近また、学校に来てないみたいですけど、どうしたんですか?』
「まあ、いろいろあってな」
スマホ越しに聞こえる、いつもの咲の声。
緊張していた胸の奥が、少しだけ解けていくのが分かった。
『何かあったんですか?』
「うん。実は――」
俺は昨日、神社で起きた出来事を、慎重に言葉を選びながら咲に話し始めた。
邪神体が再び姿を現したこと。
蒼太と碧羽が倒れて入院していること。
そして、これから自分たちが神社の周辺区域を調査すること。
電話の向こうで、咲は何も言わず、黙って俺の言葉に耳を傾けていた。
『……そうだったんですね』
「うん」
『橙真先輩は、大丈夫なんですか?』
「うん。俺はもう、大丈夫だから」
いつものように答える。
そう答えたものの、身体にはまだ重い疲労が残っていた。
電話の向こうから、小さく息を呑む気配が伝わってくる。
『なら、よかったです』
短い沈黙が二人の間に流れる。
それから、咲が意を決したように口を開いた。
『私にできることがあったら、何でも言ってくださいね』
「ありがとうな、咲」
『はい。橙真先輩はもっと、私を頼ってもいいんですよ!』
「うん。わかった」
通話が終わり、画面が暗転する。
俺はスマホを耳からゆっくりと離した。
表示された通話履歴の画面には、咲の名前と数分間の記録だけ残っている。
俺はその画面を、しばらく無言で見つめていた。
それから顔を上げ、窓の外へと視線を向ける。
落ちていく夕陽が、街並みをゆっくりと深く濃い赤に染め上げていた――。




