93話 戦いの結果
数日後――防災対策課・医療棟。
窓から差し込む朝日が、廊下を優しく照らし出していた。
俺――風宮は、静寂に包まれた廊下をゆっくりと進んでいた。
三人の容体を確認するためだった。
しばらく歩くと、廊下の向こうから光莉が厚いファイルを胸に抱え、小走りでこちらへ向かってくるのが見えた。
「おはようございます、風宮さん」
「おはよう」
光莉は俺の前で足を止め、軽く頭を下げる。
そして、そのまま隣に並んで歩き始めた。
「三人とも、ひとまず容体は落ち着いています。先ほど担当医から、朝の全体診察が一通り終わったと連絡が入りました。今から一緒に、それぞれの様子を見に行きませんか?」
俺は前方へ視線を戻し、静かに頷いた。
「ああ、そうだな」
***
二人で医療棟を進んでいく。
最初に向かったのは、手前側にある集中治療室の前だった。
扉の横に設置されたプレートには、『水沢 蒼太』の文字が刻まれている。
俺たちは病室に入らず、壁にはめ込まれた観察用ガラス越しに、中の様子を見つめた。
広い部屋の中央。
水沢はベッドの上でシーツに包まれ、身動きひとつせず横たわっている。
左腕には点滴のチューブが繋がれ、露出した胸元には心電図の電極がいくつも取り付けられていた。
ピッ、ピッ、と一定の間隔で刻まれる電子音だけが、静まり返った室内に小さく響いている。
光莉が俺の隣で息をひそめながら、状況を説明し始めた。
「蒼太くんは、雷撃による激しい放電を受け、全身の筋組織と神経系に過度な負担が掛かりました。一時は重度のショック症状を引き起こしていましたが、幸いにも命に別状はありません。まだ意識は戻っていませんが、現在は極めて安定しています」
「そうか……。よかった」
俺は短く応じ、胸の奥に溜めていた息をそっと吐き出した。
ガラス越しに見える蒼太の顔立ちは穏やかだった。
規則正しい呼吸だけが、静かに続いている。
「本当に早く目を覚ましてくれるといいですね」
光莉が祈るように呟く。
俺は言葉を返さず、ただ深く頷いた。
再び向きを変えて足を進める。
そのすぐ向かい側にも病室があった。
ドア横のプレートには、『風間 碧羽』の名前が記されている。
こちらも同様に、ガラス越しに室内へ視線を向けた。
風間も、ベッドの上で深い眠りに沈んでいた。
頸椎を保護するための白い固定具が首元にしっかりと装着され、左腕には点滴が繋がっている。
透明な酸素マスク越しに見える呼吸も、一定のリズムを保っていた。
光莉が心底安堵したように、胸に手を当てて小さく息をつく。
「碧羽さんも容体は良好です。高所から落下した際に激しい全身打撲を負いましたが、脳や脊髄への重大な損傷は見られず、大きな後遺症は残らないとのことです。蒼太くん同様、あとは本人が目を覚ますのを待つだけですね」
「そうか」
あの大規模で圧倒的な絶望の中、誰一人欠けることなく、生き延びてくれた。
俺はガラス越しにもう一度、二人の静かな寝顔を見つめる。
「よく、生き延びてくれた」
胸の底から絞り出すように呟く。
俺はくるりと向きを変え、歩き出した。
光莉も、その背中に応えるように無言のままついてくる。
***
医療棟のさらに奥。
一般の集中治療室とは区画が明確に分けられたエリアが存在していた。
そこにある一室へ向かって歩いていく。
廊下奥の突き当たり。
重厚な扉の前で、俺と光莉は足を止めた。
プレートには、『日向 橙真』と書かれている。
光莉が背筋を伸ばし、深く息を吐き出した。
「橙真くんは、こちらです」
俺は静かに取っ手へ手をかけ、病室のドアをゆっくりと開けた。
部屋の中は、静まり返っていた。
窓から差し込む光が、室内を照らし出している。
中央に置かれたベッドの上で、日向が横たわっていた。
左腕には栄養補給のための点滴。
胸元には心電図のモニターが繋がり、小さな電子音を刻み続けている。
あの戦いが嘘のように、表情は穏やかだった。
俺は歩み寄り、ベッドの脇に立つ。
光莉は少し後ろに控えている。
しばらくの間、規則正しい心拍音だけが室内を満たしていた。
そのときだった。
布団の上に置かれていた日向の指先が、ぴくりと微かに動いた。
「……っ」
小さな吐息とともに、ゆっくりとまぶたが開かれていく。
最初は焦点の定まらないうつろな視線が、眩しそうに天井を見つめていた。
だが、数秒の遅れを挟んで、その瞳がゆっくりとこちらへ向けられる。
「風宮さん」
「気づいたか」
日向はかすれた声で呟くと、腕に力を込めて身体を起こそうとした。
「無理に起きなくていい。横になっていろ」
俺が制するように声をかけると、日向は素直に腕の力を抜き、再び深く枕へ頭を預けた。
病室に短い沈黙が訪れる。
日向は自分の体調を確かめるでもなく、真っ先に口を開いた。
「蒼太と碧羽は」
「二人とも命に別状はない。まだ意識は戻っていないが、容体は極めて安定している」
その言葉を耳にした瞬間、日向はホッとしたように小さく長い息を吐き出した。
「よかった」
心底安堵した様子で、静かに一度目を閉じる。
二人の無事を確認し、肩の力を抜いた日向の様子を見届けた俺は、表情を変えぬまま口を開いた。
「だが、お前も無事ではない」
日向は不思議そうに、ゆっくりと目を開けて俺を見る。
俺はベッド脇のサイドテーブルから小さな手鏡を手に取り、日向の目の前へ差し出した。
「これを見ろ」
橙真は怪訝な表情を浮かべながらも、鏡を受け取った。
そして、そこに映る自分自身の姿へ視線を落とす。
「……!?」
その瞬間、橙真は絶句した。
かつては黒だったはずの髪。
その四分の三近くが、白く染まっていた。
さらに、首筋から胸元、そして腕へと広がる肌の灰色の模様も、以前見たときより明らかに侵食の範囲を広げている。
日向は何も言えないまま、震える手で自身の髪へそっと触れた。
変色した髪が、彼の指の間をさらさらと滑り落ちていく。
「これ……って」
長い沈黙の末、ようやく彼の口から漏れ出したのは、掠れた小さな声だった。
俺は彼の目を真っ直ぐに見つめ、事実を淡々と告げる。
「限界を超えて能力を解放した代償だ。その力を振るうたびに、お前の身体は確実に蝕まれている。今回は、その侵食の進行が今までで最も大きかった」
再び、静寂が室内を支配する。
日向は鏡に映る白髪の自分を見つめたまま、何も言わない。
どれほどの時間が経っただろう。
やがて彼は、手に持っていた鏡をゆっくりと膝の上へ下ろした。
「そうですか」
絞り出すように呟いたその声は、取り乱すこともなく、不思議なほど静かだった。
まるで、すでに自分の運命を受け入れてしまったかのような声だった。
俺は静かに告げる。
「今は難しいことを何も考えるな。とりあえず身体を休めることだけを考えろ」
日向は膝の上の鏡を見つめたまま、小さく頷いた。
「はい」
俺は光莉に目配せし、ともに病室を後にした。
扉がカチリと音を立てて閉まり、再び完全な静寂が戻ってくる。
一人残された日向は、窓から差し込んでくる朝の眩しい光をじっと見つめていた。
光に照らされながら、もう一度だけ、自分の白く変わってしまった髪へそっと手を伸ばす。
「これが、俺の代償……」
誰にも届かない掠れた呟きが、部屋の空気の中へ、切なく溶けて消えていった――。




