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92話 戦いの代償

 防災対策課。


 夕闇が迫る午後五時過ぎ。


 静まり返った室内に、一台のスマホの着信音が甲高く鳴り響いた。


 俺――風宮は手元の事件資料から目を離し、薄暗くなりかけたデスクの上で振動する画面へ視線を落とす。


 表示されていた名前は――『日向橙真』。


 胸をかすめる不吉な予感を押し殺しながら、すぐに通話ボタンを押して耳へ当てた。


「日向、どうした? 何かあったのか?」


 受話口の向こうから聞こえてきたのは、いつもの落ち着きを完全に失い、明らかな焦りを帯びた声だった。


『風宮さん――!』

「日向?」


 その直後だった。


 ゴォォォォォン!!


 受話口の奥から、大気を激しく引き裂き、地を揺らすほどの凄まじい雷鳴と、何かが砕ける音が響き渡る。


 そして、その轟音を境に通信はプツリと途切れてしまった。


「……日向?」


 呼びかけるが、返事は返ってこない。


 俺は焦りを押し殺し、もう一度強く呼びかけた。


「おい、日向! 応答しろ! 日向! 日向!」


 だが、受話口から返ってくるのは、ザラザラとしたノイズと無機質な無音だけだった。


 夕方の書類整理をしていた光莉が、俺のただならぬ雰囲気に気付き、不安そうにこちらを見る。


「風宮さん……橙真くんから何か連絡が来たんですか?」


 俺は画面の消えたスマホを見つめたまま、重い声で答えた。


「ああ。だが、何か状況を報告しようとした瞬間に通信が切れた……。もしかしたら、日向たちに深刻な事態が起きたのかもしれない。俺は今すぐ現場へ向かう」


 光莉も表情を瞬時に硬くし、立ち上がった。


「私も行きます! 手伝わせてください!」

「分かった。日向たちの状況が分からない。急ぐぞ」

「はい!」


 二人はすぐさま上着を掴むと、防災対策課の部屋を飛び出し、地下駐車場へ向けて走り出した。


***


 夕暮れの街並みを裂くように、公用車を猛スピードで走らせる。


 神社までの道中、俺は何度もハンドルを握り締めながら、現場の状況を考えていた。


「橙真くんたち、大丈夫でしょうか……」


 通信が切れる直前に聞こえた、あの雷鳴。


 ただの戦闘ではない。


「それはわからない。だから、急ぐぞ」


 何か、とてつもない事態が起きている。


 その予感が、胸の奥から離れなかった。



***


 午後五時十五分ごろ。


 神社へ到着した俺たちは、階段を駆け上がった。


 その先には、戦いの凄まじさを如実に物語る、凄惨な光景が広がっていた。


 参道の石畳は粉々に砕け散り、周囲の樹木は黒く焦げ付いている。


 夕闇が落ち始めた境内に、異様な気配を放っていたはずの邪神体は、どこにも見当たらなかった。


 光莉は境内の惨状を見渡した瞬間、思わず息を呑んだ。


「……っ!?」


 言葉が出なかった。


 彼女の震える視線の先には、壊れた石畳の上に痛々しく倒れた蒼太と碧羽の姿があった。


「私、二人の状態を確認してきます!」


 光莉は応急手当のキットを手に、すぐさま駆け出していった。


 俺は、その少し離れた境内の中心近くに立つ日向へ向かって、静かに歩み寄る。


 日向は俺に背を向けたまま、立ち尽くしていた。


 その全身からは、目に見えるほど濃密な紅蓮の炎がゆらゆらと立ち上っている。


 発せられる強烈な熱気だけで、周囲の空気が揺らいでいた。


 まるで、近付く者すべてを拒絶するかのような、冷たく凶暴な気配。


「日向」


 声を低くして呼びかけるが、何の反応もない。


 俺は慎重に、さらに一歩近付いた。


「日向、もういい……。邪神体はいない。すべて終わっているぞ」


 その言葉が、日向の意識の奥に届いた。


 まさに、その瞬間だった。


 日向の全身を包んでいた激しい炎が、ふっと小さく揺らぐ。


 ボッ……。


 勢いよく燃え盛っていた炎は、徐々にその勢いを弱めていく。


 やがて幻であったかのように、完全に消え去った。


 ――カチッ。


 日向は右耳へイヤホンをつけ直した。


 そして次の瞬間――。


「がはっ!?」


 日向の口から、大量の真っ赤な血が噴き出した。


「日向っ!」


 そのまま力なく崩れ落ちていく身体を、俺は咄嗟に前へ踏み込み、抱きかかえるようにして受け止めた。


 胸の中でぐったりとした彼の意識は、完全に失われている。


 その瞬間、俺の視線は彼の頭部へ向かった。


 そして、思わず息を呑む。


 以前は半分ほどだった白髪が、今ではその四分の三近くまで真っ白に染まっていた。


 さらに首筋から腕にかけて露わになっている灰色の不吉な模様も、以前に確認したときより明らかに広がっている。


 能力を無理に解放した代償は、着実に日向の身体を蝕んでいた。


「日向……また無茶をしたのか」


 そこへ、二人の救護を終えた光莉が蒼白な顔で駆け寄ってくる。


「風宮さん! 蒼太くんも碧羽さんも激しい損傷と消耗がありますが、幸いにも命に別状はありません!」


 俺は静かに、固い表情で頷いた。


「分かった……。全員を直ちに防災対策課の医務室へ搬送する。救急搬送の要請を頼む」

「はいっ! 了解しました!」


 光莉が緊急通信を入れると、それほど時間を置かず、防災隊員たちが担架を境内へ運び込んできた。


 日向、蒼太、碧羽。


 過酷な戦いを駆け抜けた三人は、それぞれ担架へと乗せられ、静かに傷ついた神社を後にしていった。


 すっかり夜の静寂に包まれ始めた神社には、遠ざかっていく救急車両のサイレンだけが、どこまでも長く、切なく響き続けていた――。

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