09話 放課後の時間
ゴールデンウィーク明けの学校には、いつもの日常が戻っていた。
あの日見た恐ろしい怪物も、咲の目だけに映っていた不気味な赤い光も、この休み期間に一度も現れることはなかった。
人々は相変わらず平和な日々を過ごしているし、俺たちもまた普通の高校生としての毎日を送っている。けれど、あの一夜を共にした俺たち4人の関係だけは、あの出来事を境に少しずつ、確実に変わっていた。
終礼のチャイムが校舎に響き渡る。
2年生の教室。担任の先生がHRを終わらせた途端、静まり返っていた教室が一気に騒がしくなる。後ろの席で、蒼太が椅子の背もたれに深く体重を預けながら両手を大きく伸ばした。
「よしっ、そろそろ部活行ってくる!」
「私も弓道場行ってくるね」
後ろ側の席で、碧羽も教科書をかばんにしまいながら立ち上がる。俺は席に座ったまま、片手を軽く上げて2人を見送った。
「いってらー」
「サクッと終わらせてきてやるぜ!」
「蒼太、真面目にやってきてよ?」
碧羽が呆れたように苦笑しながら小突く。
「もちろんやってるって! 俺、走ることだけは好きだからな」
「今日は練習時間長いのか?」
「いや、長距離の軽めメニューだから1時間くらいで終わるはずだぜ」
「私も今日はフォームの確認だから、それくらいで終わるかな」
2人の会話を横で聞きながら、俺も机の脇のかばんを持ち上げた。
「じゃあ終わるの待ってるわ」
「了解! 終わったら校門前に集合な」
そのまま教室を出ようとした蒼太だったが、ふと何かを思い出したように足を止め、俺の方を振り返った。
「そういえばさ、もしかして咲のやつ、もう昇降口で待ってるんじゃないか?」
「あー……確かに、あり得るかも」
碧羽がクスッと笑う。俺も思わず口元を緩めた。
「咲の性格だったら、10分前行動くらい普通にしてそうだしな。じゃあ、俺が行って様子見てくるわ」
「お、頼んだぜ橙真!」
2人は元気よく教室をあとにし、それぞれの部活へと向かって行った。
混雑する廊下を抜け、1年生のフロアを通って昇降口へ向かう。
靴を履き替える生徒たちの波から少し外れた場所で、咲が一人、かばんを両手で抱えるようにして静かに立っていた。チラチラと2年生の下駄箱の方へ視線を向けている。
俺はそっと近づいた。
「あ、橙真先輩……!」
「……やっぱりいた」
咲は目を丸くして、驚いたようにパチクリと瞬きをした。
「え……?」
「いや、咲が待っていそうだなと思ってさ」
咲はハッと自分の状況に気づくと、少し恥ずかしそうに頬を緩め、苦笑いを浮かべた。
「そんなに……私って分かりやすいですか?」
「かなりね。蒼太も碧羽も『絶対もう待ってる』って言ってたし」
咲は降参したように肩をすくめた。
「否定は……できませんね。早く終わりすぎて、早めに行動しちゃったので」
俺はくすりと笑った。2人で靴を履き替え、昇降口を出る。
初夏の風が吹き抜ける校庭の脇、木陰のベンチに2人で腰掛けた。
グラウンドでは陸上部が声を出して走り込みをしており、少し離れた弓道場からは澄んだ弦の音が響いてくる。咲が汗を流す蒼太の姿に視線を向けた。
「蒼太先輩、やっぱり足速いですね」
「あいつ走ること『だけ』は得意だからな。それ以外は結構雑だぞ」
咲は思わず吹き出した。
「ふふ、でも……すごく楽しそうです」
「あいつは走っている時が一番活き活きしてるからな」
次に、咲が静まり返る弓道場へ視線を移す。
「碧羽先輩も……弓道やってる姿、すごく格好いいですよね」
「中学からやってるからな。実際めちゃくちゃかっこいいぞ。本人に直接言うと照れて長話が始まるかもしれないけど」
俺が冗談めかして言うと、咲も楽しそうに笑った。穏やかな時間がゆったりと流れていく。
ふと思いついたことを、俺は口にしてみた。
「それじゃあさ……咲は俺のこと、どう見えてるんだ?」
「え?」
咲が驚いてこちらを向く。
「蒼太は元気で、碧羽は頼りになるだろ? 俺はどうなんだ?」
咲は視線を泳がせ、一生懸命に言葉を選んでから照れくさそうに答えた。
「……とっても優しいです。一緒にいるとなんだかすごく安心しますし」
「そうかな〜」
俺が苦笑して視線を戻すと、咲は声を小さくして、聞こえるか聞こえないかのような声で呟いた。
「……あと、とってもかっこいい……です」
「ん? 咲、何か言ったか?」
「いいえ、な、何も言ってないですよ!」
慌てて首を振る咲。
やがて1時間が経ち、俺たちはベンチを立ち上がってオレンジ色に染まり始めた校門へと向かった。
下校する生徒の姿も減った頃、汗を拭いながら蒼太が走り込んできた。
「お、待たせたな!」
「お疲れ様です、蒼太先輩」
少し後から碧羽もやってくる。
「咲、待っていてくれてありがとうね」
これで、ようやく4人が揃った。
夕日が校舎と俺たちの影を赤く長く伸ばしている。蒼太がかばんを担ぎ直した。
「よし、じゃあ帰るか!」
「うん、4人揃ったね」
碧羽が嬉しそうに言い、咲も安心したように「はい!」と頷く。
「行くか」
4人は肩を並べて歩き始める。
ゴールデンウィークが明け、取り戻したはずの平穏な日常。
だが――この温かな日常のすぐ裏側で待ち受ける、致命的な『異変』の気配に、まだ誰も気づいてはいなかった。




