72話 残された代償
通信機越しに光莉の切迫した報告を受けた俺は、邪神体反応が残っている山間部へ向け、足を走らせていた。
視界の先、木々を焼き尽くす禍々しい黒煙が青空を塗りつぶすように覆い尽くし、遠く離れた場所からでも肌を直接刺すような熱気が風に乗って伝わってくる。
(日向が一人で現場に向かっているはずだ……!)
日向の信頼していた月影の死によって心を強く揺さぶられ、普段から過度な無茶をし易いあいつの性格を考えれば、一体何をしでかすかわからない。
俺は焦る気持ちを胸の奥で必死に抑え込みながら、激しい熱風と黒煙が吹き荒れる危険な山道を駆け上がった。
山間部へ辿り着くと、かつて緑に包まれていた周囲の光景は凄惨に一変していた。
山肌は大きく削げ、真っ赤に灼熱した溶岩がなおもドロドロと熱い音を立てて流れ続けている。
木々が燃え尽きて黒く焦げた凄惨な惨状の中心で、日向は言葉もなく、ただ静かに一人で立ち尽くしていた。
「……日向!」
俺は荒くなった息を整えながら、日向のすぐ近くまでたどり着く。
だが、切実な呼びかけに対する返事はない。日向はその場から微動だにしない。
***
その全身から際限なく発せられる激しい炎と凄まじいまでの殺気は、戦いが終わったはずの今になっても未だに衰える気配を一切見せていない。
周囲の空間すら歪ませるほどの圧倒的なプレッシャー。俺は日向へ向かって慎重に歩み寄り、数歩後ろの位置で静かに足を止めた。
「日向」
やはり、反応はなかった。意識が自身の内なる熱と感情に深く落ち込んでいるかのように、微かな反応すら返ってこない。
俺は少しだけ間を置き、静寂と熱気に包まれた空間を破るようにもう一度力強く声をかけた。
「日向……邪神体はもういないぞ」
俺の静かな、けれど確信を込めた言葉が、日向の耳へと確かに届いた瞬間だった。
日向の硬直していた身体が小さく細かく震え始め、それまで全身を苛烈に包み込んでいた凄まじい激炎がゆらゆらと揺らぎ始めた。
暴走気味に燃えていた炎は次第にその勢いを失い小さくなり、最後はまるで最初から存在しなかったかのように消え去った。
――カチッ
日向は力なく右耳にイヤホンをつけた。
次の瞬間、それまで炎の爆音にかき消されていた周囲の風の音や、燃え残った木々が爆ぜる現実の音が戻ると同時に、風宮は目の前で起きた変貌に信じられない思いで目を見開いた。
「なに!?」
全身を覆っていた炎が消えていくと同時に、日向の黒かった髪色が徐々に色素を失っていき、やがて髪全体の半分以上が痛々しいほどの白髪へと変わってしまったのだ。
それだけにとどまらず、彼の肌の血色は急速に失われ、わずかに不気味な灰色へと変色していく。露出した両腕や首元には、能力の酷使による新しく火傷の痕が痛々しく鮮明に浮かび上がっていた。
「おい、日向っ」
「っハッ……ぐっ!」
日向の規則的だったはずの呼吸が、抑えきれなくなったかのように突然激しく乱れ始める。
「ゴホッ!?」
大量の鮮血が彼の口から地面へ向かってドッと溢れ落ち、黒く焦げた土へ赤く深い染みを作った。
それと同時に、身体全体から一気にすべての力が抜け落ちたかのように、膝の折れた日向はそのまま前へ崩れ落ちそうになる。
「……日向っ!」
倒れ込むその傷だらけの身体を、俺は素早く腕を伸ばしてしっかりと抱き止めるように受け止めた。
ぐったりと腕の中に体重を預けて倒れ込む日向。激痛と極度の疲労からか、その意識はすでに途切れかけていた。
***
その時――
「「橙真――っ!?」」
蒼太と碧羽の二人が、息を荒く切らせながら山道を勢いよく駆け上がってきた。
二人は風宮に支えられている日向の悲惨な姿を視界に捉えた瞬間に、ピタリと足を止める。
二人は、信じられないものを見るような衝撃と恐れが混ざり合った表情で日向をじっと見つめていた。
「……なんだよ、それ」
蒼太の口から、今にも消え入りそうな震える声がぽつりと漏れ出た。
彼は両拳を血が滲むほど強く強く握り締める。
「橙真――っ」
今すぐにでも駆け寄って抱きしめたい。
それでも、あまりにも無残に変わり果ててしまった親友の姿を目の前にして、ショックのあまりどうしても足が前へ動かないようだった。
碧羽もまた、静かに息を呑み込んで言葉を失っていた。
「そんな……どうして……」
碧羽はゆっくりとした躊躇いがちな足取りで日向へ歩み寄り、絞り出すような小さな声で呟いた。
「無茶しすぎだよ……橙真」
その声は日向を責めるものでは決してなかった。
ただただ、ボロボロになってまで一人で戦い抜いた大切な仲間を心から案じる、深い悲しみと温かい気持ちだけが込められていた。
***
風宮は立ち尽くす二人を静かに見回すと、低く、けれど重みのあるトーンで告げる。
「詳しい任務報告は後でやってもらう……とりあえず今は、日向を緊急で防災対策課へ搬送するのが最優先だ。ここでは救急の応援が来るにも時間がかかる。俺が直接運ぶ」
「わかりました」
「あと、光莉への連絡を碧羽、頼めるか」
「はい、任せてください」
風宮は意を決したように、意識を失った日向の身体を落ちないようしっかりと抱え直した。
もう誰も言葉を発しようとはしなかった。
さきほどまで地獄のように激しく燃え続けていた山間部には、少しずつ不気味なほどの静けさが戻り始めていた。
だが、日向がこの過酷な死闘の中で払ったあまりにも大きすぎる犠牲と代償は、決して小さなものではなかったようだった――




