72話 残された代償
通信機越しに光莉の報告を受けた俺――風宮は、邪神体反応が残る山間部へ向けて駆けていた。
視界の先では、木々を焼き尽くす禍々しい黒煙が、青空を塗りつぶすように広がっている。
遠く離れた場所からでも、肌を直接刺すような熱気が風に乗って伝わってきた。
(日向が一人で現場に向かっているはずだ……!)
橙真は、信頼していた月影を失った。
その事実によって心を強く揺さぶられたうえ、普段から無茶をしやすいあいつの性格を考えれば、何をしでかすか分からない。
俺は焦る気持ちを胸の奥で必死に抑え込みながら、激しい熱風と黒煙が吹き荒れる危険な山道を駆け上がった。
やがて、山間部へ辿り着いた。
そこに広がっていたのは、あまりにも凄惨な光景だった。
かつて緑に包まれていた山肌は大きく削られ、あちこちに焼け焦げた木々が転がっている。
その間を、真っ赤に灼けた溶岩が、ドロドロと熱を孕んだ音を響かせながら、なおも流れ続けていた。
そんな惨状の中心で――日向は、一言も発さず、ただ静かに立ち尽くしていた。
「……日向!」
俺は荒くなった息を整えながら、日向のすぐ近くまで駆け寄る。
だが、必死の呼びかけに返事はない。
日向は、その場から微動だにしなかった。
その全身から絶え間なく噴き上がる激しい炎。
そして、戦いが終わったはずの今になっても衰える気配を見せない、凄まじい殺気。
周囲の空間すら歪ませるほどの圧倒的なプレッシャーに、俺は思わず息を呑んだ。
それでも慎重に歩み寄り、日向から数歩離れた場所で足を止める。
「日向」
やはり、反応はない。
まるで意識そのものが、自身の内に渦巻く熱と感情へ沈み込んでいるかのようだった。
俺は少しだけ間を置く。
そして、静寂と熱気に包まれた空間を破るように、もう一度声をかけた。
「日向……邪神体は、もうお前が倒したぞ」
その言葉が、日向の耳へ確かに届いた瞬間だった。
硬直していた日向の身体が、小刻みに震え出す。
全身を苛烈に包み込んでいた激炎も、ゆらゆらと揺らぎ始めた。
暴走するように燃え盛っていた炎は、次第に勢いを失っていく。
そして最後には、まるで最初から存在しなかったかのように消え去った。
――カチッ。
日向は力なく右耳へイヤホンをつけた。
次の瞬間、それまで炎の爆音にかき消されていた風の音や、燃え残った木々が爆ぜる音が、一気に戻ってくる。
その光景を目の前で見ていた俺は、信じられないものを見るように目を見開いた。
「なに……!?」
炎が消えていくのと同時に、日向の黒かった髪から徐々に色が失われていく。
やがて――髪の半分以上が、白髪へと変わってしまった。
それだけではない。
血の気を失った肌は青白くなり、露出した両腕や首元には、新たな火傷の痕が痛々しく浮かび上がっている。
「おい、橙真っ!」
「っ……ハッ……ぐっ!」
規則的だったはずの呼吸が、突然激しく乱れ始める。
「ゴホッ!?」
次の瞬間、大量の血が橙真の口から地面へと吐き出された。
黒く焦げた土の上に、赤い染みが広がっていく。
そして、日向の身体から、ふっと力が抜けた。
「……日向っ!」
膝から崩れ落ちる日向の身体を、俺は咄嗟に腕を伸ばして受け止める。
ぐったりと腕の中へ体重を預ける日向。
その意識は、すでに途切れかけていた。
その時――。
「「橙真――っ!?」」
山道の向こうから、水沢と碧羽が息を荒く切らせながら駆け上がってきた。
二人は、俺に支えられている日向の姿を視界に捉えた瞬間、ピタリと足を止める。
そこにいたのは、いつもの日向ではなかった。
黒かった髪の半分以上が白く染まり、身体には無数の火傷。
口元には、まだ乾ききっていない血が残っている。
二人は、動揺と恐怖が入り混じった表情で、ただ親友の姿を見つめていた。
「……なんだよ、それ」
水沢の口から、消え入りそうな震える声が漏れる。
両拳を、血が滲むほど強く握り締めた。
「橙真――っ……」
今すぐにでも駆け寄りたい。
それなのに、あまりにも変わり果てた親友の姿を目の前にして、ショックのあまり足が動かない。
風間もまた、静かに息を呑んだ。
「そんな……どうして……」
やがて、躊躇うような足取りで橙真へ歩み寄る。
そして、絞り出すような小さな声で呟いた。
「無茶しすぎだよ……橙真」
その声は、日向を責めるものではなかった。
ただ、ボロボロになってまで一人で戦い抜いた大切な仲間を案じる、深い悲しみだけが込められていた。
俺は二人を静かに見回すと、低く重みのある声で告げた。
「詳しい任務報告は後だ。……とにかく今は、日向を緊急で防災対策課へ搬送することが最優先だ。ここでは救急の応援が来るまでにも時間がかかる。俺が直接運ぶ」
「分かりました」
「あと、光莉への連絡を碧羽、頼めるか」
「はい、任せてください」
俺は意を決して、意識を失った橙真の身体を落とさないよう、しっかりと抱え直した。
もう、誰も言葉を発しようとはしなかった。
先ほどまで地獄のように燃え続けていた山間部には、少しずつ静けさが戻り始めている。
だが――橙真がこの過酷な死闘の中で払った代償は、あまりにも大きかった。
そして、その代償が彼の身体にどこまで残ることになるのかを、この時の俺たちはまだ知らなかった――。




