65話 『天』の文字
日曜日の防災対策課。
朝から施設内には、慌ただしい空気が漂っていた。
「現場の資料はすべてまとまりましたか!?」
「解析班は至急、第三会議室へ向かってください!」
「鑑識からの続報は、まだ上がってこないのか!?」
廊下では、職員たちが険しい顔つきで慌ただしく行き交っている。
昨日までの平穏な空気とは、まるで違っていた。
異様な緊張感が施設全体を支配し、誰もが重く沈んだ表情を浮かべながら、余裕なく動き続けていた。
***
一方その頃、自宅の部屋で眠っていた俺――橙真のスマホが、突然振動した。
着信音に叩き起こされるように、俺は目を覚ます。
画面を見ると、そこには風宮さんの名前が表示されていた。
俺は嫌な予感を抱えながら、すぐに電話を耳に当てる。
「……はい、日向です」
『おはよう、日向。急で悪いのが、今すぐ防災対策課の会議室まで来られるか』
「分かりました。すぐ行きます」
『蒼太と碧羽には、すでに連絡を入れた。二人もすぐに向かうと言っている』
「……了解しました。俺も急いで向かいます」
『分かった。待っている』
プツッ。
電話が切れた。
俺は静かにスマホをベッドの上へ置く。
「……防災対策課か」
胸騒ぎが消えない。
昨日の特別ミーティング。
そして、抱きついてきた咲が頭をよぎった。
俺はすぐに私服へ着替え、急いで家を飛び出した。
***
防災対策課のエントランスへ到着すると、ほぼ同時に蒼太と碧羽もやってきた。
「橙真!」
蒼太が、少し硬い表情で声をかけてくる。
「訓練の時間に遅れてるわけでもないのに、急に呼び出されるなんて珍しいな……」
碧羽も不安を隠しきれない様子で、周囲を見回した。
「何か、良くないことでもあったのかな……」
「……とにかく、行こう」
俺たちは重い足取りで、会議室へ向かった。
***
扉を開ける。
中では風宮さんと花江さんが待っていた。
しかし――いつもなら、こういう緊急事態の場に真っ先にいるはずの月影さんの姿だけが見当たらなかった。
部屋の中には、息が詰まるような沈黙が流れている。
風宮さんは俺たち三人を見渡すと、重々しく口を開いた。
「……朝早くに急に呼び出してすまなかったな。とりあえず、来てくれてありがとう」
俺たちは席へ静かに腰を下ろした。
風宮さんは一度、深く目を閉じる。
そして、何かを堪えるように、静かに息を吐いた。
「……今朝、月影が、遺体で発見された」
その言葉が落ちた瞬間――会議室の空気が、一瞬で凍りついた。
「……え?」
俺の口から、小さな声が漏れる。
蒼太は信じられないといったように目を見開いた。
「……嘘、だろ?」
碧羽は顔を蒼白にし、言葉を失っていた。
「そんな……月影さんが……死んだ?」
***
風宮さんは表情を変えず、静かに説明を続ける。
「亡くなる直前に、月影は俺に一本のUSBメモリを託していった」
隣で花江さんが静かに補足する。
「現在、そのUSBメモリに入っているデータの解析を緊急で進めています」
風宮さんは頷いた。
「そして……もう一つ、報告がある」
そう言うと、風宮さんはホワイトボードへ歩み寄った。
ペンを手に取り、大きく一文字を書き記す。
『天』
風宮さんは振り返り、俺たちの反応を確かめた。
「これは、月影が殺された現場に、彼自身の血で書き残した文字だ。この『天』という一文字に、何か心当たりがある者はいるか?」
蒼太は困惑したように首を横に振った。
「……いや、さっぱり分かりません」
碧羽も悲痛な表情で静かに答える。
「私も……何も思い当たりません」
俺は言葉を発せず、黙ったままホワイトボードに書かれた一文字を凝視していた。
(天、か……)
胸の奥に、強い違和感が引っかかっている。
理由は分からない。
それなのに、なぜかその一文字から目を離すことができなかった。
風宮さんの鋭い視線が、俺へと注がれる。
「日向」
俺はゆっくりと顔を上げた。
「……いえ。俺も今のところ、俺も心当たりはありません」
そう答えながらも、俺の視線はしばらく『天』の文字から離れなかった。
風宮さんは全員を見渡す。
「分かった。もし何か少しでも思い出すことがあれば、すぐに知らせてくれ」
「USBの解析が終わり次第、改めてみなさんにお知らせしますね」
「今日は、以上だ」
***
俺たち三人は、重い気持ちのまま会議室を後にした。
エントランスまで戻ると、蒼太が小さく息を吐く。
「まだ信じられないな……月影さんが殺されたなんて」
碧羽も視線を落とし、悲しそうに俯いた。
「月影さん、いつも私たちを優しく見守ってくれていたのに……」
しばらくの間、三人の間に重い沈黙が流れた。
そのときだった。
俺は、ぴたりと足を止める。
「……蒼太、碧羽」
蒼太と碧羽が、不思議そうに振り返った。
「どうしたの?」
「少し……一人で考えたいことがある」
蒼太は俺の真剣な表情をじっと見つめ、何かを察したように小さく頷いた。
「分かった。無理はするなよ」
碧羽も心配そうにしながら、優しく微笑んだ。
「うん。また後で連絡するね」
「ああ」
二人を見送り、俺は一人、反対方向へと歩き出した。
向かう先は、人の気配が完全に途絶えた場所。
そこで、確かめなければならないことがある。
そんな気がしていた。
俺は立ち止まり、静かに青空を見上げる。
脳裏に浮かぶのは、以前出会った白い翼の存在。
そして、あのときに聞いた言葉。
――この世界の均衡を見守る天使。
「……天使、か」
その言葉だけをぽつりと呟き、俺は一人、人の気配がない暗がりへと歩き出した――。




