61話 届いてほしかった手
俺――蒼太は、ゆっくりと息を吸い込んだ。
「俺が能力に覚醒したのも、小学五年生の頃だったと思います」
***
2011年3月11日。
海沿いの陸上競技場。
小学五年生だった俺は、所属していた陸上部の遠征で、その場所を訪れていた。
「よーし! 今日の全体練習はここまでだ!」
「ありがとうございました!」
部員たちの声が綺麗に揃った。
「蒼太先輩!」
後輩の一人が、満面の笑みを浮かべて駆け寄ってくる。
「今日も走り方を教えてくれて、ありがとうございました!」
俺は嬉しくなって、後輩の頭を軽く撫でてやった。
「おう、お疲れ! 今日、自己ベストが出たんだろ!」
「はい! 蒼太先輩のアドバイスのおかげですよ!」
「いやいや、お前が一生懸命練習して、頑張ったからだって」
周りにいた部員たちも、笑い合いながら集まってくる。
「蒼太先輩! 今度また私と一緒に並んで走ってくださいね!」
「もちろん! 次も絶対に負けないからな!」
「えーっ! 蒼太先輩は練習でもいつも全力すぎますよ!」
「なんでも、全力でやらなきゃ意味ないからな!」
「そうですよね!」
部員たちの明るい笑い声が、穏やかな海辺に心地よく響き渡っていた。
監督はそんな俺たちの様子を眺め、目を細めて笑う。
「水沢は本当に、みんなから慕われているな」
「そんなことないですよ、監督」
本当に、どこにでもある穏やかで平和な日常だった。
だが、そのときだった。
――ゴゴゴゴゴゴ……!!
突如として地面が不気味に唸り、大きく揺れ始める。
監督の表情が一変した。
「……地震か!?」
次の瞬間――。
ドォンッ!!
立っていることすら不可能なほどの凄まじい激震が、俺たちを襲った。
「みんな、海辺から離れろっ!! 高台へ向かって走れ――っ!!」
監督の必死な叫び声が響く。
部員たちは一斉に高台へ向かって走り出した。
「みんな、全員揃っているか!? それなら行くぞ!」
「はいっ!!」
必死に地面を蹴って走る。
誰もが助かりたい一心で、高台を目指していた。
だが、そのとき。
後ろを走っていた誰かが、悲痛な叫びを上げた。
「津波だ――っ!!」
俺は思わず振り返った。
海の向こうから、黒い巨大な壁のような津波が、猛烈な速度で迫ってきていた。
「今は、とにかく走るんだ――っ!!」
監督の裂けるような叫びが響く。
しかし、津波の迫る速度はあまりにも速かった。
「おわっ!?」
後輩の一人が足をもつれさせ、派手に転倒してしまった。
「先輩っ!!」
俺は足を止め、咄嗟に振り返った。
「大丈夫だ! 早く手を伸ばせっ!!」
後輩は涙目になりながら、必死に手を伸ばしてくる。
俺も前傾姿勢になり、必死に腕を限界まで伸ばした。
「もう少しだ……っ! あと少し……!!」
あと数センチで、手が届く。
そのときだった。
――ドシャァァァンッ!!
凄まじい轟音とともに、黒い濁流が俺たちの間へ激しく流れ込んできた。
後輩の身体が、一瞬で波の中へ飲み込まれていく。
最後に見えたのは、大粒の涙を浮かべながら、必死に俺を見つめる後輩の悲痛な顔だった。
「――っ!!」
次の瞬間、俺自身の身体も巨大な濁流へと飲み込まれていった。
***
(……俺は、誰ひとり助けられないのかよ! せめて、あいつだけでも助けられたらよかったのにな……!!)
冷たい暗闇の海の中。
俺の身体から、まばゆい光が溢れ出した。
絶望の中、俺の「氷の能力」が覚醒したのだ。
その瞬間、俺の全身を取り巻く海水が、一瞬にして凍りついていった。
周囲の海水が次々と氷へ変わっていく。
けれど、それでも――。
俺が助けたかった人たちの姿は、どこにもなかった。
***
次に目を覚ましたとき、俺は病院のベッドの上に横たわっていた。
身体をゆっくり起こして、静まり返った室内を見渡す。
そこには、誰もいなかった。
「監督? みんな……?」
病室へ入ってきた担当の医師は、辛そうに静かに目を伏せた。
「今回の甚大な津波被害で、あの陸上競技場から助かったのは……君、一人だけです」
俺は、何も言えなかった。
優しかった監督も。
共に汗を流した部員たちも。
誰一人、生きて帰ってこなかった。
「あのとき……俺がもっと早く手を伸ばしていれば……あいつだけでも、助けられたんじゃないのか……!!」
目から溢れ出る涙だけが、止められなかった。
覚醒したその力でさえ、誰一人として救うことはできなかった。
その記憶は、幼かった俺の心に深い傷として残った――。
***
現代の会議室。
俺は静かに語り終えた。
「……それが、俺が覚醒した理由です」
会議室には、重苦しい沈黙が広がった。
咲は口元を手で押さえ、小さく俯いて涙を流している。
碧羽は静かに、膝の上で強く拳を握り締めていた。
「蒼太にも、そんな過去があったなんて……」
花江さんは静かに目を伏せる。
先日の海岸で、押し寄せる津波を前にした蒼太の表情が、脳裏をよぎった。
「……だからだったんだね。あの時海で、津波を見たときに、あんなに動揺したのは」
「はい」
蒼太は静かに、固い表情で頷いた。
橙真は何も言わずに、ただじっと俺の横顔を見つめていた。
風宮さんは、静かに場にいる全員を見渡す。
「蒼太、辛い記憶を打ち明けてくれてありがとう……。最後は――日向の番だ」
橙真は深く息を吸い込み、静かに顔を上げた。




