56話 静かな夜
俺――橙真は重いまぶたを、ゆっくりと開いた。
視線の先には、真っ白な天井が広がっている。
つんと鼻を刺す、独特な消毒液の匂い。
ぼんやりとしていた意識が、少しずつ現実へ引き戻されていく。
「……ううん、ここは……」
「日向、気がついたか?」
声のした方へ顔を向ける。
ベッド脇に置かれたパイプ椅子に、風宮さんが深く腰掛けていた。
俺は身体を起こそうと、身体に力を込める。
「まだ無理をするな」
風宮さんに肩をそっと押さえられ、俺は素直にベッドへ横になった。
「すみません……」
風宮さんは静かに、鋭い視線で俺を見つめる。
「日向」
「……はい」
「今回ばかりは、お前が単独で邪神体を倒した方法について、詳しく聞かせてほしい」
俺は小さく頷いた。
「はい……俺は右耳のイヤホンを外すと、体内から抑えきれないほどの炎が溢れ出して、人間離れした力で戦えるようになるんです」
「そういうことか……」
風宮さんは一度だけ視線を落とした。
「今、俺から言えることは一つだ。あの力を、二度と軽い気持ちで使うな」
「……」
「お前が邪神体を倒した、その力の『代償』は想像以上に大きい。それだけは、絶対に忘れるな」
俺は自分の口元へ、そっと手を当てる。
あの時、大量に吐血したこと。
喉を逆流してきた血の感覚。
そして、舌に残った鉄の味。
今でも生々しく覚えている。
「吐血。そして意識の完全な喪失……それだけでも、十分すぎるほど危険な状態だ」
「……はい」
「今は、とにかく休め」
そう告げると、風宮さんは椅子から立ち上がり、静かに医務室を後にしていった。
俺は一人残されたベッドの上で、ただ黙って白い天井を見つめ続ける。
(……風宮さんに迷惑をかけてしまったのかな)
***
俺――蒼太は窓際の椅子に深く腰掛け、暗くなり始めた外の景色を眺めていた。
花江さんが温かいお茶の入った紙コップを、静かに机へ置いてくれる。
「少しは、気持ちが落ち着いたかな?」
「はい……ありがとうございます」
花江さんは俺の向かい側の席へ、優しく腰を下ろした。
「ねぇ、蒼太くん。さっき海岸で波の音を聞いて、ひどく焦っていたけれど……過去に、何かあった?」
俺は静かに視線を足元へ落とした。
すぐには答えられなかった。
二人の間に、重い沈黙が流れる。
「……すみません。今は、話したくないです」
花江さんは、それ以上追及することなく柔らかく頷いた。
「そっか」
「……橙真や碧羽にも、まだ話したことがないので」
「わかった。でも、いつかはみんなに話さないといけないことだよね」
「はい。でも、なかなか言い出すタイミングがなくて」
花江さんは少し考えるように首を傾げる。
「じゃあ、今度の土曜日、そういう時間を作ってみよっか!」
「……え?」
「みんなで、自分の過去や今抱えていることを話し合う時間。それをきっかけに、お互いのことをもっと知れると思うし、それに一人で抱え込んでいる悩みも、少しは軽くなるかもしれないよ?」
「……それも、いいかもしれませんね」
俺は小さく笑った。
二人が座る休憩室には、穏やかで温かな時間がゆっくりと流れていた。
***
一方その頃――夜のしじまに包まれた、人気のない神社。
鳥居をくぐった先で、鳥山の前にシエリオが佇んでいた。
「遅かったですね」
「少し会議が長引いただけだ」
その時――カツン、と乾いた足音が境内に響き渡る。
白く美しい装束を纏った巫女が、姿を現した。
三人は、寂れた境内で静かに対峙する。
「防災対策課の方々が調べにいらして、神門教にいらした神々を失ってしまいました」
シエリオはそう言うと、ちらりと鳥山へ視線を走らせる。
鳥山は顔色ひとつ変えず、冷淡に答えた。
「それは部下が勝手にやったことだ」
そして、わずかに目を細める。
「……シエリオ。忠告しておく。お前は現在、防災対策課の中でも最重要の指名手配対象に指定されている」
「……」
「せいぜい上手く立ち回ることだな」
「……ご忠告、ありがとうございます」
短く重苦しい沈黙が、周囲を包み込む。
やがて、シエリオが再び口を開いた。
「ですが……防災対策課も、少しずつ私たちの真実へと近づいてきていますね?」
「奴らが真実にたどり着くのも、もう時間の問題だろう」
その言葉を聞いた巫女が、すっと静かに前へ踏み出す。
「……その組織の中でも、一人だけ非常に気になる人物がいます」
「誰のことだ」
「誰なのかまでは、まだ言いませんが……知りすぎているのかもしれません」
巫女は静かに目を細めた。
「このまま放置しては、私たちの最終計画に気づかれる可能性があります……そろそろ『間引く』ことも視野に入れて動くべきでしょうか?」
――ヒュゥゥゥッ……
冷たい夜風が境内を吹き抜けていく。
鳥山は静かに両目を閉じた。
「その時が来れば、容赦なくやればいいだけのことだ」
三人はそれ以上言葉を交わすことなく、闇の奥深くへと足を進めていく。
その不穏な三人の姿は、深い夜闇の中へ吸い込まれるように、静かに消えていった――。




