44話 天使登場
広大な地下施設にはもう、邪神体の姿は一体も残っていなかった。
激しい炎によって焼き焦げた床の中央で、橙真先輩はただ静かに立ち尽くしていた。
橙真先輩の瞳は、何もない空間をじっと見つめたまま、微動だにしない。
私は胸の鼓動を抑えながら、恐る恐る橙真先輩の側へ歩み寄った。
「橙真先輩、大丈夫ですか?」
返事は返ってこない。
私はもう一度、小さく声をかけた。
「橙真先輩もう、邪神体はいなくなりましたよ」
その言葉が届いた、まさにその瞬間だった。
橙真先輩の全身を包んでいた激しい炎が、少しずつ揺らぎ、消え始める。
腕から、肩から、胸から全身へ。
紅蓮の炎は静かに勢いを失って薄れ、やがて完全に消え去っていった。
――そして、外していたイヤホンを再び耳へと装着した、その瞬間。
カチッ
小さな音があたりに響いた。
***
ガクッ――!!
炎が消えた途端、俺はその場に膝をつく。
「橙真先輩!!」
咲が慌てて駆け寄り、倒れそうになる俺の身体を必死に支えてくれた。
俺は胸の奥を激しく突き上げる不快感に、苦しく咳き込む。
「ゴホッ……! ゲホッ……!」
口元から赤い血がポタリとこぼれ落ち、焦げた床へ生々しく溢れ落ちる。
「橙真先輩! 大丈夫ですか!!」
俺は荒い息を何度も繰り返しながら、小さく頷いた。
「……ああ、なんとか……な」
掠れた弱々しい声しか出ない。
咲は俺の顔を間近で見つめ、ハッと息を呑んだ。
俺の黒髪の中に、先ほどまでは存在しなかった白髪が数本、不自然に混ざり込んでいたのだ。
「……橙真先輩、その髪」
俺はゆっくりと自分の前髪に触れた。
指先から伝わる感覚で、自分の髪に白髪が増えていることに気づく。
だが、俺は何も答えることができなかった。
***
ドン――!!
その時だった。地下施設の深い奥から、地響きのような重い振動が響き渡った。
続けて、もう一度。
ドン……ドン……!!
咲の表情が一瞬で凍りつき、強張る。
「まだ、邪神体いたんだ……!」
暗闇の奥から、ゆらりと巨大な影が姿を現した。
それは先ほどまで戦ってきた邪神体よりも一回り、いや二回りは遥かに大きい。
放たれる禍々しい気配だけで、周囲の空気が重く震える。
俺は歯を食いしばり、ゆっくりと立ち上がろうとした。
しかし、身体に思うように力が入らない。
「くっ……そ……!」
巨大な邪神体は、太い腕を振り上げた。
その標的は、俺と咲だった。
***
――次の瞬間
地下施設全体を、純白の光が激しく照らし出した。
まるで天井を突き抜けるように、一筋の光が舞い降りる。
舞い散る光の粒子の中から、一人の人物が静かに姿を現した。
純白の翼に白銀の装束、淡い金色の髪。
探していたその手には、身の丈ほどもある大剣が握られていた。
その人物は、俺と咲の前へ静かに降り立つ。
その瞬間、振り下ろされようとしていた邪神体の巨腕を払い、投げ飛ばした。
黄金色の瞳が、巨大な邪神体を真っ直ぐに見据える。
純白の翼を持つその人物は、一歩前へ出た。
巨大な邪神体は低いうなり声を上げる。
禍々しい腕を振り上げ、一直線に襲いかかってきた。
地下施設が大きく揺れる。
しかし、その人物は微動だにしない。
静かに大剣を構える。
次の瞬間――白銀の刃が閃いた。
――閃っ!!
たった一太刀。
それだけで巨大な邪神体の身体が静止する。
数秒後、邪神体の巨体はゆっくりと上下にズレ、黒い霧となって崩れ去っていった。
***
地下施設に静寂が戻る。
咲は目を見開いたまま、その人物を見つめている。
「……」
俺も口元の血を拭いながら、その姿を見据えていた。
純白の翼を持つ人物はゆっくりと振り返る。
黄金色の瞳が、まず俺を見つめた。
視線を横に滑らせ、その隣に立つ咲へと移す。
「……」
その瞬間、わずかに動きが止まる。
咲は突然見つめられ、戸惑ったように小さく頭を下げた。
「あ、あの」
純白の翼を持つ人物は何も答えない。数秒の静寂。
やがて、静かに視線を俺へ戻した。
「お前、その様子……無茶をしたな」
穏やかな声が地下施設に響く。俺はゆっくりと立ち上がった。
「助けていただき、ありがとうございました」
純白の翼を持つ人物は小さく頷く。
「今回はたまたま間に合っただけだ」
咲は恐る恐る尋ねる。
「あなたは……一体誰なんですか?」
「今は名を名乗る時ではない。ただこれだけは言える。私は、この世界の均衡を見守る天使だ」
その一言には重みがあった。
天使は再び俺を見る。
「その力は使うたびに、お前自身を蝕んでいる」
「そんなの分かってるさ。それでも、守りたいものがあるんだよ」
俺は咲をチラッと見て、天使に視線を戻した。
天使はその返答を聞き、静かに目を閉じた。
「そうか、それならば止めはしない。だが、力の代償を忘れるな」
***
その時だった。
階段の方から複数の足音が響いてくる。
風宮さんたちが地下へ到着したのだ。
天使はその気配に気づき、小さく息をついた。
「迎えが来たようだな」
咲は思わず一歩前へ出る。
「待ってください! また、会えますか?」
天使は咲を見つめる。
先ほどと同じように、一瞬だけ静かな間が生まれた。
笑みを小さく浮かべる。
「縁があれば、また会う日も来るだろう」
そう言い残すと、純白の翼がゆっくりと広がった。
白い光が地下施設を包み込む。
次の瞬間、その姿は光とともに消えていた。
静寂だけがその場に残る。
俺は天使が立っていた場所を見つめ続ける。
やがて、地下通路の向こうから風宮さんたちの声が響いた。
「橙真!」
「咲!」
俺と咲は、その声の方へ振り返った。




