43話 教会の地下
冷たい空気が地下通路を吹き抜けていく。
俺と咲は慎重に石造りの急な階段を下りていた。
先ほどまでの教会の穏やかな空気とは、まるで別世界だった。
湿ったカビ臭い空気に、ぼんやりと灯る薄暗い照明。
そして、肌にねっとりとまとわりつくような、重苦しく不気味な気配が漂っている。
「思ったより……長い階段ですね」
咲が周囲を警戒するように見回しながら、声をひそめて小さく呟く。
俺も辺りの闇を警戒しながら、静かに頷いた。
「ああ、そうだな」
それでも今、ひとつだけはっきりと分かることがあった。
階段を一歩下りるたびに、邪神体の気配がどんどん濃くなっていくのだ。
まるで、この地下全体が邪神体たちの巨大な巣窟になっているかのように。
***
階段を下りきり、その先に続く長い通路を歩いていくと、突き当たりに大きな鉄製の重厚な扉が見えてきた。
その扉は、ほんのわずかだけ隙間が開いている。
俺は隣を歩く咲へ視線を向けた。
「俺が扉を開ける。咲は少し離れていてくれ」
「はい、わかりました」
俺は慎重に扉へと手をかける。
ギギギ……
重たい金属音を廊下に響かせながら、扉をゆっくりと押し開いていく。
その扉の先に広がっていたあまりの光景に、俺と咲は思わず息を呑んだ。
そこには、想像を絶する広大な地下施設が広がっていたのだ。
天井の異常に高い空間には、無数の邪神体がうごめき、徘徊していた。
視界を埋め尽くすほどの黒い影。
異様な悪意と気配が、地下施設全体を完全に支配していた。
「こんなことってあるんですか……!?」
咲はあまりの恐怖に思わず一歩後ずさる。
俺も険しい表情のまま、広大な施設全体を鋭く見渡した。
「教会の地下に、こんな施設があったのか……」
***
俺はすぐにポケットからスマホを取り出した。
「風宮さん、聞こえますか!?」
ザーッ……ザーッ……
スピーカーから返ってきたのは、ノイズだけだった。
「こちら日向橙真です。風宮さん、聞こえていますか! 風宮さん!」
声を張り上げてもう一度呼びかける。
しかし、風宮さんからの応答は一切なかった。
俺は静かに電話を切る。
「そうか……ここ地下だから、電波が届かないのか……」
絶望的な状況を察した、まさにその時だった。
一体の邪神体が首を曲げ、こちらへ鋭い視線を向けた。
続いて一体、また一体と。
やがて、地下施設にいたすべての邪神体が、一斉に俺と咲の二人をじっと見つめていた。
薄暗い地下空間に、低く地響きのようなうなり声だけが重く響き渡る。
俺は小さく、短く息を吐き出した。
(今から上に戻って風宮さんに連絡している暇なんて……ないよな。かといって今すぐ逃げ出しても、背後から一瞬で追いつかれる。ましてや、ここに咲だけを一人残して連絡に向かうなんて……それはだめだな。ってことは……やっぱり、あれか)
俺は覚悟を決め、背後の咲に向かって低く言った。
「咲、この扉から中には絶対に踏み込むなよ」
「はい」
咲は緊張で顔を強張らせながら、深く頷く。
俺は右耳へゆっくりと手を伸ばした。
そして、そっとイヤホンを外す。
――カチ
その瞬間だった。周囲の空気が変化した。
周囲を支配していた全ての音が……一瞬で綺麗に消え去った。
無数の邪神体たちが発していた不気味なうなり声も、地下を吹き抜ける風の音も。
自分の激しい呼吸音すら聞こえなくなるほどの、異様な静寂だけが世界を包み込んだ。
***
橙真先輩は何も言わない。
ただ、静かに邪神体の群れを見据え、迷いのない足取りで一歩ずつ前へ踏み出した。
その背中を、私は息を殺してただ見つめることしかできなかった。
次の瞬間、最前列にいた邪神体が猛烈な勢いで橙真先輩へ飛びかかった。
それを合図に、地下中の邪神体が一斉に橙真先輩に向かって襲いかかった。
それでも、橙真先輩が焦っている様子は微塵も感じられなかった。
静かな足取りのまま、押し寄せる無数の邪神体に向かって淡々と歩みを進めていく。
襲いかかってきた最前列の邪神体に対し、橙真先輩が腕を振るう。
その瞬間、激しい炎を纏った拳が、迫る邪神体を一撃で一瞬にして燃やし尽くした。
それだけで、飛びかかった邪神体の姿は影も形もなく消滅した。
続けざまに二体、三体と、橙真先輩はひとつの無駄な動きも見せることなく、迫り来る邪神体を、ただ一体ずつ確実に殴り潰していった。
その間も、橙真先輩からの叫び声は一切なく、表情の変化すら一切なかった。
まるで目の前の敵を、機械的に処理していくかのように見えた。
その圧倒的な姿を、私は息を呑んで見つめることしかできなかった。
邪神体は確実に数を減らしながらも、なお次々と波のように押し寄せてくる。
前から、横から、そして天井を這うようにして。
地下施設全体が、黒い邪神体で埋め尽くされていく。
それでも、橙真先輩の歩みは止まらなかった。静かに進み続ける。
そして――
邪神体の群れ、その真ん中で橙真先輩はふっと足を止めた。
無数の邪神体が橙真先輩を仕留めようと、全方向から一斉に飛びかかっていった。
「橙真先輩、危ないです!!」
私の叫び声が相手に届いたかどうかは分からなかった。
でも、橙真先輩はゆっくりと両拳を開いた。
次の瞬間、その両の掌から眩い紅蓮の炎が爆発的に吹き上がった。
轟ッ――!!
渦を巻くように広がった絶大な炎は、広い地下施設全体を一瞬で包み込んでいった。
猛烈な熱風が吹き荒れる。
迫っていた邪神体たちは逃げる隙すら与えられず炎に飲み込まれ、一体、また一体と灰になって消えていく。
紅蓮の炎は地下施設の隅々まで駆け巡り、残る邪神体を容赦なく焼き尽くしていった。
***
数秒後、炎は静かに勢いを失い、消えていった。
地下施設に完全な静寂が訪れる。
炎が去った後にはもう、邪神体の姿は一体たりとも残っていなかった。
床からは焦げた匂いが漂い、熱気がゆらゆらと立ち上がっている。
そして、重苦しいまでの静けさだけが空間を支配していた。
私は目の前の信じられない光景を見つめたまま、完全に言葉を失っていた。
橙真先輩は何も話さない。
両耳のイヤホンを外したまま、綺麗に焼き尽くされた地下施設の中央に静かに立ち尽くしていた。
その瞳はまだ何かを見据えるように、少しの揺らぎもなくまっすぐ前を向いていた。




