31話 月影の報告
その日の夜。
私――月影は、防災対策課の静かな廊下を一人で歩いていた。
天井に設置された無機質な照明が、私の足元を淡く照らしている。
廊下に沿って設けられた大きなガラス窓の外には、街灯や車のヘッドライトが輝く夜の街が、どこまでも広がっていた。
日中の喧騒が嘘のように静まり返った廊下には、私の規則正しい足音だけが響いている。
やがて私は、廊下の突き当たり近くにある扉の前で足を止めた。
扉の脇に掲げられた金属製のプレート。
そこには『総括官室』と、重々しい文字が刻まれている。
私は右手を伸ばし、分厚い扉を軽く叩いた。
コン、コン、コン。
三度、硬く澄んだ音が静かな廊下に響く。
「……誰だ」
扉の奥から聞こえてきたのは、低く厳格な男の声だった。
「月影です」
「入れ」
短く、重みのある返答。
私は静かにドアノブを回し、扉を押して室内へ足を踏み入れた。
***
広々とした部屋の中央には、大きなデスクが置かれている。
その奥の椅子に、一人の男が深く腰掛けていた。
鳥山宗一郎。
防災対策課を束ねる総括官――組織の最高責任者である。
鳥山は机の上に広げられた厚い報告書からゆっくりと視線を上げ、鋭い眼光で私を見つめた。
「今日の報告は」
私はデスクの前まで進み、深く、そして短く頷いた。
「はい、鳥山総括官」
静寂が室内を支配する中、私は口を開いた。
「日曜日に遭遇した覚醒者――日向橙真、水沢蒼太、風間碧羽の三名を、防災対策課の仮所属として正式に迎え入れる運びとなりました」
鳥山総括官は手元の資料へ再び視線を落とす。
「何か懸念される問題は」
「現時点では、問題は見当たりません」
「彼らが所持している具体的な能力は」
「日向は自身の特殊な炎によって、他者の能力を強力に増幅・支援する力を持ち、水沢は空気中の水分から氷を生成し、自在に操る力を。風間は風と雷を自在に操り、強力な矢として放つ力を、それぞれ有しております」
鳥山は短く鼻で息を鳴らし、頷いた。
「組織に対する危険性はあるのか?」
「現時点では、ないと判断しております」
「そこまで断言する根拠と理由はなんだ?」
「三人とも、己の私利私欲や破壊のために力を使っているのではなく、誰か大切なものを守るために必死に戦っているからです」
鳥山の険しい表情に、微かな変化すら生じない。
「……お前が、そのような定性的な判断を口にするとは珍しいな」
私も表情を変えずに答える。
「時には、数値化できない判断も必要な場合があります」
「そうか」
再び、重苦しい静寂が広い部屋を包み込む。
壁に掛けられた振り子時計の、チクタクという無機質で規則正しい音だけが室内に響いていた。
やがて鳥山総括官が、さらに鋭い眼差しで私を直視する。
「……彼らの覚醒者としての将来性はどうだ。育成するほどの価値と見込みはあるか?」
私はすぐには答えなかった。
昼間の模擬戦。
そして、日曜日に共に戦った時の光景を思い返す。
ほんの数秒だけ思案し、口を開いた。
「……期待値は極めて高いと思われます」
鳥山総括官は黙って私を見つめている。
「これから私たちが指導し、戦闘経験を積ませ、鍛え上げれば――将来的には、私たち室長の力を超える可能性があります」
鳥山総括官は静かに手元の資料を閉じた。
パタン。
小さな音が、妙に大きく響く。
「……そうか」
「お前がそこまで他者を高く評価するとは、それほど珍しいな」
「実際に彼らと共に現場で戦い、先ほど訓練室で行った模擬戦を通じて……その潜在能力の高さを、実感しました」
再び沈黙が訪れる。
鳥山はゆっくりと椅子から立ち上がると、背後の大きな窓へ歩み寄った。
そして、窓の外に広がる夜景を見つめる。
「彼らは、本当に信頼できるのか?」
「はい」
私は迷わず答えた。
「私は、十分に信頼に足る人物たちだと考えております」
「それほどまでに信頼する理由は?」
「先ほど申し上げた通りです。あの三人は、己のためではなく――純粋に、誰かを守るために戦っているからです」
鳥山は短く息を吐いた。
「……それは先ほども聞いた」
窓の外を見つめたまま、鳥山総括官が続ける。
「だが、お前自身が、その『守る意志』というものを、極めて重要な要素だと捉えているのだな」
「……はい、そうです」
鳥山総括官はしばらく黙っていた。
やがて、静かに告げる。
「報告は了解した。この三人の件についてはお前に一任することにする」
「了解いたしました」
私は背筋を伸ばし、鳥山に向けて敬礼を捧げる。
「それでは、失礼いたします」
***
静かに扉を閉める。
カチャリ。
小さな金属音が廊下に響いた。
再び静まり返った無人の廊下へ出ると、私は大きなガラス窓の前で足を止めた。
眼下に広がる夜の街。
遠くまで続く街灯やビルの明かりが、散らばっている。
建物の隙間を、夜風が静かに吹き抜けていく。
誰もいない暗い廊下で、私は小さく息を吐いた。
「……これで今日は終わりか」
そして、ふと窓に映った自分の顔を見る。
そこには普段と変わらない、無表情な男が立っていた。
だが――ほんのわずかに口元が緩む。
「日向、水沢、風間……」
私は小さく呟いた。
「お前たちは、ここからどこまで強くなる」
窓の外へ視線を向ける。
「……これからが、楽しみだよ」
私は、静かに夜空を見上げた。
雲の隙間から覗く月明かり。
その先には、まだ誰も見たことのない未来が広がっている。
それが希望なのか。
それとも――これから始まる、さらなる災厄の前触れなのか。
今の私には、まだ分からなかった。




