03話 揺れ始めた日常
蒼太と碧羽がそれぞれ部活へ向かった後、俺――橙真は学校の校門を出て、いつもの帰り道を歩いていた。
時計の針は午後四時十分を過ぎたところだ。
四月後半のこの時間帯はまだ空も高く、澄んだ青空にはうっすらとした白い雲が浮かんでいる。
斜めに差し込む温かな西日が見慣れた街並みを柔らかく照らし出し、アスファルトの上に伸びる自分の影が昼間より長くなっていた。
平和な放課後が、このまま静かに過ぎていく――そう思っていた。
「あの!」
突然、前方から甲高い声が飛んできた。
驚いて顔を上げると、目の前に、見覚えのない女子生徒が二人立っていた。
「えっと……声をかけられたの、俺で合ってる?」
相手の声を聞き取りやすいよう、俺は左耳のイヤホンを静かに外した。
右耳には、イヤホンを残したままだ。
「はい、合ってます!」
声をかけてきた方の女子生徒が元気よく頷いた。
その勢いに、俺は思わず半歩後ずさりそうになる。
隣では、もう一人の女子生徒が困ったような顔をしてうつむいていた。
「ちょっと咲、なに急に話しかけてんの」
「だって気になっちゃうんだもん!」
咲と呼ばれた女子生徒は悪びれた様子もなくそう言うと、爛々と輝く瞳で、ぐいっと顔を近づけてくる。
至近距離から覗き込んでくる瞳の眩しさに、俺は思わず喉を鳴らした。
「そのイヤホン、何聴いてるんですか?」
「別に何も聴いてないよ」
「え?」
「だから……音楽は何も流してないよ」
咲は目を丸くした。
「えぇ!? じゃあ、なんでつけてるんですか?」
「このイヤホンをつけてると、なんとなく落ち着くからかな」
「えぇ!? そんな人、初めて見ました!」
この子は、思ったことをそのまま口に出すタイプだな。
押しの強さとテンションの高さに、俺は完全に圧倒されていた。
隣の友達が焦ったように頭を下げる。
「すみません、この子こういう性格で……本当にすみません!」
「いや……大丈夫。謝らないで。全然気にしてないから」
「ありがとうございます!」
圧倒されつつも、どこか憎めない勢いに、苦笑いするしかなかった。
すると咲がふと、俺の制服に視線を落とす。
「あれ、その制服。もしかして、同じ学校の制服ですか?」
「えっと、そこの東高校に通ってるけど……」
「やっぱり! 私も今年から東高校に通い始めたんです! ということは、もしかして……先輩ですか?」
「うん、先輩……かな」
「やった!」
何が「やった」のかは、全く分からない。
勢いに押されっぱなしの俺の横で、友達が呆れたようにため息をついていた。
「私、白石咲って言います!」
勢いよく頭を下げる彼女に、俺はすっかりその勢いに乗せられたまま、小さく会釈した。
「俺は日向橙真です……」
「じゃあ、橙真先輩って呼んでもいいですか?」
「あはは……もう好きに呼んでいいよ……」
「やった!」
「……ちょっと咲! 先輩ってつけたからって、いきなり下の名前で呼ぶことないでしょ!」
「え……別にいいじゃん。橙真先輩が『いいよ』って言ってくれたんだから!」
そのマシンガントークに、苦笑いを返すのが精一杯だった。
初対面とは思えないほど距離が近い。
「あ、そうだ! 橙真先輩、ついでに連絡先、交換しません?」
「……え?」
「なんでそうなるの!?」
隣の友達がすかさずツッコむが、咲はまっすぐな瞳で俺を見つめてくる。
「橙真先輩、ダメですか?」
断る隙すら与えてくれない、まっすぐな眼差しに押し切られ、俺は降参するように息を吐き出した。
「わかった……連絡先、交換しよっか」
「やったー!」
そのまま流れるような勢いで連絡先の交換を終える。
画面に『白石咲』の文字が追加された。
「ありがとうございます! それじゃあ、また!」
咲は大きく手を振ると、友達に服の袖を引っ張られながら去っていった。
「もう、咲のバカ!」
そんな小言が、夕暮れの道へ遠ざかっていく。
***
「ふぅ……なんか疲れたな」
外していた左耳のイヤホンを装着し直す。
外の音が、すっと一段遠ざかる。
通り過ぎる車の音も、水の底から聞いているかのように遠いものへと変わっていく。
白石咲という後輩の笑顔を一瞬だけ思い出し、俺は頭を軽く振った。
乱されたペースを取り戻すように息を吐き、アスファルトの上に伸びる影を踏みながら、一人静かに帰り道を歩き始める。
「でも……あの子、いい子だよな……」
今日という一日も、このまま無事に終わるのだと思っていた。
***
その頃――街の公園上空では、静かに――しかし確実に、異変が起き始めていた。
まだ青さの残る空に、耳鳴りのような不気味な低音がどこからともなく響き始める。
温かかったはずの陽光を遮るように漆黒の暗雲が立ち込め、空間そのものが波打つように、かすかに歪み始めていた。
大気が重く、湿り気を帯びる。
肌を刺すような冷気が、じわじわと立ち込めていく。
空に現れた亀裂は次第に大きくなり、まるで何かが裏側から現実の世界をこじ開けようとしているかのようだった。
だが、家路を急ぐ大人や子供たちは、誰一人として頭上で起きている異変に気づかない。
スマホに目を落とし、日常の会話に興じながら通り過ぎていく。
日常のすぐ裏側で、静かに――けれど確実に。
いつもの平和な日常は、終わりを迎えようとしていた。




