122話 小さな邪神体
あれから、数日が経った。
俺――橙真は、防災対策課の訓練場にいた。
目の前には、いくつもの障害物と訓練用の光弾が浮かんでいる。
「右!」
風宮さんの声に反応し、俺は身体を横へ滑らせた。
直後、光弾が目の前を通り過ぎる。
身体を動かすこと自体は、もう問題ない。
けれど――完全に元通りというわけではなかった。
髪は、まだ白い。
右腕や首筋に残る灰色の模様も消えていない。
そして右耳には――もう、イヤホンはない。
無意識に右耳へ手を伸ばしかけて、俺はその手を止めた。
「だいぶ戻ってきたな」
「はい」
「だが、能力はまだ使うな」
「分かってます」
風宮さんの表情が険しくなる。
「無理に力を使えば、前と同じことになる可能性がある」
「……はい」
あのとき、俺はイヤホンを外した。
そして、炎に呑まれた。
自分でも制御できないほどの力。
その代償として残った、白い髪と灰色の模様。
「日向、焦るなよ」
風宮さんが落ち着いた低い声で言った。
「今、必要なのは力を取り戻すことじゃない。力を使わずに戦える身体を作ることだ」
「……分かりました」
そのときだった。
――ピピピッ!
警報音が訓練場に響く。
直後、館内放送が入った。
『邪神体反応を確認しました。現場は市街地。付近の住民は、職員の指示に従って避難してください』
風宮さんが通信機を手に取る。
「規模は?」
『小型です。現時点で被害は軽微』
「そうか。水沢と碧羽を呼べ」
『了解しました』
俺は思わず顔を上げた。
「今回は、二人だけで行くんですか?」
「ああ。今の規模なら、二人で十分だ」
「でも……」
「橙真。お前はこのまま訓練を続けろ」
「……」
「焦る必要はない」
俺は頷いた。
「分かりました」
けれど、どうしても集中できなかった。
頭の片隅に、嫌な予感が残っている。
今の俺には戦うことができない。
だからこそ、蒼太と碧羽に何も起きなければいいと願うしかなかった。
***
その頃、東高校。
「――え!」
スマホを見た俺――蒼太は、思わず声を漏らした。
「どうしたの?」
隣の席にいた碧羽が尋ねる。
「防災対策課から呼び出し。邪神体だってさ」
「そっか」
「ああ」
俺はスマホをしまった。
「じゃあ、行くか」
「うん」
「橙真は?」
「今回は来ないみたいだ。まだ訓練中なんだろうしな」
「そうだよね」
碧羽は少し心配そうな顔をした。
「でも、橙真なら大丈夫だよね」
「ああ。俺たちだけで片付けてくる」
「うん」
二人は学校を出た。
***
現場では、すでに職員たちが住民の避難誘導を行っていた。
「反応は?」
「この先です」
職員が指差す。
建物の間に、黒い影が浮かんでいた。
「……なんだ、あれ」
俺は目を疑った。
小魚のような身体をした邪神体。
人間より一回り小さい程度の邪神体が、何もない空中を泳ぐように浮かんでいる。
長い尾びれが揺れるたび、周囲の空気が白く凍っていく。
「あれって、魚かな……?」
「氷を操るようです。注意してください」
「はい。わかりました」
その瞬間、青い魚がこちらを向いた。
赤い目が光る。
「来る!」
碧羽の声と同時に、邪神体が突っ込んできた。
「速っ!」
俺は横へ飛ぶ。
邪神体が通り過ぎた直後、道路が一気に凍りついた。
「蒼太!」
「分かってる!」
俺は両手を前へ出し、氷の壁を作る。
――ドゴォン!
邪神体が壁へ激突した。
俺はさらに氷を重ねる。
だが、氷の壁そのものまで凍り始めた。
「……マジかよ!」
「離れて!」
碧羽の声に合わせ、俺は飛び退く。
次の瞬間、氷の壁が内側から砕け散った。
邪神体が、その隙間から飛び出してくる。
「くっ!」
拳に氷を纏わせ、真正面から殴りつける。
――バキッ!
黒い身体に亀裂が走った。
「今だ!」
碧羽の矢が風を纏って飛ぶ。
鋭い風をまとった矢が、邪神体の身体へ突き刺さった。
「俺が動きを止める」
俺は地面へ手をつく。
道路から伸びた氷が、邪神体の脚と身体を一気に包み込んだ。
「碧羽」
「うん!」
風を纏った矢が、再び飛ぶ。
黒い身体に突き刺さり、大きな亀裂が走った。
「これで――!」
俺は全力で氷柱を叩き込んだ。
――ドゴンッ!
亀裂が全身へ広がっていく。
そして――パキパキパキッ。
黒い身体が、氷のように砕け始めた。
邪神体は、そのまま崩れ落ちた。
「……終わったのか?」
「うん」
碧羽が頷く。
俺は残骸へ近づいた。
けれど――。
「……何も起きないな」
「そうだね」
俺は眉をひそめた。
「邪神体なのに?」
「私も初めて見た」
普通なら、何かしらの反応があってもおかしくない。
けれど、目の前に残っているのは青い残骸と、周囲に広がった氷だけだった。
そのときだった。
――パキッ。
「……?」
足元で音がした。
残っていた氷に、ひびが入っている。
俺たちが触れているわけでもない。
それなのに、亀裂は少しずつ広がっていく。
「蒼太……」
「ああ」
俺も周囲を見回す。
道路、建物、電柱。
そこら中に残った氷が、同時にひび割れていた。
「まだ力が残ってるのか?」
「分からない」
その瞬間――。
――ドクン。
「……今の、聞こえた?」
碧羽が小さく尋ねる。
「ああ」
もう一度。
――ドクン。
心臓の鼓動のような音。
けれど、周囲には誰もいない。
俺は息を止めた。
建物の向こう。
ほんの一瞬だけ――巨大な影が動いた。
「……碧羽」
「何?」
「……いや。なんでもない」
目を凝らしても、もう何も見えない。
ただ、そこに何かがいた。
そんな確信だけが残っていた。
俺は無意識に拳を握る。
倒したはずなのに。
終わったはずなのに。
胸の奥に残った嫌な予感が、いつまでも消えてくれなかった。




