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115話 カマエルの計画

 教会の地下へ戻る。


 静まり返った空間には、先ほどまでの戦闘の痕跡が残っていた。


 床には亀裂が走り、壁は炎によって黒く焼け焦げている。


 私――カマエルは、その光景を見渡した。


 橙真は逃げた。

 追うことは、できた。


 だが――あの少女と目が合った瞬間、私は足を止めていた。


 なぜなのか。


 自分でも分からなかった。


 ただ、あの少女と目が合った瞬間、胸の奥に言葉では説明できない違和感が生まれた。


 まるで、遠い昔に忘れていた何かを思い出しかけたような。


 けれど、その正体は分からない。


 私は、それ以上橙真を追うことをやめた。


「……橙真を逃がしたのか?」


 背後から鳥山が尋ねる。


「ええ」


 私は振り返らずに答えた。


「なぜだ?」

「…………」


 答えは、すぐには出てこなかった。


 逃がすつもりなどなかった。


 あのまま追えば、捕らえることもできただろう。


 それでも、私は追わなかった。


「今は、追う必要がないと思ったからです」

「そうか」


 そう答えると、鳥山はそれ以上追及しなかった。


 私は地下室の奥へ歩いていく。


 その途中だった。


 床に、小さな白い物が落ちているのが見えた。


 私は足を止める。


「……」


 見覚えがある。


 先ほど、私が橙真の右耳から外したイヤホンだった。


 戦闘の最中、手放したままになっていたらしい。


 私はしゃがみ込み、それを拾い上げる。


 手のひらに乗せると、あまりにも小さな物だった。


 これが、橙真の力を抑えていた。


 あれほどの炎を生み出し、鎖さえも焼き尽くすほどの力を。


 私はしばらくイヤホンを見つめた。


 あの炎を思い出す。


 赤く燃え上がる炎。


 理性を失ったかのように、ただ私へ向かってきた橙真。


 あの力は、今まで見てきた彼の能力とは明らかに違っていた。


「それは?」


 シエリオの声がした。


「橙真がしていたイヤホンですよ」


 私はイヤホンを握り締めた。


 ――パキッ。


 乾いた音が、静かな地下室に響いた。


 白い外装が砕け、破片が指の間から落ちていく。


 私は何も言わず、その残骸を床へ落とした。


「……壊してよかったのですか」

「ええ、もういいのです」


 もう、このイヤホンが橙真の力を抑えることはない。


 それが必要なのかどうか。


 今の私には分からなかった。


 ただ一つだけ分かっている。


 あの力を知ってしまった以上、橙真を放置することはできない。


「しかし……」


 シエリオが焼け焦げた壁を見る。


「それよりも、想定していた以上の力でしたね」

「そうですね」


 イヤホンを外した瞬間に現れた炎。


 周囲を焼き尽くすほどの熱。


 鎖を一瞬で消し去るほどの力。


 そして、理性を失ったかのように私へ向かってきた姿。


「彼は、やはり必要な存在です」


 私は静かに言った。


「なぜ、そこまで橙真にこだわる?」


 鳥山が尋ねる。


「彼には、役目があります」

「その役目とは?」

「……まだ、話す必要はありません」

「それは、私たちにもまだ教えることはできないのですか?」

「ああ。そのとおりだ」


 鳥山は黙った。


 私は、それ以上説明するつもりもなかった。


 今は、まだ。


 橙真自身が、その役目を知る必要もない。


 知らないほうが、都合がいい。


「……神々を封じたままでは、この世界は安定しません」


 私は扉がある方角を見つめながら言った。


「封印されていること自体が、世界の歪みを生み出している」

「だから、我々は神々を解放する」

「ええ。そのとおりです」


 私は頷いた。


「神々を解放し、もう一度この世界を安定させる」


 シエリオが静かに口を開く。


「そのためなら、人間の犠牲も必要――ということですね」

「はい、そのとおりです」


 私は否定しなかった。


 私たちがこれまでしてきたことを考えれば、綺麗な言葉だけで済ませることなどできない。


 邪神体を利用した。

 人間を巻き込んだ。

 邪魔する者を排除した。


 それでも、目的は変わらない。


「神々を解放するためなら、必要な犠牲です」


 鳥山が低い声で言う。


「我々は世界を壊そうとしているわけではない」

「戻そうとしている」


 私は、その言葉を受け継いだ。


「本来あるべき世界へ戻す」


 そのためには、橙真たちが立ちはだかることも分かっている。


 彼らから見れば、私たちは敵だ。


 それでも構わない。


 理解される必要はない。


 ただ、目的を果たせればいい。


 けれど――あの少女だけは、気になる。


 なぜ、あの少女を見た瞬間に足が止まったのか。

 なぜ、あの少女の存在に、あれほど強く反応したのか。


 答えは、まだ見つからない。


「……橙真はどうします? もう一度、捕らえますか?」


 私は床に落ちたイヤホンの破片を見る。


「今はまだ、放っておきましょう」

「よいのですか?」

「ええ。彼には、まだ役目がありますから」


 それ以上、誰も口を開かなかった。


 私は地下室を見渡す。


 焼け焦げた壁。

 砕けた床。

 そして、足元に残された白い破片。


 小さなイヤホンは、もう二度と元には戻らない。


 それでも――私たちの計画は、止まらない。


 神々を解放する。


 そして、この世界をもう一度安定させる。


 そのために必要なことを、私はこれからも続ける。


 たとえ――誰に敵だと思われようとも。

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