116話 橙真の能力
橙真が防災対策課へ運ばれてから、しばらく時間が経った。
治療室の前にある廊下は、妙に静かだった。
ガラス越しに見える橙真は、ベッドの上で眠っている。
髪は、すべて白くなっていた。
肌も灰色に変わっている。
それでも、胸はゆっくりと上下していた。
生きている。
それだけが、今の俺たちにとって何より重要だった。
咲はガラスの前から離れようとしなかった。
両手を胸の前で握り、心配そうに橙真を見ている。
俺――蒼太は、その背中を見ながら口を開いた。
「……もう一度、情報整理しませんか?」
花江さんが頷く。
「そうですね。今の私たちには、情報を繋ぎ合わせる必要がありますね」
俺たちは廊下の端に集まって、情報を整理することにした。
ただ、咲だけは橙真のそばに残った。
それでも、話は聞いているようだった。
「まずは、咲さんが見たことからですね。教会へ行ったあと、橙真くんが炎に包まれた状態で飛び出してきた。そして、その後ろを黒い天使が追っていたんですよね?」
咲は俺たちの方へ振り向いた。
「はい、そうです。そして、その天使は、私を見たんです」
「そのとき、何か言われたのか?」
「いいえ。でも……」
咲は少し考え込む。
「私を見た瞬間だけ、動きが止まったように見えました」
「襲ってくるような感じはあったか?」
「なかったと思います。でも、何というか……驚いていたように見えました」
咲は首を傾げた。
「私にも、理由は分かりません」
「それから、咲が橙真に話しかけた。そうしたら、炎が消えたんだよね?」
「はい」
咲は自分の手を見る。
「話しかけた瞬間、急に消えました」
「何か力を使った感覚はあったか?」
「……分かりません」
咲は困ったように首を振った。
「ただ、橙真先輩を助けたいって思って話しかけただけです」
俺は黙って橙真を見る。
咲にも、自分の力が何なのか分かっていない。
それでも、あの場で橙真を救ったのは咲だった。
「もう一つ、重要なことがある。橙真の右耳から、イヤホンがなくなっていることだ」
「あ……」
咲が顔を上げる。
「そういえば……」
「そのイヤホンを外したのが、カマエルだと思う」
「その……カマエルって、なんですか?」
咲が聞き返した。
俺たちは、顔を見合わせた。
そうだった。
咲は知らない。
俺たちは、巫女の力で過去を見た。
神々と天使たちが、この世界で生きていた時代を。
「黒い天使の名前だ」
「……あの黒い天使が、カマエル」
咲は小さく呟いた。
碧羽が頷く。
「うん。カマエルと、神社にいた巫女は同じ存在だと思う」
「そうなんですね……」
咲はしばらく考え込んだ。
「じゃあ、橙真先輩にイヤホンを渡したのも?」
「ああ。カマエルだ」
「どうして……?」
咲の声が少し揺れる。
「敵なのに、どうして橙真先輩にそんなものを?」
その疑問に、誰もすぐには答えられなかった。
カマエルは橙真を捕らえた。
それなのに、殺さなかった。
そして、橙真には役目があると言った。
「そこが、一番気になるところですよね」
花江さんが静かに言った。
「カマエルは、橙真くんを必要としている可能性が高い」
「でも……」
咲がガラスの向こうを見る。
「それなら、どうしてあんなことをしたんでしょう」
「分からない。ただ、橙真に何か特別なものがあるのは間違いないと思う」
そこで、碧羽が口を開いた。
「古代の話と照らし合わせてみたら、何か分かるかもしれないですよね」
「古代の話ですか……?」
咲が振り返る。
「ああ、俺たちはカマエルの力で古代の記憶を見たんだ」
「そうだったんですね」
「ああ」
言葉が終わると、俺たちは、あの時見た光景を思い出す。
カタストロフ。
それを封じるために作られた扉。
そして、その鍵を作った神。
「プロメテウスかも……」
碧羽が言った。
「プロメテウスってなんですか?」
「カタストロフを封じるために、自分の力を使って鍵を作った神だ。そのあと、神としての力を失ったんだ」
「そう。さらに、神々は扉の中へ、天使たちは、粒子となってこの世界に残った。その何処かのタイミングで力を手放していたとしたら」
咲は黙って話を聞いている。
「もし、その力が消えずに残っていたとしたら……」
碧羽が呟く。
「私たちの能力も、その影響を受けている可能性がある?」
「まだ仮説の段階だが、その可能性は十分にある」
俺はガラス越しの橙真を見る。
「そう考えると、橙真の炎も、説明できるかもしれない」
「炎……」
咲が呟く。
「プロメテウスの炎を?」
「そうだ」
俺は頷いた。
「だから、橙真の能力は――」
一度、言葉を止める。
「プロメテウスの力が元なんじゃないかって、俺は思う」
咲は驚いたように目を見開いた。
「橙真先輩が、その神様の力を……?」
「まだ何も分からないよ」
碧羽が穏やかに言う。
「たしかに、あの時カマエルは橙真くんに向かってプロメテウスの可能性があると言っていました」
「それじゃあ……」
咲は再びガラスの向こうへ視線を戻した。
しばらくして、小さな声が聞こえた。
「橙真先輩……苦しそうです」
誰も答えなかった。
眠っている橙真の姿を見ていると、胸の奥が重くなる。
俺たちが知っている橙真は、いつも無茶をする。
自分より先に、誰かを助けようとする。
今回だって、きっとそうだった。
「早く元気になってほしいね」
「はい……」
咲が頷いた。
「私、橙真先輩が目を覚ましたら……ちゃんと話したいです」
「何を?」
「分かりません」
咲は少しだけ笑った。
「でも、目を覚ましてくれたら、それでいいです」
その言葉に、俺も頷いた。
「そうだな」
風宮さんも腕を組みながら、橙真を見る。
「日向なら、そう簡単には倒れないだろ」
「ええ」
花江さんが優しく笑う。
「だから今は、私たちは待ちましょう」
俺たちは、ガラスの向こうにいる橙真を見た。
誰も、すぐには動かなかった。
咲も。
碧羽も。
風宮さんも。
花江さんも。
そして俺も。
橙真が目を覚ますまで、ここにいたかった。
「……橙真」
俺は小さく呟く。
「いつまで寝てんだ、早く起きろよ」
返事はない。
それでも、胸はちゃんと上下している。
だから俺は、もう一度だけ拳を握った。
「また一緒に帰ろうぜ」
その言葉に、咲が静かに頷いた。
「……はい」
橙真は、まだ眠っている。
けれど俺たちは、誰一人、諦めていなかった。




