第八十九作戦:夏の慰安旅行6
深夜――。ホテルの中は静寂に包まれ、廊下を満たすのは小さな灯りの明滅と、規則的な壁時計の音だけだった。蝶々が個室で眠りについているその頃、一つの影が暗がりを慎重に移動していた。音を立てないように歩むその影の主――正体はパンドラだった。
「はぁ♥…はぁ♥…うふふ…」
彼女の息遣いは既に乱れており、その瞳には狂気にも似た情熱が宿っていた。手に汗を握りながら、パンドラは蝶々の個室のドアをそっと開ける。月明かりが差し込む静寂の部屋、その中で蝶々が穏やかな寝息を立てている光景を目にすると、彼女の興奮はさらに高まった。
「蝶々様……ようやく二人っきりですわ♥」
パンドラは耳元でささやくように呟き、思わず身を震わせた。そして、興奮に耐えきれなくなった彼女はついに浴衣の帯を乱暴に引き抜く。そのまま布地が音を立てて床に落ち、パンドラは生まれたままの姿となった。
「蝶々様と肌で語り合う夢が、今この瞬間に……!」
高揚感の中、ベッドに近づくと、その場を跳ねるように勢いよく蝶々の布団に飛び込む。
だが――彼女は致命的なミスを犯していた。
「やっぱり来たか。」
突然の声に、パンドラの動きが凍りついた。布団の中で眠っているはずの蝶々が起き上がり、冷ややかな視線でパンドラを見据えている。
「ちょ、蝶々様!?な、なぜ起きて…?」
驚きで口を開く間もなく、蝶々が軽く指を動かす。その瞬間、周囲の空気が一変した。室内全体が冷気で満たされ、凍り付くような冷たさが骨まで染み込む。
――カチン。
一瞬の出来事だった。パンドラの全身が氷で覆われ、そのままのポーズで動きを止めてしまった。何が起きたのかを理解する間もなく、彼女は凍りついた石像のような姿と化していた。
蝶々は静かに息をつきながら、その様子を確認すると再び布団に横たわり、冷ややかに一言を投げかけた。
「これで少しは懲りるだろう。」
あくびを一つ漏らしながら、すでに彼女の意識は再び眠りに向かいつつあった。
数秒後、ドアが軽く開き、アンカーが入ってきた。部屋の冷気に顔をしかめつつも、部屋の中央で凍りついているパンドラを見て苦笑する。
「まーたやらかしとるんか、ほんま懲りへんなあ。」
「アンカー、連れて行け。ふぁ…」
「了解や」
アンカーは軽く首を振りながら凍りついたパンドラを抱え上げた。女性一人分の重さもものともせず、そのまま軽々と彼女を部屋の外へと運び出していく。その間も、パンドラは悲哀と狂気の入り混じった表情を浮かべたまま動けなかった。
部屋に静けさが戻ると、蝶々は小さなため息を漏らして布団を整え、再び枕に頭を預ける。
「(やれやれ、パンドラは本当に騒がしいやつだ。こんな夜中に起こされるなんて…。)」
薄く開いた瞼がゆっくりと閉じられ、彼女は深い眠りに落ちていった。月明かりがわずかに部屋を照らし、再び穏やかな夜が訪れていた。
―――
「ん…んんぅ…」
朝の光がホテルのカーテン越しに部屋へ差し込み、暖かく優しい日差しが蝶々のまぶたをくすぐった。彼女はベッドの上で軽く伸びをしながら目を覚ます。
「ふぅ……久しぶりにぐっすり眠れたな。」
独り言のように呟きながら布団を押しのける。昨晩、少々厄介な出来事があったものの、パンドラの騒動が収束したおかげで、それ以降の夜は実に快適だった。
ベッドから足を下ろし、身支度を整えた蝶々は、普段と変わらぬ静かな表情で個室を後にし、ロビーへと向かった。
ロビーには、すでにメンバーたちが揃っていた。
「オハヨウゴザイマス」
機械のように正確な言葉で挨拶するラルデュナ。
「おはようさん」
気だるそうに座っているアンカー。
「おはようなのだ!」
ソファでぴょんぴょん跳ねるピエラの声は、一際賑やかだった。
「おはっ♪」
エルが、元気に挨拶を投げかける。
「…お、おはようございます…」
どこか遠慮がちな声でアールも続いた。
「おはようございますっス」「おはようだぜ」
スズメバチたちも蝶々へ挨拶をしていた。
蝶々は一同を見渡して静かに答えた。
「あぁ、おはよう。そろそろ朝食だ。行くぞ。」
しかし、挨拶の輪に馴染んでいない一人――パンドラは少し離れた場所で肩を抱き、冷え切った表情を浮かべていた。
「うぅ…寒いですわ…」
昨晩の一件で全身が凍らされていたせいか、今朝になっても身体が完全には温まりきっていないようだ。浴衣の上にさらにストールまで巻き付けているものの、それでも震えが止まらない。しかし、パンドラを気遣う者は誰もいなかった。
彼女を完全に無視した形で、一行は朝食会場へと歩き出す。普段の仲間としての一体感の中で、唯一パンドラだけが気まずそうに歩を進めていた。
朝食会場へ到着した彼らだったが、そこで蝶々たちを待ち受ける新たな出来事が起ころうとしていた――その兆しを誰もまだ察知していなかった。
―――
「今日もたっぷり食べたいのだ!」
ピエラの弾む声が朝食会場に響き渡る。彼女の目はすでに食事への期待で輝いており、身体全体でその高揚感を表現していた。
「焦るんやない。今日もバイキングやけど、ほどほどにな…エルも」
アンカーはピエラに向けた注意のついでに、エルへもちらりと視線を向けて一言加える。
「わ、分かってるわよ。アタシ、子供じゃないし…」
エルが胸を張ってそう答えた直後、近くにいたアールが小声で呟いた。
「……子供でしょ」
「はぁ!? アール、何よ!?」
エルは瞬時にアールへ詰め寄り、眉を吊り上げる。
「朝カラ騒ガシイナ」
ラルデュナが呆れたような口調でぽつりと零す。
やがて、朝食会場に到着した一行。しかし、いつもの賑やかな雰囲気にそぐわない妙な違和感を感じた蝶々が足を止め、テーブルの上をじっと見つめる。
「…ん? 今日の朝食はバイキングじゃないのか?」
蝶々は並べられた料理――パン、スクランブルエッグ、ベーコン、コンソメスープ――を見渡しながら首を傾げた。
会場の空気もまた微妙にざわついている。蝶々の疑問に応えるかのように、近くの他の宿泊客たちも口々に不満を漏らしていた。
「…むぅ…これだけなのだ…?」
ピエラが不満げに唇を突き出しながら皿を見つめる。
「…なるほど、ピエラが原因か…」
蝶々が冷静に指摘する。その目線がじっとピエラに向けられた瞬間、彼女は肩をすぼめた。
どうやら原因は昨晩のピエラの底知れない食欲にあったらしい。ホテル側は予想を超える彼女の猛攻に慌てふためき、今朝の食事スタイルを急遽バイキングから定食形式へ切り替える羽目になってしまったようだ。
「ちょっと!どういうことよ!」
エルは腰に手を当てシェフを睨みつける。彼女の言葉に続くように他の宿泊客も声を上げる。
「そうだそうだ!このホテルは朝と夜はバイキングのはずだろう!」
「詐欺じゃない!責任者を呼んでちょうだい!」
シェフたちは、申し訳ありませんと必死に頭を下げる。そこに宿泊客が来て、宿泊料金を値下げすることで何とかその場を収まることに。
―――
「…あむ…♪うまうまなのだ♪」
それでも、目の前の料理を口に運んだピエラは、一口目から満面の笑みを浮かべる。
だが、ピエラの勢いは凄まじかった。目の前の料理をたちまち平らげると、彼女は皿をじっと見つめ、小さな舌をちらりと出す。その様子を見ていた他の幹部たちは嫌な予感を抱いたが、それを止める暇もなかった。
「むぅ…足りないのだ…足りないのだ…ぺろぺろぺろ…」
ピエラは大皿を手に持ち、顔を近づけて舌を出し、まるで猫のように皿をペロペロと舐め始めた。料理の残り香すら惜しむようなその動きは、何とも執念深い。
「……流石に意地汚いぞ。」
蝶々はその様子をじっと見つめていたが、最終的にため息をつき、椅子から立ち上がった。そして、自分の皿をそっと手に取り、中に残る朝食をピエラの皿へ静かに移していく。その動きは迷いなく、そしてどこか哀れむようでもあった。
ピエラの目がぱっと輝いた。
「チョー様ありがとうなのだ!」
彼女は嬉々として朝食を再び頬張り始める。その姿はあまりに無邪気で、食事を囲む一同の中にも自然と緩やかな笑いが漏れた。
周囲を見渡すと、幹部たちはそれぞれ呆れた表情と笑みの入り混じった表情を浮かべている。アンカーはこめかみを軽く押さえ、エルはピエラの無邪気さに苦笑していた。アールは彼女の勢いに圧倒されつつ、どこか引いているような様子だ。
「…相変わらずだな。」
蝶々は再び席につきつつ、ピエラの活力をちらりと眺め、呆れ混じりの言葉を零した。そんな主たる彼女の言葉も、ピエラには全く届いていない。ただ、目の前の朝食にひたすら夢中であった。
―――
朝食を終えた蝶々たちは、手早く身支度を整えるとホテルを後にした。部屋を一つ一つ確認し、忘れ物がないかを確かめつつ、スタッフへの挨拶を済ませた後、一行はホテル近くのお土産屋へ立ち寄ることにした。
お土産屋の店内には、地元特産の銘菓や工芸品、サーカス団の公演用にぴったりなカラフルなマフラーやアクセサリーが所狭しと並んでいる。蝶々は店内をゆっくりと歩きながら、一品一品を丹念に見て回った。表向きサーカス団としての姿に合わせ、団員たちへの土産を選ぶためだ。
「これがエエんちゃう?」
アンカーは鮮やかな手ぬぐいを手に取ると、軽く広げてその柄を確認する。明るい色合いの伝統模様がどこか懐かしい印象を与えていた。
「うちはこれにするわ。」
一方、エルは小さなアクセサリーが入った箱を指差していた。その中には星や動物を模したキーホルダーが収まっている。
「可愛いじゃない。アールも一緒に見る?」
近くにいたアールに声をかけたが、彼は少し躊躇しながらもコクリと頷いた。
「……そ、そっちの星型がいいと思う…。」
アールの指摘を受けたエルは、意外そうに目を見開いたが、少し嬉しそうに頷く。
一方でピエラはお菓子コーナーに張り付き、大量の試食品を片手に店員から注意を受けていた。
「むぅ…これ、お土産にしたいのだ!でも…ちょっと食べたいのだ!」
「ちょっと待ってっ。それ試食品じゃないわっ」
その無邪気な行動に呆れる蝶々は、最終的にピエラが食べた分をまとめて購入することで場を収めることにした。
こうしてメンバーたちがそれぞれ選んだ土産品を手にバスへと戻る頃、不死鳥の羽の慰安旅行はその静かな幕引きを迎えようとしていた。
帰り道、バスの座席に座る蝶々は、揺れる車内の中でふと心に思うことがあった。
「……これで少しは気力も充実するだろう。」
窓の外に流れる風景を眺めながら呟いたその言葉は、メンバーたちを一瞥しながらどこか自分に言い聞かせるようでもあった。目を閉じ、頭をシートに預けると、先ほどの楽しい旅の光景が脳裏をよぎる。
彼女の視線の先には、まどろむアンカー、退屈そうに窓の外を眺めるエル、ピエラの世話に追われるアールの姿。まっすぐ先を見つめるラルデュナ。蝶々を熱い視線で見るパンドラ。いびきをかくスズメバチとオオカミ。
束の間の休息が士気を高めたのか、誰もが気持ちを新たにしているようだった。
だが、そんな安堵の中にも一抹の不安を感じざるを得なかった。
「――さらなる波乱が、やってくる。」
蝶々の中に眠る予感。それがいつか、この静かな日常をまた揺るがすかもしれない。しかし、今はただ、この穏やかな瞬間を噛みしめるのだった。




