第八十八作戦:夏の慰安旅行5
夕暮れが訪れ、空一面を柔らかなオレンジ色の光が包み込んでいた。日中の賑やかさが和らぎ、海風も涼しさを帯びる中で、蝶々たちはホテルへの帰路を歩んでいた。
「はぁ♪楽しかった♪そろそろご飯じゃない…?」
エルがスキップしながら声を弾ませる。まだまだ元気いっぱいの彼女には、長い一日も遊び疲れた様子は見えない。その姿を眺めながら、ピエラも期待に胸を膨らませていた。
「ごはんごはんなのだ!今日は何なのだ?」
ピエラは小さな手でお腹をさすりながら、エルの隣に飛び跳ねるように歩く。
「…え、えっと…バイキングだよ」
ボソボソと答えるアールの声が、ちょっと控えめながらも期待を滲ませていた。その言葉を聞くや否や、ピエラの目がキラリと輝く。
「? バイキング…?それはどんな食べ物なのだ…?」
首を傾げる彼女に、アンカーが軽く笑って答える。
「食べ放題やな♪たくさん食べれるで♪」
その一言で、ピエラの目がさらに大きく見開かれる。
「きゃっ♪きゃっ♪食べ放題!早く行くのだ!」
子どものように歓声を上げながら駆け出そうとするピエラを見て、アールが慌てて引き止める。それでも彼女の興奮は収まらない。
一行は、旅の疲れを癒すべく楽しみにしていた夕食会場へと足を向けた。
足元には柔らかな砂がかすかに残るものの、目の前に待つ夕食への期待がそれを忘れさせる。明るく輝くホテルの入口が目の前に近づくにつれて、一人ひとりの足取りも自然と軽やかになっていった。
―――
「もぐもぐ♪ うまうまなのだ♪」
ピエラの声が、レストランの心地よいざわめきの中でひときわ明るく響いた。
彼女はテーブルに並んだ料理を勢いよく口へ運び、両手で頬を押さえて満足そうに微笑む。
その食べっぷりに、アンカーが苦笑いを浮かべながら口を開いた。
「良く食べるやないか…」
「今回はいいでしょう…蝶々様♥」
隣に座るパンドラが顔を寄せてくる。その手には、自分が使ったばかりのスプーンが握られていた。
「どうぞ♥ わたくしの唾液つきですわ♥ あーん♥♥」
「……」
蝶々はまるで聞こえなかったかのように目の前の料理へ目を落とし、一言も返さず食べ続ける。
その冷静さに微かな失望を浮かべつつも、パンドラは不敵な笑みを浮かべながら「まあ、蝶々様ったら恥ずかしいのですね♥」とつぶやく。
テーブルに座る蝶々、パンドラ、アンカー、ラルデュナは、必要最小限の料理を控えめに取ってきて落ち着いた食事を楽しんでいた。華やかなビュッフェの賑わいの中で、どこか洗練された落ち着きが漂っている。
一方、向こうのテーブルでは、スズメバチとオオカミの皿には山盛りの肉だけが盛られていた。
「俺っちたちは肉っスね♪」
スズメバチが満足げに微笑む。
「あぁ、これ食い終わったら、今度はあっちの肉に挑むかぁ?」
オオカミが指差すのは、向こうに並ぶローストビーフのコーナー。
「もちろんっスよ♪」
屈託のない笑顔で返すスズメバチ。そのやり取りの間も、彼らの手は一瞬たりとも止まることなく料理へ伸び続けていた。
レストランには地元で取れた新鮮な海産物やバラエティ豊かな料理が並び、そのどれもが見た目も味も絶品だ。しかし、中には自分の目の欲を満たすのに夢中になる者もいた。
その代表格がエルだ。彼女の皿はこれ以上載せる隙間がないほど料理で山盛りになっている。欲張りすぎた結果、自分の席に戻る道中、バランスを取るのが精一杯で、皿からこぼれ落ちそうな料理を必死で支えている。
数分後、エルはテーブルに崩れるように座り込む。
「…うぅ…もう無理…」
苦しげな声をもらした彼女に、蝶々がすかさず厳しい目を向けた。
「エル。残すのはマナー違反だ。全部食べろ」
「えぇ~!? 無理だってば!」
エルはお腹を抑えて情けない声を出すが、蝶々は冷たく視線をそらし、自分の食事を続ける。
「蝶々、ちょっと助けて! 食べきれないの!」
「自業自得だ。断る。」
即座に返される厳しい答えに、エルは一瞬ひるむが、すぐに次なる標的を探す。周囲を見渡しても、他の幹部たちはいずれも自分の食事に集中しており、誰も助けようという気配はない。
「ああ、もうっ!」
最終的にエルが目をつけたのは隣に座るアールだった。
「アールっ手伝いなさいよっ!」
突然指名されたアールは、驚いてスプーンを持つ手を止める。
「…え、えぇ…む、無理だよ。ボク…もうお腹いっぱいだし――」
「ほら、アタシが手伝ってほしいって言ってるのよ! 早くしなさいっ!」
エルに押し切られる形で、アールは困惑した表情のまま渋々料理を口に運び始めた。その顔は食事を楽しむどころか、苦行を受けているようだった。
その間もピエラは、興奮した声を上げながら自分の皿を次々と空にしていく。彼女にとっての「食べ放題」とは、その言葉通りに可能な限り全ての料理を楽しむことだった。エルが半泣きになって隣で苦闘する様子にもまるで気づかず、「次は何を食べようか迷うのだ♪」と新たな料理を物色しに席を立った。
エルとアールが隣で苦しい戦いを続ける間、ピエラの無邪気な食欲がテーブルの空気をさらに賑やかにしていった。
―――
「もぐもぐ♪もぐもぐ♪」
ピエラの頬は膨らみ、彼女の手元には次々と料理が吸い込まれていった。その食べっぷりは尋常ではなく、テーブル上の皿が空になるたびに、周囲の客から驚きの視線が飛ぶほどだった。ホテルのスタッフは、ビュッフェ台へ料理を補充する手を休める暇もない。
「ねぇねぇ、ウィンナーないのか…?」
ピエラが無邪気に訊ねるその声に、補充作業をしていた若い給仕スタッフが一瞬言葉を失った。
「も、申し訳ありません…少々お待ち下さいっ…」
それでも笑顔を取り繕いながら小声で謝罪し、慌てて厨房の方へ向かう。
しかし、ピエラの食欲はその努力を大きく上回っていた。次々に料理がピエラによって平らげられ、ついにはビュッフェ台に料理がほとんど残らない状況に陥る。
周囲の客も異変に気づき、不満を口にする声が徐々に大きくなっていった。
「ちょっと!全然ないじゃない!? バイキングなんだからしっかり補充しなさいよ!」
「ふざけんな! 金払ってんだぞ!?」
「詐欺かよ!?」
「責任者出て来なさいよ!?」
フロアに響く怒声に、給仕スタッフたちは慌てふためきながら頭を下げて対応する。
「す、すいませんっ…た、ただいま…補充するので少々…お、お待ちくださいっ…」
「その言葉さっきも聞いたわよ!」
その様子をよそに、ピエラは全く動じず皿を空にし続けていた。
「もぐもぐ♪…ごくん♪… おかわりなのだ!!」
彼女は満足げに笑顔を浮かべながら、また新たな料理へと手を伸ばした。
その無邪気さと勢いに、給仕スタッフはついに困惑の表情を浮かべ、手を止めた。
しばらく悩んだ末、とうとうピエラたちのテーブルへと向かい、恐る恐る声を掛けた。
「あ、あのお客様…大変申し訳ありませんが、これ以上は……ま、周りのお客様の分まで食べられたら…こ、困る…」
彼の低姿勢なお願いに、ピエラはウインナーを頬張りながらキョトンとした表情を浮かべる。
「んぅ?まんまのあ?(ん?何なのだ?)」
「ピエラ、そろそろ限界だろう。」
蝶々が冷ややかに告げると、ピエラは唇を尖らせてふくれっ面をつくった。
「ピエラちゃん。まだ食べられるのだ!」
その答えに蝶々は軽く肩をすくめ、静かに立ち上がる。そして目配せでアンカーとラルデュナに指示を出した。
「連れてくで…」
「……分カッタ。」
アンカーとラルデュナがピエラの両脇に立つと、彼女の小柄な体を軽々と抱え上げた。
「ぴやぁっ!?もっと食べたいのだぁぁっ!?」
ピエラの抗議の叫びがフロアに響き渡る中、アンカーは笑いながら声を掛ける。
「ほら、次はデザートの時間やからな♪外でもええやろ?」
結局、ピエラの食べ盛りな暴走を収める形で、彼女らはやや騒動じみた退席を余儀なくされた。残された客や給仕スタッフたちが呆然とする中、蝶々は特に気にする素振りも見せず、レストランの扉を静かにくぐり抜けた。
「ふう…疲れた…。」
彼女の一言が、いつものようにこの日の終わりを締めくくった。
―――
夕食を終えた蝶々たちは、それぞれ宿の自慢である温泉へと向かうことになった。
宿に用意されているのは広々とした男女別の大浴場。赤いのれんをくぐった先には、湯けむりが立ちこめ、滑らかな石造りの浴槽が目を引く。
湯面は静かに揺れ、ほんのりとした硫黄の香りが漂っていた。
女性陣の更衣室では、さっそくピエラやエルが賑やかに騒ぎ始めていた。
「初めての温泉なのだっ! 入りたいのだっ!」
「はしゃぎ過ぎよ、ピエラ…ほんと子供ね。…ふふん♪今日くらいお風呂で泳いでも良いわよね♪」
彼女たちの無邪気な様子に対し、一歩離れて立っていたパンドラは全く違う種類の興奮を抑えられずにいた。
「蝶々様……ついにわたくしと共にお風呂タイムですわね♥わたくし…この時を心待ちにしてましたわ♥はぁはぁ♥」
その目には期待と妄想が溢れんばかりに込められ、手を頬に添えた姿は、もはや怪しげな魅了そのものだった。
だが、その行動を見てきた蝶々は冷静そのものだった。
「アンカー、ラルデュナ、出番だ。」
蝶々の一声で動き出したアンカーとラルデュナ。気配を察したパンドラが振り返った時には、既に二人が間合いを詰めていた。
「うちは楽しみにしとったで。ほな、やらせてもらうわ。」
「無駄ナ抵抗ヲスルナ。」
アンカーが手早くパンドラの両肩を押さえ込み、ラルデュナが持ち前の精密な動きで彼女の足元を抑える。二人は流れるような動きでパンドラを拘束した。
「えっ…!? あ、あなたたちっ…い、いったい何をっ!」
突然の事態にパンドラの声が裏返り、瞳が揺れる。しかし、二人の冷徹なコンビネーションの前に彼女の抵抗は完全に封じられた。
「待ってください! 蝶々様♥ わ、わたくしの夢♥ 蝶々様とのお風呂っ!? は、放しなさいっ!あぁぁぁっ!?」
彼女の必死の叫びも虚しく、大浴場への夢は泡と消えた。無情にも彼女は引き摺られるように移動させられる。
「ふぅ…ご苦労。風呂に入っていいぞ」
温泉を堪能し終え更衣室で腕を組み、指示を出す蝶々に、アンカーは軽く肩を竦めて笑う。
「了解や」
「是」
二人が大浴場へと向かう姿を見送る一方で、パンドラは大粒の涙を流してその場にうずくまっていた。
「蝶々様……入れ違いだなんて……」
その悲嘆の様子に、アンカーが溜息を漏らしながら軽口を叩いた。
「そこまで泣かんでええやろ」
だが、パンドラは反撃するように振り返ると怒鳴った。
「う、うるさいっ!? あなたたちが邪魔しなければ…わ、わたくしは…わたくしはぁぁぁっ!」
彼女の言葉は震え、怒りとも悲しみともつかない声で終わった。肩を落として沈む彼女に対し、アンカーはゆっくりと浴槽へ体を沈める。
「んあぁぁ♪まぁまぁ、落ち着いて楽しめばええやんか。お湯は気持ちええで。」
「フゥ…」
一方、ラルデュナは感情を表に出すことなく、黙々と湯を楽しみながら自分の「任務達成」に満足げな表情を浮かべていた。温泉の静かな湯気の中、ほんのりとした温もりが、その場に集う者たちの間に安らぎをもたらしているようだった。
―――
夜も更け、静寂が宿全体を包み込んでいた。温泉で温まった後の疲れと心地よさから、蝶々たちはそれぞれの部屋で深い眠りについていた。廊下に響くのは、風が窓に当たるかすかな音と、時折聞こえる夜行性の虫の羽音だけ。
しかし、その静寂を破るかのように、一つの人影が宿の薄暗い廊下をゆっくりと歩いていた。足音を殺すようにして動くその姿は、まるで暗闇に溶け込むようだ。影は、迷いのない動きで蝶々が泊まる個室へと近づいていった。
蝶々の部屋の前に到着すると、影はしばし立ち止まった。扉の前でかすかに耳を澄まし、中の様子を伺う。その動きは慎重で、緊張感が部屋の外まで伝わるようだった。しばらくして、影が腰につけた小さな道具を取り出し、ゆっくりと鍵穴に差し込む音がした。わずかな金属の響きが廊下に微かに響く。
影の腕が滑らかに動き、蝶々の部屋の扉が音もなく開く。月明かりが差し込む室内に、その得体の知れないシルエットが忍び込む。部屋は隅々まで片付いており、調度品も控えめで整然としていたが、その静けさはどこか異様な緊張感を漂わせていた。
部屋の中央には、布団の上で穏やかに眠る蝶々の姿があった。規則正しい寝息を立て、まるで何の心配もない子どものように無防備な寝顔を見せている。だが、その一方で、影が抱く目的が薄闇の中で不穏にうごめいているようだった。
影は慎重に足を進める。薄い畳の上に跡を残さぬように、一歩ずつ音を立てずに近づいていく。
影はついに布団のすぐ脇にたどり着き、しばし蝶々の様子を見下ろす。月明かりが差し込むその顔には、迷いの色が微塵も感じられなかった。持ち主の計画がいよいよ実行されようとしているのが明白だった。
蝶々の寝息が静かに空気を震わせる中、影の動きは次第に早まり、周囲の緊張感は極限へと高まっていく。
蝶々の運命を左右する一瞬が、今まさに、夜の闇の中で繰り広げられようとしていた。




