番外編25「ある幸運な一個体の記録」2
「あ、三上さん! おはようございます!」
三条の溌剌した声に苛立ちすら覚えながら、唸るような声で問う。
「もう朝……?」
「恐らく夕方です。まだ眠くなりません。いつもならもう少し早く起きられるので、このまま目を覚まされないのかと思い始めていましたよ」
「ノリ軽すぎ。まだ生きてるから」
一緒に生き残って外を見に行こう、とは何だったのか。三条はロマンチストに見えて、その実誰よりもリアリストなのではないか。そんなことを思いながら起きがけに聞いた言葉を笑い飛ばすと、三条は何とも言えない顔で黙り込む。
嫌な予感。人数は減っていない、けれど起き上がっているのは一人だ。
「……ねぇ、もしかして」
「はい……お一人、冷たくなっています」
静かに告げられたのは、残酷な現実。最低から少し上にいるというだけで、今のあたしたちが置かれている状況も、決して楽観視できるようなものではない。死神の足音が、いつもすぐそばで響いている。
「餓死、ってこと? でもあの人、朝はちゃんと食べてた。何でいきなり?」
「分かりません。お腹が空かないようにと、なるべく動かないようにしていたのがいけなかったのでしょうか。名前は分かりませんが、聞いたことがあります。じっとしていると良くない、というような……」
「あー、エコノミークラス症候群ってやつ?」
突然、三条のものではない気だるげな声が割り込んできた。振り返ると、それまで沈黙を保っていたもう一人の生き残りが、部屋の隅からこちらを見つめている。
「はい! それです!」
「ウチも途中寝てたからよく分かんないけど、あり得ない話じゃないっしょ」
どことなく、話し方がギャルっぽい。見た目もすっぴんの山姥ギャルのようだから、実際にそうなのだろう。
震災のときの避難所でも、体力を温存しようと動かずにいた人が、体調を崩したり亡くなったりしたというケースがあると聞いた。
幸い、あたしの記憶に該当するものはなかったけれど、単に気付かなかっただけという可能性もある。当時小学生だったあたしが、エコノミークラス症候群などというものを知っているはずがないのだ。
推定山姥ギャルは、間延びした話し方で今後について話し始める。
「……こういう状況だから、馴れ合うのとかナシって思ってたけどさ、たぶんそんなこと言ってる場合じゃないよねー」
三条とあたしが結託する可能性が高まった以上、残った一人がこちらに擦り寄ってくるのは不自然なことではない。あたしが逆の立場だったとして、同じようにしていただろう。
これまで、部屋の中にいる元聖女候補たちの間には、奇妙な連帯と相互監視の関係が築かれていた。
ここにいるのは全員が元聖女候補たち──言い換えれば女だ。女は表立って争わない。食糧を独占するため、多人数でのデスマッチに持ち込んだとして、全員仲良く共倒れがせいぜいだろう。余計な体力を消費するばかりで、得られる利益もたかが知れている。
誰かが火蓋を切って落とさない限り、この危うい均衡はひとまず保たれるのだから、お互いに見張り合うことで争いを避けようとするのは無難な判断だというのが共通認識だった。
だが、残る人数があたしと三条を含む三人となった今、少し状況が変わってくる。
一人と一人と一人、ならばまだしも、二人と一人。多数派と少数派という関係が生まれてしまった。淘汰されかねない一人は、行動を起こさざるを得なくなる。だからこそのこの提案だったのだろう。
確かめるように視線を向けられ、素直に頷いた。
「あたしもそう思う。味方は多い方がいいし」
「はい! 私も賛成です! 皆で一緒に生き残りましょう!」
三条はもちろん賛成、これに関しては推定山姥も疑っていなかったようで、想定通りな様子で話を続けた。
「んじゃ、仲良くしよーねってことで。早速だけどさー、何か食べもの探した方がよくない? 三人でこれだけじゃ足りないっしょ」
「はい! ネズミを食べるのは賢明な選択ではないということは確認済です!」
「食べ物探すのもそうだし、死体も一箇所にまとめておいた方がいいと思う。埋葬はできないけど、このままってわけにもいかないから。分担は……えっと」
推定山姥、とは言えずに視線を彷徨わせていると、山姥は思い出したように手を叩く。
「あ、自己紹介忘れてたわ。ウチは二三四番。五反田でーす。下の名前はダサいから言いたくありませーん」
「五反田さんとおっしゃるのですね! 二三四五! 番号も相まって面白い並びです!」
「あたしは三上花。こっちは三条美久」
「三の大渋滞じゃん」
五反田の言葉に、確かに、と頷く。
奇しくも全員、数字がつく名字。ここにきて奇妙な縁を感じられる組み合わせが、少し面白かった。
あたしたちより少し年上に見える五反田は、何となくリーダーのようになって場を仕切り始める。あたしはあまりこういうことが得意な方ではないから、任せられるのは素直にありがたい。
「じゃー、誰が何やるか決めよっか。食糧探し二人、死体処理一人でどう? 死体触るのとかカンベンって感じだろーし、ジャンケンで負けた人、恨みっこナシでさ」
「異議ナシです! 恨みっこもナシです!」
「右に同じ」
三条に同意を示し、満場一致の状況が出来上がる。三条に死体の処理ができるとは思えないものの、あたしとて今の今で積極的にやりたいわけではない。
数時間前に見た二八五番の変わり果てた姿を思い出しながら、負けても恨みっこなし、と自分に言い聞かせる。
五反田が拳を掲げたのを合図に、いつぶりかになるジャンケンが始まった。
「おっけ。そいじゃいくよー。最初はグー、ジャンケン──」
◇ ◆ ◇
「三上さん、一人で平気ですか?」
「大丈夫。言い出しっぺだし、食べ物探しに人割いた方がいいでしょ」
役割分担を終え、食糧を探しにいこうという三条が、心配げに声をかけてくる。何も心配はいらないと、笑顔で応じたが──実際のところ、何も大丈夫ではなかった。全く、何一つ、これっぽっちも大丈夫ではない。
食糧も死体も全員の問題だ。それなら全員でやろうと持ちかけるべきか何度も考えたが、あまりにも往生際が悪い。何がきっかけで決壊するか分からない協力関係を維持するため、口を噤む以外の選択肢はなかった。
「悪いねかみっち。ちょっぱやで戻ってくっからさ。あんま無理すんなよ」
「そっちこそ。ここ何があるか分かんないし、気を付けて」
いつの間にか五反田の中で妙なあだ名が定着しているが、この際、実害がないならよしということにしよう。
意外にも、五反田は役割分担に協力的な姿勢を見せている。ギャルは仲間内での関係性が重要そうなことからして、グループ内での好感度を維持する立ち回り方には慣れているようだ。
気は進まないものの、ひとまず与えられた役割をこなさなくては。三人という人数は、簡単に二人対一人の構図に陥るもの。自分の立場を不利にしないためには、とにかく減点を減らすしかない。
とはいえ、二八五番は後回し。最初に手をつけるには重すぎる相手だ。部屋の中で亡くなっている二七三番から片付けることにした。
遺体は、思いのほか人の形を保っている。そのことに安堵するやら、自分と紙一重の姿が恐ろしくなるやら。浮かぶ考えを封じ込めながら、ずっしりと重たい死体を引きずり、入り口まで引っ張っていく。
土嚢を五つほど繋げて引っ張っているかのようだった。意識のない人間は重たいのだと、話には聞いたことがあったものの、想像以上の重労働である。
運び先は廊下の奥。番号も知らせないまま死んでいった一人の遺体がある。ちょうど隅に位置しているため、遺体はそこに集めておくことにした。
あたしたちのいた部屋からは少し距離があるものの、途中にある二八五番の遺体からは最短だ。吐瀉物まみれのあれを別の場所まで長々運ぶことを思えば、せいぜい百メートルもない距離を運ぶことなど苦ではない。
一人の遺体をどうにか運び終え、折り重なった遺体を前にため息。
番号も分からない遺体に、二七三番を重ねる。
よく見ると、二七三番の首筋には、小さな穴が空いていた。黒子かと思ったが、薄く血が滲んでいることからして、どうやら違う。
てっきりエコノミークラス症候群か何かと思っていたものの、実際には虫や蛇にでも噛まれたのだろうか。寝ている間に噛まれてしまえば、防ぎようがない。
道理で死体が綺麗なわけだと嫌な納得を得ながら、番号の分からない遺体に目をやった。こちらはほとんど骨と皮のような有様である。
わざわざ建物の端まで移動して、そこを死に場所にするとは。死期を悟っていたのかもしれないし、彼女なりに何らかの覚悟を持っての行動だったのかもしれない。
迫り来る死を前に、どうしていいか分からないまま死んでいった可能性もある。いずれにせよ、今となっては確かめようのないことだ。
確かなのは、遺体の片付けが楽に済んで助かったということのみ。三人分の遺体を運ぶとなるとかなりの重労働だったが、この分なら二人分運ぶだけで済みそうだ。
とはいえ、最も厄介な遺体が残っていることに変わりはない。
一度は腹を括って二八五番の遺体がある場所まで近付いてみたものの、あの凶悪な臭いによって、決意が揺らいでしまう。
これを一人で運ぶのは気が滅入るが、一番厄介なところを二人に手伝わせては、五反田からの印象を損ねる可能性がある。五反田の性格はまだ掴めないが、少しのミスが命取りになるこの状況で、楽観的な見方はできなかった。
実際に運んだのは一人のみとはいえ、既に二人の遺体を片付け終えた。その事実が、厄介な一人を処理する手間に見合う功績となるだろうか、などと嫌な計算をしていたそのとき。
人の声が聞こえた。壁が厚いのか、三条たちの声はあまり聞こえてこない。それでも何かを話していることは辛うじて聞き取れるということは、あちらはそれなりの声量で話しているということなのだろうか。
よく耳を澄ますと、悲鳴のようなものも混じっている気がする。五反田の声だ。大きなネズミでも出たのかもしれない。
ここならば何が出てもおかしくはないと考えつつ、心許ないと思いながら丸腰で三条たちの向かった方へ足を進める。
撃退できるかは分からないが、ここで駆けつければ、その流れで遺体処理を手伝ってほしいと申し出ることもできるだろうか。
「やだっ、いやぁ」
少しずつ聞こえる声が鮮明になってきた。悲鳴はやはり五反田のもの。ネズミか虫か、もしくは蛇、あるいはそれ以外の何かか。思いのほか可愛らしい悲鳴を聞くに、ギャルにも怖いものはあるらしい。
三条の声は聞こえてこないあたり、さすがの図太さを見せているようだ。さては田舎出身かと、つい自分を棚に上げて失礼なことを思う。
宮城の中では栄えている仙台でさえ、野生動物の出現は珍しくない。ハクビシンや狸や猪、最悪の場合は熊も。
熊や猪、もしくは毒蛇の類でないなら何とかなるだろうと雑な覚悟を決め、廊下の突き当たりにある角を曲がった。
「二人とも、大丈夫──」
「いやぁぁぁあっ!」
見えたのは、上半身を食われ、つるりと飲み込まれる五反田の足。食われた、というのもおかしな話で、実際には壁に開いた四角い穴──ゴミ捨て場か焼却炉に繋がっていそうな作りだ──に落ちていったのだ。
え、とか、は? とか。役に立たない独り言をいくつかこぼしてから、慌てて五反田の消えた穴を覗き込む。隣の部屋にでも繋がっていて、頭から落ちた五反田が文句を垂れる姿を期待していた。
だが、それならばこの世の終わりのような絶叫を上げることはなかっただろう。
実際、目の前に広がる深淵は、終わりを悟るには十分すぎる。
高さを窺い知ることはできないが、小石でもあれば、投げて高さを測れるだろうか。そんなことを考え始めたとき、何かが底に叩きつけられたであろう、どぉん、という音が答えを投げて寄越す。
到底助からない。あれこれ期待する余地もなく、そう理解した。
「…………」
そっと穴から体を離すと、すぐそばに三条がへたりこんでいることに気付き、思わず一歩後ずさる。あらゆる感情が抜け落ちた彼女は、糸の切れた人形か何かに近い姿をしていた。
長い、沈黙。三条は何も言わない。あたしも、何も言えなかった。聞きたいことは、たくさんあったけれど。
事故なの?
何でこんなことに。
何があったの、説明してよ。
たくさん、あったけれど。
三条のこの有様が、答えだと分かってしまった。
もし五反田が不注意で穴に落ちたのだとしたら、三条はあたしと同じように慌てていたはず。
意図的でも計画的でもない。しかし事故でもない。
二人の間に何があったのかは分からない。分からないが、何らかの理由で諍いを起こし、三条が──五反田を、突き落とした。
「…………」
ピリついた沈黙が横たわる。日本の法律ではせいぜい過剰防衛とはいえ、人を一人殺した人間が、あたしの目の前にいるのだ。
二対一にならないよう、減点を減らそうとしていた頃とは訳が違う。ここで選択を間違えれば、最悪の場合あたしもここから落とされる。相手はあの三条だというのに、おかしな危機感が働いていた。
そうだ、相手はあの三条だ。ここに連れてこられてから、真っ先にあたしに声をかけてきたのも三条だった。
お腹が空いただとか、じっとしていても何だから走り込みをしないかだとか。そんなことを言ってくるのは三条くらいのもので──必ず生き残るという希望を捨てずにいたのも、三条だった。
あの部屋にいた全員が、きっと死にたくはなかっただろう。だが、生きたいと明確に願っていたのは、三条だけだったと思う。
他と比べて、三条は明らかに生への執着を見せていた。それならば、生き残るために何をしてもおかしくはないのではないだろうか。それこそ、邪魔者を消すということも、あり得ない話ではない。
どうして疑っているのだろう。否定するために記憶を辿っていたはずなのに、揺らがない事実が反論を投げてくる。
でも、三条は殺した。
三条は五反田を殺した。
自然死じゃない、殺人だ。
目の前でへたり込んだまま、俯いて黙りこくっているのは、本当にあたしがこれまで見てきたままの、三条美久だろうか。
信じたくないものが真実で、信じたいものは信用に値する証拠を持たない。人一人殺した人間と二人きりになってしまった現実より、よほど堪える。
どうやらあたしは、あたしが思っているよりも三条を買っていたらしい。状況が見えていないのか、楽観視しすぎ、などと思う反面、真っ直ぐに希望を抱く姿に励まされてもいたのだろう。
死にたくない、生き残りたい。それよりももっと先、生きて外の世界を見たい。
ここでそれを口にできる強さが、どうしようもなく眩しかった。
もしこの世界に来る前に三条と出会って、友達になれていたら、あたしはどうなっていただろう。思わずそう思ってしまうほどに。
── 「外の世界を見に行きましょう!」──
ふと思い出した三条の言葉を、頭の中で転がしてやる。希望を抱き、広い世界を望んだ三条。彼女は本当に、自分が生き残るため、他の人間を手にかけたのだろうか。
違うはずだ。何故なら三条はこうも言っていた。
皆で一緒に、と。
──「外の世界を見に行きましょう! 皆で一緒に!」──
あの部屋に連れてこられた人間を、できるだけ多く連れて、外の世界を見に行く。そんな大それた夢物語を語っていた人間が、自分一人でも生き残るために他人を殺すだろうか。
違う、と思う。そのつもりなら、五反田が落ちたことに気付いて駆け寄った瞬間、あたしも突き落とされていたはずなのだ。
そうしなかったことが証明だと、無理やり結論づける。
三条のように、あたしも到底手が届きそうにない希望とやらを、信じてみることにした。
「……手伝って」
声をかけると、呆然とした様子の三条が顔を上げる。抜け落ちた感情のうち、驚きだけが一足早く舞い戻ってきたような顔をしていた。
「二七三番と、あともう一人。一箇所にまとめてあるの。腐ったら嫌だし、運んできてここから投げるから。二八五番はまだあの場所にいるし……ほら、立って」
手首を掴んで立ち上がらせ、三条があたしに向かって言い放った言葉を、ぶつけ返してやる。
「外の世界、見に行くんでしょ」
果たしてこれは冷静な判断なのか、自分自身でもよく分からないままに言うと、三条は呆気に取られたような顔をしてから、やがて困ったように笑ってみせる。
「……三上さん、映画の主人公みたいです」
「どこの世界に死体遺棄する主人公がいるのよ」
無理やり軽口を叩きながら、二人で遺体を運んだ。
番号の分からない遺体、二七三番と放り込んで、最後の二八五番は、二人分の遺体から剥がした服を巻いてから運び、穴へ放り投げた。胃酸のせいか、吐瀉物がべったりとついた顔面が白く泡立っていたため、そのまま触るには衛生的にも精神的にも抵抗があったのだ。
死者の尊厳を丸切り無視した形にはなるが、ここに来て尊厳を守ったまま死のうなどとは考えないだろう。
死人に口なし。口にしないのなら、ないのと同じだ。生者にとって都合よく使われたところで、死者は異議を唱える手段を持たない。
ネットに書き込めば一発で炎上するようなことを思いながら、三条を連れて部屋に戻る。
あたしが目を覚ましたのが夕方なら、今はもう夜だろう。すっかり広くなった部屋の定位置に横たわり、三条に声をかける。
「あんたも寝たら。今ならどこで寝ても文句言われないわよ」
「……三上さん、怖くないんですか?」
恐る恐る尋ねられるも、抽象的な問いかけに、つい三条を振り返る。
「何が?」
「私が……計画的に五反田さんを、殺した、としたら」
「なわけないでしょ。あんた、頭がだいぶお花畑だし」
一緒に生き残ろうなどという甘い考えを口にする人間が、どうして計画殺人になど手を出せるだろう。
三条の計画的な犯行を否定する物的証拠は何もないとはいえ、状況証拠ならばある程度揃っている。三条がその気なら、あたしは真っ先に殺されていたはずなのだから。
「あたし寝るから、喋ってたいなら勝手に喋ってれば」
聞き手に徹するという宣言をしてから、横になったまま三条に背を向ける。
「……ああ、あとここ、何か毒蛇とか毒虫とか出るみたいだから、気を付けなさいよ。二七三番の首に噛まれたみたいな痕あったから」
間を繋ぐように言って、いよいよ寝る姿勢に入ったのはいいものの、当然眠れるはずもない。背後からは、三条が何度か身じろぎをする音だけが聞こえていた。
どれだけそうしていただろう。五分ほどだったかもしれないし、三十分ほどだったかもしれない。三条が、ぽつぽつと話し始めた。
「食べられるものがある場所、心当たりがあるからって……五反田さんについていったんです」
すっかり感情の抜け落ちた三条の声は、まるで物語を語って聞かせるかのようだった。
他人事のような物言いは、自分の身に起きたことではないと言い聞かせることで、心を保っているせいだろうか。
「さっきの、あの穴があるところ。覗いてみてって言われて、その通りにしたら、足を持ち上げられて、落とされそうになって」
少しずつ、声が震えを伴い始めた。どれだけ切り離したところで、真新しい記憶が心を揺さぶってくる。
聞き手に徹すると決めた以上、何も言わずに耳を傾けていた。どのみち、かけられる言葉など何もないのだ。好きに話をさせればいいと思った。
「必死に抵抗して、五反田さんから離れようとした拍子に、突き飛ばしてしまったみたいで。……あとは、三上さんが見た通りです」
ベタなサスペンスの導入かと思うような悲劇を、どう受け止めたものだろうか。
フィクションとしては擦られ続けて新鮮味の薄れたそれも、現実の血を伴って現れると、それまでとはまるで違う姿をして見える。
このような状況下だ。いずれ誰かと誰かがこうなる気はしていた。過失であれ意図的であれ、事故でも自然死でもない、殺人が起こると。
だが、まさかそれが三条の身に降りかかるとは。
何もおかしいことではない。それこそ正常性バイアス。何の保証もないのに、信じたいものを信じていただけ。
それでも、未だに自分の目にしたものが現実を帯びない程度には、横たわる事実が信じ難いのだった。
「人を殺してまで生き残ろうなんて、間違ってるって分かってるんです。でも……」
三条はそこまで言って言葉を切り、僅かに震えを伴った声で、ため息をつくように続けた。
「私、死にたくない」
身勝手を恥じるような、小さな声。
今も世界のどこかで死体が積み上がり、同時に産声が上がっている。いちいち負い目を感じていては身が持たない、なんて。言った側の自己満足にしかならないような慰めだった。
身近な死を意識すると、嫌でも考えてしまう。理屈でねじ伏せられない感情が、胸の内に渦巻いて止まらないのだ。
時間をかければ解決するのか、それすらも分からないまま。
聞き手に徹している以上、何かを言う必要はないと分かっている。それでも結局、独り言同士の会話未満なのだからと、聞こえるかどうかという声量で口にしてみた。
「死にたくないなら、死にたくなるまで生きればいいでしょ」
三条は、それに対してどんな反応を示したのか。知りたいような、知りたくないような。逃げるように目を閉じて、ただ朝を待つ。
目が覚めたら、五反田が何事もなかったかのように蘇ってはいないものかと、そんなことを考えながら。
次回更新予定日《5/10 20:00》




