144.5話「無辜の黒」
144話の後、王女と執事の話です!サプライズ!
楽しんでいただければ幸いです!
殿下の背を追いかけながら、思い出していた。
殿下が殿下となる前の、あの雨の日のこと。
私がわたくしとなる前の、運命の日を。
──「"おかあさん"はどこ?」
殿下は母君を「お母様」「女王陛下」と呼ぶ。
だから当然、「彼女」もそうだった。
「"おかあさん"」
彼女も、実母を呼ぶときはそうだったのだろうか。
土砂降りの雨、泥の臭いに混じる鉄の臭い、砕けた馬車に動かない馬、泥の隙間から覗く服とその主たち。
ほんの一瞬で、崖の上から濁流のように押し寄せた土砂によって、皆死んだ。同僚のメイドも、嫌味な執事も、高圧的な近衛騎士たちも──まだ四歳だった、王女殿下さえも。
どうして、私たちだけが。何の役にも立たない、弱い駒でしかない私たちばかりが。
湧き上がる感情を、冷たい雨が打ち消していく。
どうして。そう問うのはやめにした。今は泥と血に塗れているだけの私たちも、じきに彼らと同じ場所へ行くのだ。そう考えれば、腕に抱いた小さな冷たい体も、怖くはない。
絶望を示す茶色の中で、ひときわ輝く紛い物の銅は、母を求めて辺りを見回し、泥まみれの殿下を抱く私に目を向けた。
「"おれ"はどこ?」
殿下はご自身を「あたくし」と呼ぶ。
だから当然、「彼女」もそうだった。
そのはずだったのだ。何故なら彼女は、殿下の身代わりだったから。
「"お姉さん"、だれ?」
殿下は私を、役職で呼ぶ。そこのメイド、と。
けれど、「彼女」はそうしなかった。人知れず一人一人の名前を覚え、こっそりとその名を呼んでくれた。彼女の前では、私たちは駒ではなく、ただの人間だった。
その「彼女」が、別のものに塗り替えられていく。
土砂崩れによる記憶の混濁、あるいは喪失、そうでなければ別人格の発現? とにかく私が誰かは、まだ理解していない。
それなら──塗り替えられる。影武者を王女に。王女を影武者に。
優しい彼女を、高慢な王女に。
塗り替わる。暗闇の中に、一筋の希望が見えた。
「……王女殿下、私めの名前など、御身に刻むほどのものではございません。私は一介のメイドでございます。どうか、役職でお呼びください」
紛い物でも構わない。代わりが必要だ。女王陛下はもはや御子を授かることは叶わない。ここで王女を──ネロトリアの末裔を、失うわけにはいかないのだ。
たとえ、何の罪もない、ただ殿下と顔立ちが似ていただけの子どもを、犠牲にしようとも。
「代わりに、殿下。御身の尊名を、しかと刻まれますよう」
殿下の体を脇に置き、彼女の手を取る。
そうして、ネロトリアの歴史を刻んだ、長い長い名前を口にした。殿下は不意打ちで自身の名前を暗唱せよと命じられるため、使用人たちは皆、その名を諳んじることができるのだ。
ルイーサ・アダリーシア・リーゼロッテ・クリセルダ・トリシャ・アントニー・カルリーヌ・デリカ・イーリッカ・エルマ・イルーゼ・ファリカ──
名前というよりは呪文のようなそれを、苦い思い出と共に連ねていくと、やがて彼女は、可愛らしい声で笑い始めた。
「……へんな名前」
無邪気な、ただの子どもが浮かべるような笑顔。
それが、最後に見た「彼女」の姿だった。──
◇ ◆ ◇
「時間の無駄だったのよ」
自室に戻るなり、殿下は椅子のそばへ。わたくしが椅子を引くと、殿下はようやくそこに腰を下ろした。
異世界からやってきた聖女、レオ・ウサミ様──殿下の前世の記憶によれば、宇佐神礼央様とお呼びした方が正しいらしいが──と、初めて私的な場で言葉を交わした後のことである。
ウサミ様は先の戦争において、各国同士を団結させ、停戦へと導いた立役者であるが、元の世界での彼女──もとい、彼を知る殿下からすると、それはあまり面白くない事態だったらしい。
今回の訪問の目的というのは、王族として聖女と繋がりを持っておくに越したことはないというものの他に、聖女の威光が強くなりすぎるのではという懸念や不安もあったのだろう。
前世の殿下とは友人同士だったという彼女──もとい、彼も、どうやら今世の殿下とは馬が合わないようで、喧嘩別れのようになってしまった。
無理もない。殿下は四歳のとき、前世の記憶の代わりに、今世の記憶を全て失っているが、しかしそれは前世に今世が乗っ取られたというわけではない。今の殿下は植村克己という少年ではなく、ルイーサ王女その人の人格を有しているのだ。
それもまた、影武者であった頃の「彼女」のものとは別ものだが、それを知るのはわたくし一人である。
式典のときと同じように、背筋をぴんと伸ばしたまま、殿下はありのままの思いを吐露されている。
「あれだけの秘密を持ちながら、よくここまでやってこられたものだと感心していたけれど、少しからかっただけであの反応だもの」
「ええ。しかし、思いのほか冷静でいらっしゃいました。聖騎士の彼が絡むときは別のようですが、殿下が秘密を言い当てたときも、すぐに切り替えておられましたので」
「ふん。嘘をつくことだけは得意みたいね。あれが聖女だなんて笑わせるのよ」
「では、彼の秘密を暴いてしまわれるのですか?」
ついそんなことを尋ねると、殿下は何も言わずにこちらに目をやり、それから小さくため息をついてみせた。
「そんなことするはずないじゃない。この国には聖女が必要なのよ。偽物でも、役に立つならそれでいいの」
それは、奇しくも四年前のわたくしと全く同じ考えだった。
どういうわけか──ある程度想像はつくものの──裏路地で暮らしていた、王女殿下と瓜二つの子ども。孤児だというその子どもは、王家に引き取られたのち、王女の影武者となった。
あるとき、光と影は逆転し、今ここにいるのは、形を持った影。そのことを、影そのものも知ることはない。
それでいいのだ。これでよかったのだ。この国の正と、同じ判断を下すことができたのだから。
数年越しの答え合わせを経て、わたくしは殿下の言葉を肯定し、話題を先ほど会った聖騎士の彼へと移す。
「わたくしとしましては、殿下が殿方に興味を持たれたことの方に驚いておりました。わたくしの袖を引いていた頃を思うと、ご成長が喜ばしゅうございます」
記憶をなくした影武者を、王女殿下で塗り替える。わたくしにそのような目的があるとも知らず、あの土砂崩れから生還した「殿下」は、妙にわたくしに懐いていた時期があったのだ。
だが、それも昔のこと。今の殿下はすっかり殿下らしくなられて、今も尊大な態度でわたくしの昔話を一笑に付した。
「あたくしはいずれ君主となる立場なのだから、いつまでも甘えたことは言っていられないのよ」
「ええ。わたくしとしては少々寂しいような気もいたしますが……」
言ってから、自分でも少し驚いてしまう。
目的の遂行を考えるならば、こうして王族らしい高慢さを手にした殿下の成長ぶりは、喜ばしいはずだというのに。
殿下の鋭い視線と、隔たる沈黙で我に帰り、急ぎ先ほどの発言を訂正した。
「いえ、失言でございます。どうかお忘れください、殿下」
「失言の罰を決めるのはあたくしのはずよ。お前に指図をする権利はないわ」
「おっしゃる通りでございます。ご随意に」
首を垂れ、殿下から下される罰を待っていると、判決は楽しげな声と共に言い渡された。
「そうね。それなら大衆の目の前で、お前にかけた魔法を解いてやろうかしら。かつて解雇したはずのメイドが、執事として忍び込んでいたなんて、きっと陛下も驚かれるのよ」
四年前のあの土砂崩れを経て、影武者は王女に、そしてメイドは執事に、成りすまして生きている。
四年前、命の代わりに記憶をなくした王女殿下は、もう一人の生還者であったわたくしに対して、必要以上に懐いてしまった。
聖女様ならば誰か一人に対する執着も許されるのかもしれないが、王女となればそうもいかない。先を憂いた陛下の命によって、わたくしはあるとき暇を出され、城を追われてしまったのだ。
そんなわたくしに、新しい身分と姿を与えてくださったのは、殿下だった。秘密を隠すも明かすも殿下の御心次第。わたくしが意見するべきではないと思い、沈黙でそれを受け入れると、殿下はどこか不安げに尋ねてきた。
「……もっと困った顔をするものではないの。あたくしの執事でいられなくなるのよ」
「そうしましたら、今度は料理人としてお仕えしたく存じます。料理人でなくとも庭師として、庭師でなくとも小間使いとして」
殿下の問いに対し、はっきりと宣言する。
秘密が露呈し、またこの場所を追われようとも、一向に構わなかった。
そのときは、またあらゆる手段を使い、必ずこの小さな殿下の隣に舞い戻ってこよう。
わたくしの風属性魔法を使えば、声や匂いは変えられる。殿下の光属性魔法がなくとも、闇医者を頼れば顔を変えることも可能なはずだ。
わたくしはあの日、国のために一人の少女の人生を塗り潰した。わたくし自身の人生も捧げなければ、それは不公平というものだろう。
「わたくしは如何様にもなりましょう。男にも、女にも、メイドにも、執事にも。他ならぬ御身のためならば」
御身と、ネロトリアのために。先祖代々、使用人として王家に支えてきたわたくしにできる、最大の献身を。
この国家の礎となること、それこそがわたくしにとって最上の喜びであるべきなのだから。
「そう。殊勝な心がけね。顔を上げなさい」
ひとまず気に入っていただけたようだ。許しを得て顔を上げ、ついでの提案を一つ。
「お望みであれば、先ほどの彼に姿を変えていただくというのはいかがでしょうか。声はわたくしが完璧に似せましょう。彼に望むこと、わたくしができる限り叶えてご覧に入れます」
「もういいわ。黙りなさい」
しかしこちらはお気に召さなかったようだ。言われた通りに押し黙ると、殿下はあどけない声に厳格な言葉を載せて、ぴしゃりとわたくしの頰を打った。
「確かにあたくしとお前の魔法があれば、何にだってなれるわ。でもあの偽物と違って、あたくしはいつだって本物。偽物風情で満足するはずがないのよ」
本物、偽物。聖女様と言葉を交わした殿下は、そのことにこだわっているようだ。
物や人の真贋を定めるのは、一体誰なのだろう。王族、あるいは天上に座す神だろうか。
見る者によって、真偽は容易に覆る。だが、物事に表と裏があることを知らない限り、疑いの眼差しが降り注ぐことはない。
わたくしは、生涯をかけて守り続けよう。殿下に疑いの一欠片すらも向けられることがないように、この方のおそばで、いつまでも。
そのような決意を密かに込めて、殿下の言葉に力強く頷いてみせる。
「わたくしにとっては御身こそが本物。御身が偽物と断ずる者がいるとすれば、それはこの世界こそが嘘にございます」
宝石として磨けば、路傍の石も輝きを放つ。それを証明してみせた殿下がいる限り、わたくしにとっての本物はこの方であり続けるのだ。
殿下は既にこの話題に興味をなくしたようで、つまらなそうに注文を口にする。
「紅茶をいただきたいわ。宇佐神礼央の部屋にあったような安物を出したら、窓から放り出すわよ」
自他を駒として扱い、ある意味では物語らしい高慢な王族でありながら、時折見せる表情はどこか幼い。
だが、じきに彼女は成長し、本物の王族として洗練されていくのだろう。隙をなくし、人間らしさを排し、「綺麗な人形」になっていく。
これでいいのだ。ネロトリアのために、この国が後世へと続いていくためには、王女が必要だ。たとえ中身が偽物とすり替わっていようとも。
わたくしは駒。変幻自在の便利な駒。姿形、声を変え、彼女が全てを欺き切るその日まで、彼女と共にあろう。
「仰せのままに」
そう返すと、殿下は満足そうな笑みを浮かべてみせる。
そこに、あのとき目にした無邪気な笑みは、見る影もなかった。




