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141話「記憶と縁」


 布団を畳んで、朝ごはんを食べる。

 シオンさんの家で迎えた日本らしい朝は、しかし俺にとっては馴染みのないものだった。


 キオクイに弄ばれ、忘れたくない記憶を食べられた人も、忘れたい記憶を食べてもらえなかった人も、昨晩は等しくシオンさんの家へと招かれた。ゆっくり眠れたかどうかはさておき、ひとまず屋根のある場所で休めたのはありがたい。


 シオンさんの家は日本家屋に近い形をしており、父方の祖母の家がこれに近かったような気もしたが、鮮明に思い出すことはできなかった。


 これに関しては記憶を食われたのではなく、そこまで頻繁に足を運ぶ機会がなかったのだ。


 父は元々、昔気質で保守的な祖母とは折り合いが悪かったようで、俺たちと祖母を会わせたがらなかった。


 祖父が生きている頃は何度か家族で訪れたこともあったそうだが、亡くなってからは専ら父一人で祖母の家を訪ね、疲れ果てた様子で帰ってくるのが恒例だったため、日本らしい日本の光景を前にしても、思っていたような懐かしさが湧き上がることはなかった。


 むしろ、昨晩のこともあって、少し気まずさを覚えたほどである。


 記憶を食われた人も、そうでない人も、自らの記憶を幻影として目の当たりにし、それぞれの形で心を揺らしたことに変わりはない。


 一晩明けた今朝、いつも通りの人もいれば、明らかに疲れた顔の人もいた。


 イツキさんはというと──意外なことに、前者だった。いや、意外でもないのかもしれない。食われた記憶が最も多いのは彼でも、食われた記憶が多すぎて、痛みごと持っていかれた可能性もある。何ともなかったのだと判断するには、あまりに失ったものが大きすぎたのだ。


 イツキさんの作った朝食を食べ終えると、周囲が途端に慌ただしくなり、各々が出発に向けた支度を始めた。


 シノノメはシオンさんへの挨拶が中心となるため、他国よりはゆっくり過ごせるかと思ったのだが、キオクイのせいで他の国よりもバタついているように思えてならない。


 手持ち無沙汰なのは、公務らしい公務がなく、長い廊下をぶらつく俺くらいのものである。


 ゆっくり過ごせていることに変わりはないが、こうも周りが忙しそうにしていると、何となく休んでいるのも気が引けるため、特にあてもないままに歩いていると、廊下の角でイツキさんと出会した。


 荷運びならばまだしも、荷支度の時点では仕事がなく、朝食の後片付けも済ませてしまったとなれば、彼もまた手持ち無沙汰なのだろう。そのまま通り過ぎるでもなく、何気ない疑問を投げかけてきた。


「人探してんのか?」

「いえ、暇つぶしに探検してました。広いお屋敷ですね」

「あんたが住んでるところよか狭いだろ」


 やや呆れながら言われてしまったものの、否定のしようがないために困ってしまう。


 俺の家より広いことは確かなのだが、城と比べてさらに広大な建物となると、探すのには苦労しそうである。


 出会ったばかりの頃より少し気安いやり取りを経て、イツキさんは淡々とした様子で昨晩の出来事に触れた。


「昨日は悪かったな。忠告しておいてあのザマだ」

「あれは……仕方ないですよ。イツキさんの忠告のおかげで、記憶を食べられずに済んだ人もいたと思います」

「そうならいいんだがな」


 あれだけの人数をキオクイの食事として差し出した手前、イツキさんはそこまで楽観的に捉えてはいないようだが、一番の被害者が彼である以上、責める人はいないだろう。


 とはいえ、これに関してイツキさんの意見を変えるのは難しそうだ。押し問答に時間を費やすわけにもいかず、やや強引に話題を変えた。


「朝ご飯、ありがとうございました。あの人数分を作るの、大変じゃなかったですか?」

「塔でもそれなりの人数作ってたろ。変わらねぇよ」


 何でもないことのように言われて思い返してみれば、確かに塔に籠城していた頃はたびたびイツキさんに腕を奮ってもらっていた。機会があれば、アリーとイツキさんの料理対決を見てみたいと思ったのを覚えている。


 イツキさんが料理上手ということに、最初は少し驚かされたものだが、今となってはその理由にも察しがつく。


 触れていいものか悩んでいると、それを見越したらしいイツキさんが、先んじて昔の思い出を振り返ってくれた。


「おれの記憶を見たんだろ。人の村にいた頃、ときどき女衆と一緒に作ってたんだぜ。祭事のときなんかは、村人全員分を一気に作るからな」


 イツキさんの表情は思いのほか明るく、シオンさんが言っていたように、村で過ごした時期について話したくないというわけでもないようだ。


 そのことに安堵しながら、イツキさんから投げられたボールを投げ返す。


「男手は重宝されますね」

「元々はつまみ食いに入ってたんだがな。その度に叩き出してたんじゃ、食い逃げみたいで腹立つから、手伝えって言われたのが最初だ」

「村の人たち、イツキさんが鬼だって知ってたんですよね? 容赦ないなぁ……うちの姉たちみたいです」

「あそこの女衆に張り合えるとなると、相当だな」


 覚えのある人使いの荒さに、思わず姉たちの前では決して出せない感想を口にすると、困ったような笑みと共に、そんな評価が返ってくる。


 どうやら、イツキさんも女性陣にはこき使われていた立場らしい。暴君のような姉を持つ弟として、いつかお互いの愚痴を語り合うこともできるだろうか。そんなことを思うくらい、村人たちとの思い出を語るイツキさんの表情は優しかった。


「ただ、何にしても自分で作れるに越したことはねぇだろ。そのうち祭事じゃなくても、普段から二人分の飯を……」


 楽しげに話していたイツキさんの言葉が、そこでふと止まる。キオクイに食べられた彼の記憶の片鱗──食べかすといってもいいような、ほんの些細な手がかりが、彼の喉奥を小さく刺したのだ。


 一瞬前までの談笑が嘘のように、俺たちの間に気まずい沈黙が落ちる。やがて、イツキさんが呆然とした様子で口を開いた。


「……昔、誰かと一緒に住んでた気がするんだ。鬼が人の村に住むことに反対したやつもいた。でもおれは、最初から人と一緒に暮らしたかったわけじゃねぇ。気付いたら普通に馴染んでた。誰かの手引きもなしにってのは、考えられねぇよな」


 静かに、淡々と、穴の空いた記憶を頼りに推理を組み立てたイツキさんは、前髪で隠れていない右目でこちらを見つめた。


「『誰か』、いたのか?」


 何と、答えたものだろう。


 イツキさんが忘れてしまった「誰か」は、彼にとって家族ともいえる、あの老人だ。今のイツキさんは、喪失の痛みごと家族の記憶を失っている。


 失ったことすら忘れてしまうというのは、恐ろしい、と思う。だが、ここで俺があの老人の存在を伝えたところで、それは所詮後付けの記憶でしかない。


 何と言ったものか、答えが出ないまま黙りこくっていると、背後から別の足音が聞こえてきた。


「イツキ」


 シオンさんである。俺たちの話は聞こえていなかったのか、それとも単に興味がないのか、気まずい空気には触れず、屋敷の入り口を指差した。


「支度が済んだようじゃ。見送りを頼めるか」

「あんたが行けばいいだろ。何だっておれが……」

「シオ〜ン! ねぇ、あの子たちが来てるってほんとうなの? 会いたいわぁ、宴のときは緑の子とお話するのに忙しくて、あんまり話せなかったの!」


 怪訝そうなイツキさんの言葉を遮る声を聞き、一瞬で理解した。頭より先に本能が、具体的には警鐘を鳴らす部分が。


 思わず後ずさった踵に、何かがぶつかる。振り返ると、そこにいたのはイーザックさんだった。心なしかいつもより、顔色が悪いような。


「……イーザックさん」

「行きましょうか」

「ホノカさんに何され」

「行きましょうか」


 営業スマイルを貼り付けたまま何も答えてくれないイーザックさんと、風呂敷包を提げたイツキさん、遅れて合流したアンネさんと共に、シオンさんの屋敷を後にする。


 イーザックさんは途中で荷運びを手伝うからと先に行ってしまい、俺の分の荷物を持ってくれているアンネさんと、手ぶらの俺、ホノカさんが来たとあって落ち着かない様子のイツキさんで、横一列に連れ立って歩くことになった。


 この顔ぶれとなると、話題は必然的に昨晩の出来事に落ち着く。


「お前らは、食われずに済んだのか?」

 恐る恐るといった様子のイツキさんに尋ねられ、アンネさんが頷いた。

「ええ。礼央様のおかげで」

「わたしも大丈夫でした。イツキさんの忠告を思い出せたので」

「そうか」


 答えると、少し安堵したような声が返ってくる。

 実際のところは家にあった椅子や扉の類は思い出せないものの、家族や友達の記憶は手を付けられていない。相対的に見れば、ゼロとして差し支えのない被害だろう。


 無言で、十歩ほど歩いた頃だろうか。イツキさんは先ほどより少し重たい口調で、自分のいた村について話してくれた。


「おれがいた村は、人間の生き残りが暮らしてたんだ。おれたちがいた村とは別に、もう一つ村があった。そことは昔から、何かっていうとやり合ってたらしい。シノノメは人が住むには不向きな土地だからな。限られた土地と食べ物を奪い合って争って、結局まとめて滅んだ」


 ありふれた御伽噺のように語られたのは、あまりにもやりきれない結末。生き残りという言葉からして、当時のシノノメも人間が生きられる環境ではなかったのだろう。


 希少種同士、手を取り合って助け合うことができれば、それが理想かもしれない。だが、資源が限られている以上、味方を増やすより敵を減らす方がより長く生き延びられると考えるのも自然なことだ。


 イツキさんのいた村はどちらかといえば前者の考えに近かったようだが、もう一方の村はそうではなかったらしい。両者の違いは状況を長期的に見るか、短期的に見るかという点だが、差し迫った危機を前に、未来を考えられる者がどれだけいるだろう。


 誰が何をしても、シノノメの環境が人に牙を剥き続ける限り、村同士の衝突とそれによる滅びは避けられなかった。導き出された救いようのない結論を持て余していると、アンネさんが続けて問う。


「イツキさんは、どこまで覚えていらっしゃるのですか?」


 あまりにも率直な物言いを咎めるべきかと思ったが、イツキさんの何とも思っていない様子を見て、何も言わずに返答を待つ。


 少し考えたのち、イツキさんは一つ一つ残った記憶を挙げていった。


「人の村で暮らしてたこと、別の村が攻め込んできたこと、餓鬼どもと逃げて……俺一人でババアのところに辿り着いたことは覚えてる」

「一人?」


 つい口にしてから、失言を自覚する。考えればすぐに分かることだ。村からシオンさんのいる屋敷まで、どれだけの距離があったのかは分からないが、子どもが何の備えもせずに徒歩で進める距離など、高が知れている。


 慌てて口に手を当てた俺に対し、イツキさんはさして気を悪くした様子もなく、やはり淡白に答えてくれた。


「冬だったからな。一か八か、魔女に助けを求めて、全部が解決することに賭けるしかなかった。村からババアのいるところまでどれだけ歩いたのか、おれにも分からねぇが、人間の餓鬼が歩き切れる距離じゃなかったのは確かだ」


 そこまで言って、イツキさんは何かを思い出そうとするかのように、視線を空へ。爽やかで透き通る、彼の目の色に似た空だ。


「なのに、何で餓鬼どもも連れて逃げたんだろうな」


 本当に心当たりがない様子のイツキさんを前にして、脳裏に蘇るのはあの老人の言葉。


 餓鬼どもを連れて逃げろと、人より丈夫であろうイツキさんに、彼は戦いではなく子どもたちの未来を託した。


 イツキさんはそのことを悔いているようにも見えたものの、果たしてあのとき違った選択をしていれば、この結果は覆ったのだろうか。


 俺が何も言えずにいると、アンネさんが代わりとして質問を続けた。


「シオン様は、求めに応じてくださったのですか?」

「『一緒に来てくれ』って願いにはな。あのときは訳も分からず叫んでたんだ。助けてくれだの、一緒に来てくれだの」


 散らばった願いのうち、最も近いところに落ちてきたものを拾い上げるあたりは、シオンさんらしい。


 明らかにボロボロだったであろうイツキさんを前に、「助けて」ではなく「一緒に来て」という願いを叶えるあたり、今はかなり丸くなった方なのかもしれなかった。


 もし当時のシオンさんのままだったとしたら、聖女集会でアンネさんに手を貸してくれることもなかっただろう。


「ババアを連れて、餓鬼どもの亡骸を一人一人確かめながら、村まで帰った。その後はお前らも見た通りだ」


 馬車の近くまでたどり着く頃、イツキさんはそこまでで話を締め括り、持っていた風呂敷包みをこちらへ差し出した。


「長旅になるんだろ。持っていけよ」


 アンネさんがそれを受け取り、中身を検めると、そこにあったのは俺にとっても馴染みのある食べ物だった。


「あ、おにぎり! いいんですか?」

「詫びも兼ねてるからな。ひとまず全員分と、少し余るくらいは作ってある。食ったら減るから安心しろよ」

「シノノメには食べても減らない食物があるのですか?」

「お前が生み出してただろうが」

「やっぱりフィリップさんの作るおにぎり減りませんよね?」


 初耳だと言わんばかりのアンネさんに、イツキさんの鋭いツッコミが炸裂する。アンネさんはどこか不本意な様子だが、おかげで少し空気が和んだ。


 このまま馬車に乗り込み、ネロトリアへ戻るのが自然な流れだということは、分かっている。分かっているのだが、燻った疑問が足を止め、とうとう遠慮がちな前置きを携えて口を開いた。


「あの、言いたくなかったら言わなくていいんですけど、どうしても気になることがあって」

「何だ?」

「シオンさんが、『魔女との契り』がどうとかって言ってて……それって、シオンさんに助けを求めに行ったことと関係してるんですか?」

「ああ……まぁ、そうだな」


 どこか言いにくそうな様子のイツキさんを見て、やはり聞くべきではなかったかという考えが頭をもたげたが、取り消すよりも先にイツキさんが答えをくれた。


「魔女が何の代価もなしにおれを助けるなんてこと、あるわけねぇだろ。おれもそう思ったから、自分がやれるものを片っ端から叫んだんだ。美味い飯が作れるとか、かけっこなら負けねぇとかな。ババアがそのうちの一つを拾って、それが契りになったって訳だ」

「……その代価って、もしかして──」


 シオンさんの右目のことを思い起こしながら尋ねようとした瞬間、吹き上がった風がイツキさんの左目を覆う髪を取り払った。


 てっきりそこにはシオンさんの白い目が収まっていると思っていたのだが、そこにあるのは包む中身を失って不自然に歪んだ瞼のみであり、収まるべき眼球は見る影もない。


「っと、悪い」


 気にしているというより、他者に見せるべきではないと思っているのか、イツキさんは慌てて髪で左目を隠してしまった。


 シオンさんの右目には、イツキさんの目が収まっている。だが、イツキさんの眼球は失われている以上、目の交換ではなく、スペアとしてイツキさんの眼球を抉ったという方が正しいらしい。


「……シオンさんの右目って」

「ああ、何でも昔、暴れてた頃に持っていかれたらしい。おれの提示した代価は、ちょうどよかったんだろうな」

「目玉一つが、村まで連れてくる代価だっていうんですか?」

「一つじゃねぇ。全部だ」


 当然のように飛び出した答えに、思わず唖然としてしまった。


 人間ならば二つで済むが、百目鬼であるイツキさんの目となると、それよりもっとずっと多いはず。


 どれだけ距離があったのかは定かでないものの、イツキさんの口ぶりからして、連れて来たところで手を貸してもらえる保証はない。仮に村人たちがその時点で無事だったとしても、シオンさんはイツキさんの目を全て奪い、そのまま来た道を引き返してしまうかもしれなかったのだ。


 それでも、イツキさんはそれを了承したというのだろうか。


「……連れてくるってだけで……全部の目を?」

「魔女がいれば、向こうは引くかもしれねぇ。それで村の奴らが助かるっていうなら、代価としては妥当だろ。手を借りられるかもしれねぇって期待もあったんだろうな」


 信じられない思いで尋ねると、イツキさんはどこか他人事のようにそう説明した。時間が経ちすぎているせいか、そうでなければ最も助けたかったであろう家族の記憶を失ったことで、深刻さが薄れたせいか。


「目玉だけ集めたって何の得にもならねぇし、おれも何でそれを代価にしたのか分からねぇ。確かなのは、ババアがそれを聞き届けたことだけだ」


 シオンさんがそれを受け入れた理由は分からない。提案したイツキさんも、本気というより、自棄になっていたのだろう。


 だが、料理を作れること、早く走れること、それらを代価として出せるまでに誇れたのは、誰かがそれを評価してくれたからではないのだろうか。だからこそ客観的に価値を見定めることができた。


 それなら、誰かがイツキさんの目を褒めたこともあったのではないのだろうか。そのようなことはなかったのかもしれないが、もしあったなら、忘れているだけで。


「村の奴らを全員埋めた辺りで、きっちり取り立てに来たんだが、一度に全部の目を取っても持て余すって言われてな。残りの目を取られるまで、ババアのところで暮らすことになった。そこからはどういうわけか知らねぇが、表向きは孫って紹介されてる」


 それは、彼の家族が「じいちゃん」だったからではないのだろうか。


 分からない。辛い記憶を忘れた方が生きやすいのは、そうだろう。悲しみを切り離せるくらい割り切れていないだけで、本当に楽なのはそちら側なのだ。


 時間が解決する、それもまた悲しみをすり減らし、忘却によって解決するやり方だ。キオクイに食わせるのと、本質的にはそう変わりがない。それなのに、どうしてここまで虚しいのだろう。


 アンネさんが言うように、奪われることと、自分で区切りをつけて見送ることの違いだろうか。だが、単に奪われたとするには、あまりにも穏やかで優しいやり方で、イツキさん自身の未練ごと掻っ攫っている。


 だからこそ、やりきれないのかもしれない。どうすれば正しかったのか。そう自問している時点で、満足するような結果でなかったことは明らかなのだ。


「あんたが気にすることじゃねぇよ。それもこれも、何かの縁だろ」


 深刻な顔をしていたのだろう。イツキさんが、妙な励ましの言葉をかけてくれた。この手の話で「これも何かの縁」という言い回しは、少し珍しい気がする。


「縁、ですか」

「ああ。おれが人の姿をしてるのも、あの村で暮らしたのも、ババアのところにいるのも、誰が決めたわけでもない。縁があったってだけだ」


 イツキさんはそこで言葉を切り、静かに目を伏せた。


「だから食われた記憶も、縁があればいつか取り戻せる。そう思えばいいんだよ」


 その表情は穏やかで、しかしどこか決意しているようにも見えた。取り戻すべきものすら忘れても、それが手元に戻る「いつか」を待ち続ける決意。


 ああ、そうだった。若く見えても、彼は俺たちよりずっと長い時間を生きている。悲しみを切り離さずにやり過ごす方法も、きちんと心得ているのだ。


 俺の、イツキさんに記憶を取り戻してほしいという願いが叶うべきなら、いずれ結ばれた縁が証明するだろう。そうでないのだとしても、イツキさんはイツキさんのまま、その先も生きていくだけなのだ。


 その言葉に短く同意を示すと、イツキさんは目を開き、何事もなかったかのように俺たちを送り出した。


「帰りも気を付けろよ。おれの記憶を食って力をつけてる。しばらくは満足して大人しくしてるだろうが、今度はあの程度で済むか分からねぇからな」

「分かりました。ありがとうございます」

「では、またいずれ集会で」


 そこからは二、三言の挨拶を交わし、馬車へと乗り込んだ。


 心なしかイーザックさんの手際が普段よりもよかった気がする上に、乗り込んだ瞬間、本当に安堵した様子でため息までついていた。


 どうやらホノカさんから相当なセクハラを受けたらしい。気の毒なことである。


 一体何をされたのかと気になる気持ちもないではなかったが、これに関して本人に問いただすのは忍びなく、見なかったふりをして別の話題へ。


「そうだ、いろいろあって忘れたんですけど、相談したいことがあったんですよ」


 言いつつ、膝の上に抱えた卵用の鞄に目を落とす。今でこそ大人しくしているものの、キオクイの幻と遭遇したあのとき、この卵は確かに熱を放っていたのだ。


「霧の中にいたとき、卵がいきなり熱くなったんです。もしかするとネロトリアに戻る前に卵が孵るかもしれなくて」

「なるほど、旅の途中で孵ったら、確かに少し厄介ですね〜」

「今は何ともないのですか?」

「さっき確認した限りでは、まだヒビも入ってませんでした。ほら、綺麗につるっと……え」


 説明しながら鞄の蓋を開けると、傷ひとつなかったはずの卵に、大きなヒビが入っている。


 できるだけ慎重に扱ったつもりだというのに、ふとしたときの不注意で割ってしまったのだろうか。


 分かりやすく血の気が引いていくのを感じながら、見間違いかと目を擦ったそのとき、ヒビがさらに広がり、隙間から生き物の口が突き出した。


 元いた世界でいうところの、コモドドラゴンが似た口をしていた気がする。爬虫類だから当然といえば当然なのだが、やはり作りは似ているのか──などと、悠長に考えている場合ではない。


「えっ、えっ、あ、タオル! 拭くもの!」

「聖女様立たないでください! フィル、パルマさんに連絡!」

「その前に馬車を止めるべきだろう」

「確かに……あっつ! うわっ、こいつ卵の中で火吹いてる! えっと、魔法攻撃遮断!」

「跳ね返して僕たちごと焼けます! 今度は人間の丸焼き作る気ですか!」

「もう少し言葉選んでくださいよ!」

「黒焼きの方が近いと思うが」

「フィルそれ笑えない」

「的確な表現じゃなくて適切な表現を選べって言ってんですけど!」


 状況を把握するなり、騒がしくなる車内。シノノメからネロトリアへ続く道のりはあまりに長く、予定外の子ドラゴンを連れてとなると、さらに険しい。


 だが、こちらの事情など知ったことではない卵は、突破口を見つけた中身によって情けなく破られ続けていた。


 腕の中で、一人でに卵が割れていく奇妙な感覚を味わいながら、これまでの平穏な旅路を懐かしむ。


 シノノメを行く馬車は、ネロトリアへの長い道のりを走り出したばかりだ。


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