140話「人の子」
奇妙な光景だった。暗闇の中、ぽつんと置かれたランタンが、周囲のごく狭い範囲を照らしているのを見たような。その記憶は俺が見たそれより狭く、しかしアンネさんが見たよりは広く、空間を形作っていた。
俺たちと違っていたのは、記憶の質。
そこは戦場だった。
「…………」
息を呑むと同時に、手を握る力が覚えず強くなっていたことに気付く。ほんの少し緩めると、繋がれたアンネさんの手がそっと握り返すのが分かった。
逃げ惑う人々、あちこちから上がる悲鳴、広がる炎。目の前のそれは紛れもなく戦場だったが、落ち着いて見てみると、どうやら先の亜人戦争のものではないようだ。
これは幻だと自分に言い聞かせながら、そばに倒れている人の服装に目をやると、シノノメらしい和装だった。種族も恐らく人間、シノノメでは絶滅したと聞き及んでいる。
「……何の音でしょうか」
「音?」
「ええ。正体は掴めませんが、少し違和感を覚える音が」
アンネさんに言われて耳をすませてみると、確かに悲鳴や怒号に混じって、妙な音が聞こえていた。何かを落とす音、ボールやコインとは違い、もっと、どさりというような音だ。
戦場で聞くには確かに妙かもしれないが、その正体に辿り着くより先に、他より一際鮮明な声が割り込んできた。
「──逃げろ……逃げろ!」
老人の声だ。他の人の声は何を言っているかまでは聞き取れないものがほとんどだというのに、彼の声ははっきりと聞き取ることができる。
場所がシノノメ、そして恐らく遠い過去であることからして、これはシノノメ出身の長命種、シオンさんかイツキさんの記憶だろう。果たしてそのどちらなのかと辺りを見回すと、不意にアンネさんから声をかけられた。
「礼央様、あちらに」
言われてアンネさんの視線を追うと、喧騒の中で黒い人影と刃を交えるイツキさんの背中が見えた。
小刀を手に誰かを切り付ける彼の姿は、見たことがないほどに凶暴で、言ってしまえば鬼らしい。小刀に触れて消えていく「誰か」は、人というよりもただの影に近かった。
顔も姿もはっきりとしない、ただそこにいたということだけを覚えている存在に、あのイツキさんがここまで憎悪を向けている。今でこそ人間に好意的に見えているイツキさんだが、心の奥底では人への恨みを募らせていたのだろうか。
止めようにも近付くことができず、このままイツキさんが自分の記憶を散らすのを見ていることしかできないのかと思ったそのとき、老人が再び叫ぶ。
「逃げろ──イツキ!」
思わず声のした方を振り返ると、白髪頭の老人が、背中越しに怒鳴る姿が見えた。
「餓鬼ども連れて逃げろ! 助け呼んでこい!」
「いいから行け!」
仮説が、覆る。イツキさんは決して、かつての復讐を見ているのではない。敵の姿がはっきりしないのも、「敵がいた」ということ以外を知らないからなのだろう。
何故なら彼らは逃がされた。イツキさんの記憶の中で、一人だけ妙に鮮明な姿をしている、この老人によって。
「やはり、まだ忘れておらなんだか」
呆気に取られている俺たちの隣に、いつの間にかシオンさんが立っていた。少し前から近くにはいたのだろう。それでもなお、止めもせずにただ見ていた。
「……この記憶、イツキさんにとって大事なものじゃないんですか? 早く止めないと」
「覆らぬことを覚えてどうする? 鬼の寿命は長い。後悔の記憶などさっさと食わせてやればいいではないか。短命の人間ですら、都合の悪いことは忘れ、都合のいい記憶のみを抱いて生きていくのじゃからな」
口調は穏やかながら、どこか吐き捨てるようなシオンさんの言葉を受けて、すかさず反論を挟もうとしたそのとき、沈黙を守っていたアンネさんが口を開いた。
「家族の姿を見ました」
いつも通り、脈絡のない発話。それでもシオンさんは驚くでもなく、ただ無言で続きを促す。
「声は聞こえず、姿のみの記憶でした。きっと、私が家族の声を忘れているからなのでしょう」
「薄情なものじゃな」
「ええ。持て余した感情を別のものにすり替えて誤魔化し続けているうちに、いつしか立ち返る過去も失ったのです」
アンネさんの評価は、残酷なまでに的確だ。彼自身が積極的に忘れようとしたわけではないようだが、どうにも彼は温かい思い出に浸ることさえ禁じていた節がある。
そのせいか、アンネさんの記憶は彼が思うよりずっとすり減り、川縁の小石のように小さくなっていたのだ。
「イツキさんのこの記憶は、私が見た家族の記憶よりもさらに前のことでしょう。にもかかわらず、彼は私よりずっと多くのことを覚えています。姿も、声も、風景も全て」
「忘れたくないのではなく、忘れられぬだけかもしれぬぞ」
シオンさんが意地の悪い指摘を返す。そういう、悪い意味で忘れることのできない記憶というものは、誰しもあるだろう。
人にとって程度の差はあれど、思い出したくない、しかし忘れられもしない、時折現れては持ち主を苦しめる記憶が。
ざわつく心を抑え込んでいる間に、アンネさんは冷静にシオンさんの言葉に答えていた。
「その可能性もございます。しかし、時が解決するという言葉もあるでしょう。五年は忘れられずとも、十年、二十年、さらに時間が経ち、なおここまで鮮明に記憶しているのだとすれば、それは忘れられないからという理由だけではないと、そう思うのです」
そこまで言うと、アンネさんはそっと俺の手を離し、腰から下げている剣を取り外した。鞘から剣が抜けないようにと、ベルト部分で柄を縛っている。
「様々な感情から引き留めていた記憶や後悔を、自らの手で区切りをつけて見送ることと、他者の手によって、無自覚なまま強引に奪われることは、決定的に違うものでしょう」
そうして、抜けない剣を握りしめたのち、アンネさんは静かにシオンさんへと目をやった。
「止められますか?」
「いいや、威勢のいい若者を止めるのは骨が折れる。何よりお前さんに手を出せば、そこな小娘に何をされるか、分かったものではないからのう」
俺を何だと思っているのだろう。せいぜい無力化のため、シオンさんを幼児化させるくらいだというのに。
心の中で文句を垂れていると、アンネさんは少し困ったような笑みをこちらに向けて、あまり効果のないフォローを投げた。
「今よりもさらにお若くなられる程度かと」
目を丸くするシオンさんを残し、アンネさんはイツキさんのいる方へと足を進めた。普段ならばいざ知らず、混乱している今のイツキさんなら、止めることは容易いだろう。
イツキさんは小刀を振り回しながら、訳も分からず行き場のない問いを放り投げていた。
何でおれだけ逃すんだ。
おれだって戦える。
皆を守れる。
口調はどこか今より幼く、それ故に痛々しい。彼の置かれた状況から目を逸らしつつ、背景にある事情を探ろうと、シオンさんへ問いかけを放った。
「この記憶、鬼の村が襲撃を受けたとかですか?」
「いいや、これは人の村じゃな。シノノメから人が滅ぶほんの少し前、最後の生き残りたちが暮らしておった」
返ってきたのは、意外な答え。イツキさんたちを逃がそうとしていたあたり、てっきり同族の村かと思っていたのだ。
あの老人らは確かにイツキさんと同じく、角も生えていなかったが、それはいわゆる百目鬼が暮らす村だからだと仮定していた。
俺の疑問を察してか、シオンさんは先んじてこう付け加える。
「ある日突然生まれてくる鬼は、親という存在を持たぬ。故に自らを育てた者の姿を真似るのじゃ。イツキにとってはそれが人じゃった。鬼の多くは妖怪の姿を真似るものだというのに、吾も始め、あれが鬼だとは分からなんだ」
なるほど、だからイツキさんは人に似た姿をしているらしい。他の鬼を見たことはないが、仮に角のない百目鬼だとしても、イツキさんのような姿をしているものは稀なのだろう。イツキさんが妙に人間臭い理由も、そう言われれば納得がいった。
あちこちから断片的に聞こえてくる声は、恐らく育ての親である人間との記憶なのだろう。
「まだ食うのか。鬼ってのはまた随分と大飯食らいじゃねぇか」
「食え食え、ジジイが持て余してたって何もならねぇ」
「たんと食ってでかくなれよ。そんで今度はお前が働いて、餓鬼どもに飯を食わせてやるってのが筋だ」
アンネさんは両親の声をほとんど思い出せておらず、俺が聞いたあの声も、実際のものとは少し違っているのかもしれない。
長命種は忘れっぽいものだと思っていたのだが、イツキさんは何十年、下手をすると何百年も、この記憶を大切にし続けていたのだろう。
「鬼に食事はいらぬはずじゃが、律儀に与えておったのか。道理で今も食事を作ろうとするはずじゃ」
シオンさんが、どこか気に食わない様子で呟く。五色の塔で振舞ってくれたイツキさんの料理は、どれも美味しかった。あれはシオンさんではなく、育ての親であるあの老人から教わったものだったのだろうか。
「おら、さっさと寝るぞ。布団敷け。ったくお前は、そんなんだから朝になって俺に叩き起こされる羽目になるんだろうが」
「お前は大飯食らいの癖に、ちっともでかくならねぇなぁ。こんなんじゃあ、しばらく俺の湯たんぽがいいとこか。せっかく用意した布団を持て余していけねぇ」
「いつまで寝てんだねぼすけ! お天道様が登っちまうぞ! 寝る子は育つ? 一丁前な口ききやがって、それで育つんならお前は今頃、村一番の大男だろうがっ!」
聞こえてくる声は、まるで幼い我が子と接する親のもの。鬼と知りながら、老人はイツキさんに目一杯の愛情を注いできたのだろう。
「睡眠も不要だというのに、布団を欲しがるわけじゃ」
そしてイツキさんも、彼から教わった習慣を、今なお続けている。
どうやら人が好きではないらしいシオンさんからすれば、それは理解し難い考えのようだが、老人と過ごした日々が大切だったからこそ、イツキさんは必要のない睡眠をとり続けてきたのだろう。
「何だお前、こんだけ目があるってのに、いっぺんに開けるのは五つがせいぜいだってのか? 鬼ってのも案外、不自由なもんだなぁ」
「全部開けるってんなら迫力もあろうが、百目の鬼、実際は五目の鬼か。何ぞ飯みたいになっちまって、気迫がねぇったら」
「そんなら、お前の名前は『イツキ』だな。五つ目の鬼で、イツキだ」
これは出会って間もない頃の記憶だろう。名付けというものは、多少なり愛着や愛情のあるもの、あるいはそれらを持ちたい対象に向けて行う行為だ。
老人の声からして、単に識別のための命名でなかったことは明らかである。
シオンさんがこれに辛口なコメントを残していないことが気になり、何となしに目をやると、シオンさんは少し難しい顔で考え込んでいた。シノノメにおいて、名付けというのは何か意味のある行為なのだろうか。それも、シオンさんにとって、何か都合の悪い事情でもありそうな態度である。
直接それについて尋ねたところで、きっと答えてはくれないだろう。そこで、別の疑問から仕掛けてみることにした。
「一応なんですけど、聞いていいですか?」
「構わぬよ」
「あのキオクイって妖怪をけしかけたの、シオンさんじゃないんですよね?」
「吾がイツキの記憶を消したがっているとでも言いたげじゃな」
「少なくとも、消させたくないわけじゃなさそうだなと思って」
下手に隠すより、直接尋ねてしまったほうがいいだろうと、言葉を選ばず率直に疑問をぶつける。するとシオンさんは驚くでもなく面白そうに笑みを浮かべ、俺の問いに答えてくれた。
「お前さんがどう受け止めるかは分からぬが、何も自らけしかけたわけではないぞ。あわよくば、という程度じゃな。上手くいけば、イツキの後悔を消せるかもしれぬ。そう考え、力を増すキオクイを野放しにしたに過ぎぬよ」
どうやら、痛みを取り除くための手術のような感覚らしい。異世界というだけあって、インフォームドコンセントも何もない荒療治だ。
「そういうのは普通、本人がどうしたいか確認してからだと思うんですけど」
「人間と暮らしていた頃について、イツキは触れられたくないようじゃったからのう。思い出したくもないものかと、そう考えるのも無理はないじゃろう」
イツキさんのことを考えているようでいて、身勝手な言い分だった。祖母と孫という関係で表すには、シオンさんとイツキさんのそれは多少の違和感を覚えてしまう。
「つまりは、思い込みの範疇ですよね。本人の意思を確かめた訳じゃない」
「何をそうこだわることがあるのか分からぬが」
「身内でも何でも、自他の境界線が曖昧なままでいるのはよくないって話です。自分とは違う考えを持った相手なんですから、こういうことは慎重にならないと」
「初耳じゃな。長生きはするものじゃ」
シオンさんは涼しい顔で、心にもないことを言ってのける。自他の境界線が曖昧というより、所有物扱いに近いのだ。
可愛がっていることは確かなあたり、ペットに対する態度に似ているのかもしれない。
「シオンさん、いつもそんな感じなんですか? いつまでもそうしてると、イツキさんが嫌になって出て行っちゃいますよ」
「有り得ぬな」
微妙にずれた関係性に、気持ちの悪さを感じながら言うと、シオンさんは俺の言葉を容易く一蹴した。根拠のない慢心かと思いながらシオンさんを見やると、そこにあるのは、不敵な魔女の笑み。
「あれも、魔女との契りをそこまで甘く見ているわけではあるまい」
魔女との契り、という聞き覚えのない言葉について尋ねようとしたそのとき、吹き上がった風によって、シオンさんの前髪がほんの一瞬、普段は隠れている片目から取り払われた。
前髪に隠れている目に収まっていたのは、シオンさんの白い目とはまた違う、イツキさんのそれによく似た空色の瞳。それはまるで、「取り替えた」かのような。
それを目の当たりにした途端、投げかけるべき問いは喉の奥へ逃げ帰ってしまい、代わりの問いを投げて寄越した。
「……シオンさんは、何か見たんですか? 懐かしいものとか、取り戻したいものとか」
彼女にも、そうした人間味を求めていたのかもしれない。だが、シオンさんの答えはごく淡白なものだった。
「さぁ、忘れてしまったな」
本当に忘れてしまったのか、それともはぐらかされているだけなのか。俺には分からない。
何にせよ、これ以上聞き出せることはないだろうと思い、アンネさんたちのいる方へ目をやると、ちょうど勝負が決するところだった。決するというより、終わらせたという方が近い。
瞬き一つする間に、アンネさんがイツキさんの背後に回り込んで首筋に手刀を浴びせ、効きが悪いと見るや腹に膝を叩き込んで気絶させていた。
あまりにも容赦がないやり方である。剣を鞘に納め、傷つける意思がないことを示していたあの行為は何だったのかと問い詰めたくなる程度には、情け容赦がない。
ことが済んだアンネさんは、気絶したイツキさんを担いで連れてきて──というより、持ってきて──俺たちのそばに横たわらせたのち、何事もなく戻ってくる。仕留めた獲物を飼い主の枕元に運んでくる猫のようだ。
少なくともイツキさんの方は、もう少しアンネさんを丁重に扱っているように見えるというのに、アンネさんとイツキさんの間に感じるこの温度差は一体何なのだろう。
絶句している俺に対し、アンネさんはあくまでいつも通りの態度で任務遂行の報告を行う。
「ひとまず暴走は止めましたので、これ以上記憶を食われる事態は防げるかと」
「ありがとうございます……ただ、もうちょっといいやり方なかったんですか?」
いいやり方というのは、当然ながら穏便なやり方、という意味なのだが、アンネさんは質問の意図が分からないというように怪訝そうな表情を浮かべ、自らの行動について説明をしてみせた。
「対話を試みましたが、説得による解決は困難と判断しましたので、これ以上記憶を失わないよう、迅速に済ませるべきかと」
「それはそうですけど!」
「こういうことは慎重になるべき、じゃったか」
「それもそうですけど!」
当然のことをしたと言いたげなアンネさんと、俺の発言を蒸し返すシオンさん。果たしてどちらから何を言ったものかと頭を悩ませていると、不意に何かに気付いたらしいアンネさんが声を上げた。
「礼央様」
言われて彼の視線を辿ると、イツキさんのそばに、あの老人が腰を下ろしているのが見えた。夢枕に立つ、という言葉が相応しいような立ち位置であり、気を失っているイツキさんを、無言で見守っている。
やがて、村を包む炎は消え、喧騒もなりを潜めた。全て終わった後の記憶なのだろう。走馬灯のように、老人と過ごした日々の記憶がこだまする。
しばらくして、目を覚ましたらしいイツキさんがそっと息を吐き、静かに老人を呼んだ。
「……じいちゃん」
弱々しい声と共に、イツキさんの手のひらが、彼の目元に押しつけられる。
「ごめん、おれ……間に合わなくて」
助けを呼びに行ったイツキさんが村に戻る頃、目にしたのは焼け落ちた故郷。シオンさん曰く、この記憶はシノノメから人間が絶滅する「ほんの少し前」だという。そこから浮かび上がるのは、残酷な真相のみだ。
「……皆、だめだった」
震えを伴って吐き出されたのは、イツキさんがずっと、誰にも伝えられずにいたことだったのだろう。伝えるべき人々も、助けたかった人々も、失った人々も、全て同じだったから。
全てが終わり、喧騒や炎の弾ける音が遠ざかっても、アンネさんが違和感を訴えていたあの音だけは、今も微かに聞こえ続けている。
どさ、どさり。間隔を空けて聞こえる音に混じって、老人の優しい声が降った。
「んなこと、お前が気にすることじゃねぇよ」
穏やかな横顔のまま、静かにそう届けた老人は、そっとイツキさんに手を伸ばした。
「ありがとな、イツキ」
あ、と声を上げる間に、老人の手がイツキさんの額に触れる。刹那、老人の姿が音もなく消え、ぽつぽつと聞こえていた声も、それきり聞こえなくなった。
止まなかったのは、どさり、どさりと聞こえるあの音。大きさを増したことで、ようやくその正体を知ることができた。そして、その音のそばに別の声が潜んでいたことにも気付く。
それは土を掘る音だった。共に聞こえているのは、幼い誰かがしゃくりあげる声。
これはイツキさんが掘っていたのだ。村人たちの亡骸を埋葬するために、誰もいなくなった村でたった一人、泣きながら土を掘っていた。
その音が止む頃、次第に霧が晴れ、シノノメの夜が姿を現す。深紫の夜空を見上げ、シオンさんが何の感慨もなく呟いた。
「キオクイが去ったようじゃ。イツキの記憶を食って満足したか」
霧が晴れても、しばらくは呆然とその場に佇んでいた。遠くに、見知った人たちの姿が見える。やはり、それぞれバラバラの場所に飛ばされていたようだが、霧が晴れてしまえば、そこまで遠く離れているわけでもないのだと知ることができた。
俺たちと同じく、ぼんやりとした様子のノーラさん、突然周囲が姿を変えたことに驚いているらしいモーリッツさん、ひどく取り乱しているハナさん、それを宥めに入るイーザックさん。
それらに現実味を見出せないまま、ただ見ていた。
記憶の中の老人は、言うまでもなくキオクイが作り出した幻だ。それでもあの景色は、老人がイツキさんを解放するために、自らの記憶を掠め取ったようにしか見えなかったのだ。
単なる捕食だと、分かっている。都合よく捉えるのが傲慢だということも、知っている。俺はあの老人のことを何も知らないのだから。
自分のために苦しむくらいなら忘れてくれと願う人もいれば、苦しませてしまうとしても覚えていてほしいと願う人もいる。あの老人がどちらだったのか、イツキさんがどちらを望んでいたのか、今となっては知る由もないのだ。
隣に佇むアンネさんが、ため息をつくようにして呟いた。
「……礼央様のおっしゃっていたことが、少し分かった気がします」
イツキさんのそばへ歩み寄るシオンさんを見つめながら、彼もまたイツキさんの記憶に想いを馳せていたのだろう。
沈黙で続きを促すと、アンネさんはどこか、ほんの少しだけ悲しそうに言葉を紡ぐ。
「あの方も、両親と同じ顔をしておりましたので」
受け取った言葉を咀嚼し、記憶の中で見たものを思い起こす。
食べ物を与え、住む場所を与え、習慣を与え、名前を与え。
種族の差はあれど、彼らは確かに家族だった。




