139話「振れない剣」
本日、11/9はアンネの誕生日です!おめでとう!
乾き始めた涙の跡を念入りに擦って、歩き続けた。温かい卵があったのが幸いしたかもしれない。シノノメはまだ冷える。今の時間は分からないが、夜になればさらに気温は下がるだろう。
霧の範囲は思いのほか広かったが、一度欺けないと分かった獲物を追いかける気はないのか、あれ以上の幻影を見せてくることはなかった。
何せ、数十人の大所帯だ。食える記憶もその分多い。一人逃げても別の人間の記憶を食えばいいだけなのだ。
今もどこかで、誰かが大切な記憶を食われているのかもしれないと思うと、早く目を覚まさせなければという心配が勝つ。
たとえどれだけ強靭な精神を持つ人だとしても、俺と同じくここにきた経緯の記憶ごと抜け落ちているとすれば、状況を正しく把握することは難しいだろう。
俺の場合は見た記憶が明らかにあり得ない異世界の景色だったこと、かつシオンさんから説明を聞いた時点で手のひらに残したメッセージのおかげで早々に状況を理解できたが、他の人もそうとは限らない。
見知った記憶に異世界人という究極の異物である俺が紛れ込むことによって、不自然さに気付いてくれればいいのだが──歩けど歩けど、霧の向こうにあるはずの人影は見えてこない。
単に方向感覚を失って彷徨い歩いているのかとも思ったものの、あの人数が位置を変えずに妖怪の幻影を見せられているとして、姿はおろか声も聞こえないというのは不自然である。あれだけ密集して歩いていれば、多少移動しただけでも誰かにぶつかるはず。
そうなると、幻影によって散らばるように誘導されたか、もしくは転移魔法に近い術でも使われたのかもしれない。シノノメの妖怪がどのような性質を持つものかは分からないものの、何にせよ距離は離されていると思った方がよさそうだ。
とにかく第一村人ならぬ第一知り合いを探さなくてはと、幻影でない人影を探すべく足を進めていくと、やがて見覚えのある赤髪が目についた。
アンネさんだ。棒立ちで何かを見つめる彼の目の前には、家の一角と、一世帯の家族がいた。
赤髪の女性は見覚えがある。アンネさんの叔母さんであり、先代聖女でもあるアリアさんだ。左隣にいる黒い長髪を一つにまとめている男性は、アンネさんの叔父さんだろうか。右隣に座る栗色の髪の幼い少年はお兄さんかもしれない。
そうしてその中心に、サイズの合わない男物の服──恐らくはお兄さんの服だ──を着たアンネさんがいた。兄の真似っこをしたがる弟を、家族で微笑ましく眺めている。そんな光景だった。声がついていないのは、もう思い出せないからなのだろうか。
温かい、もう二度と戻らないひととき。離れ難いのだろうかとアンネさんを見やると、彼の手に抜き身の剣が握られていることに気付いた。驚くあまり、つい名前を呼ぶと、彼の目がこちらに向けられる。幻影かと見紛うほどの、虚ろな目だった。
「……何してるんですか?」
そう問えば、アンネさんは無言で視線を戻し、そうして短く答えた。
「機を窺っています」
「何の……?」
「いずれ、邪魔になるはずなのです。それを待っています」
回答とするにはいくらか言葉が足りなかったが、これまでの彼を知る者であれば、見当をつけるのは容易い。
アンネさんは、幼い自分の命を刈り取ろうとしているのだろう。生まれてくるべきではなかった、存在すべきではなかったと思っている自分自身を、この手で葬り去るために。
家の幻影から出るとき、俺が体当たりをした扉は、幻影もろとも俺の記憶から姿を消した。振り翳した剣は、きっと彼自身の幼い記憶を掠め取るだろう。
もっとも、それはアンネさんが思うようなタイミングが訪れればの話で、俺自身は彼のいう「機」がくるとは、到底思えなかった。
「来るんですか?」
「ええ、きっと」
「絶対じゃないんですね」
「…………」
言葉を詰まらせはするが、驚きはしない。自覚はしているのだろう。俺がアリーに対して抱いていた申し訳なさと、少し近いのかもしれない。
優しい彼らは自分を許すだろう。だが自分は彼らに許されるべきではない。そんなところだろうか。そんなときが来ないこと、来なかったことを、彼自身も分かっている。
それでもなお剣を鞘に収められないのか、アンネさんは未練がましく続けた。
「失えば、嫌でも分かるでしょう。しかし本当は、ずっと前から知っていたはずなのです。正しいことではないと。きっと誰よりも、そのことを理解していたはずの二人でした」
ほんの少しの、違和感。その正体を掴めないまま、アンネさんは追撃を放つ。
「分からないままなのです。なぜ両親は、私を産んだのか」
両親、両親──?
妙に引っかかりを覚える部分だった。初めてウィルバートさんの教会を訪れたときに聞いた話では、アンネさんは両親を亡くした後、叔母さんの家に引き取られている。そこでさらに家族を亡くした後、今度はウィルバートさんに引き取られたはずなのだ。
アリアさんはアンネさんの叔母さん。だとするなら、彼はどうして、今ここで両親への疑問を口にしているのだろう。
「……間違いでできたのなら、産まれてすぐに殺せばよかったはずです。情が湧く前に……堕胎の手段なら、いくらでも。後の災禍となると知っていて、産む必要はなかったはずなのです」
ぽつぽつと呟くアンネさんの背中を見つめながら、考えていた。
ほとんど憶測だ。両親を失った理由も、叔母さんを失った理由も同じだというだけかもしれない。
もしくは両親を失ったのが幼い頃すぎて、叔母夫婦を本当の両親のように思っていた可能性もあるだろう。
だが──今日初めて目にしたアンネさんの叔父さんは、彼とよく似た青い瞳の持ち主なのだ。癖のある髪を顔の横に垂らしているのも同じ。叔父叔母の片方ならばまだしも、両方に似ている点があるなど、考えられるだろうか。
とはいえ、もし目の前にいるのが本当は彼の両親だとしても、今ここで「アリアさんって本当に叔母さんなんですか」と尋ねることは、正しいことではないのだろう。
組み立てた仮説は半ば確信にも近かったが、あえて飲み込み、彼の隣に立つ。
そうして、彼がいつもこねくり回しているような理屈で、疑問への答えを提示した。
「たぶん、何も間違いじゃなかったからですよ。アンネさんが生まれてきたことも、ご両親が生まれてきてほしいと願ったことも」
間違いであってたまるか。内心そう吐き捨てながらも、努めて穏やかな口調に留める。
誰かが生まれてくることを間違いだと断ずる権利など、この世の誰にもありはしない。あってはいけないのだ。
「正しいだとか間違いだとかの前に、そこにはただ、家族が増えることを喜ぶ人たちがいただけなんじゃないですか?」
そう問うと、アンネさんはただタイミングを図るばかりの横顔をこちらに向けたまま、短く尋ね返してくる。
「……何故そう言えるのですか」
「十五年間、親から愛されてきた子どもとしての経験です」
胸を張って断言すると、アンネさんは一瞬驚いたようにこちらを見て、それから苦い後悔を噛み締めたような顔で俯く。
「私は……奪ってばかりですね」
奪ったことに自覚的な点は結構だが、彼はそれが少し過剰なようにも思う。
まるで罪を懺悔する罪人のように、アンネさんは淡々と、自分が奪ってきたというものを並べ始めた。
「母からは命を奪い、兄からは彼自身を奪い、父からは希望を奪いました。……礼央様からも」
「俺に関しては確かにそうですし、いきなり呼び出して帰れませんって扱いには未だに怒ってますけど」
俺の場合も、機を窺っているのだ。もう何もかもどうでもよくなったら、どこかで大爆発させて、大いに困らせてやろう。その機会が訪れるかどうかはともかく、そう思うことで理不尽への怒りを封じ込めている。
「おかげで家族もろとも人生めちゃくちゃですからね。決めたやつの顔面引っ叩いて三階から落としてやりたいですよ。そこは一生ジメジメ引きずってください」
明確に非のない家族のことで悩まれるより、俺としては今ある問題に目を向けてほしいところだ。彼に限らず、俺が払わされた犠牲を綺麗に忘れて幸せになろうなどと思われては、こちらとしても腹立たしい。人の人生を燃料にしておいて、と思うのも正当な怒りだろう。
だが、アンネさんがあまりにも申し訳なさそうな顔をするもので、却って少し困ってしまった。
戻れない日々を見せられたことで多少なり腹が立っていたものの、こちらに来てから何かとお世話になった人にこの顔をされてしまうと、こちらとしても弱いのである。
「……まぁでも、アンネさんからもらったものも多いから、単純にぶつけられないんですけど」
「かけた負担の方が大きい自覚はあります。どこにいても、誰に対しても、そうなのです」
俺のフォローを聞いていなかったのか、アンネさんはさらりと自虐へ変換してしまった。
俺が日本での日々を目の当たりにして、改めて異世界召喚の理不尽さを感じたように、彼もまた家族への罪悪感を呼び起こされているということなのだろうか。
ずいぶん趣味のいい妖怪だと内心で皮肉をこぼしながら、思い通りにしてやるものかと言葉を紡いだ。
「アンネさん、生まれてこなければとか、生まれてすぐに殺せば、とか言いますけど、俺のことは殺さなかったじゃないですか。いちゃいけない存在なのは同じなのに」
「その理屈でいけば、私は私より先に母を殺すべきということになりますので」
「しないんですか?」
さすがにこの発言には驚かされたのか、アンネさんは信じられないものを見るような目でこちらを見る。視線が逸らされないことを確認してから、さらに追い打ちをかけた。
「お母さんだけじゃなくても、ご両親に対して。殺しはしなくても、それこそ『誰のせいだよ』って思いそうなものですよね」
「…………」
「アンネさんは生まれてくるかどうかを決められません。親が決めたんですよ。正しい聖女像を求められてることも、そこから外れたら殺されかねないことも知った上で、子どもを作った」
ずっとおかしいと思っていた。聖女が理想から外れた瞬間に殺されることも、アンネさんがそれを悔いていることも。
もちろんそれはアンネさんの家族を殺した過激派連中が悪いのだが、いくらそれを説明したところで、アンネさんは自分にも非があったからと聞き入れようとしない。
百歩、いや千歩譲って、仮にアンネさんが生まれてきたことがそもそもの発端だったとしよう。そうだとしても、一番に責められるべきはアンネさんではないはずだというのに。
「子どもを望むことは間違いじゃなくても、無責任じゃないですか。お兄さんはあんまりご両親に似てるわけじゃありませんけど、アンネさんみたいにお母さんと瓜二つの子どもが生まれたら、その子が一生外に出られないことも分かってたはずです」
アンネさんが生まれてきたことは罪だろうか。それなら産んだ両親は? アンネさんにはお兄さんがいるという。何故、下の子だけがピンポイントで責められなければならないのだろうか。
アンネさんがアリアさんと瓜二つの顔で生まれてきたのが悪いとでもいうのだろうか。生まれたばかりの赤ん坊の顔に刃物を入れて、別人に作り変えることが正解だったと?
平静を装いながらも、ふつふつと自分の中で怒りが湧き上がるのを感じていた。
「何十年も家の中に閉じ込めて、健康上の問題が出ないとも限らない。もし先に親が亡くなったら、その後はどうするんです? 権利を主張するのは結構ですけど、そういう危険を考慮した上で産んだのなら、それはもう親の責任で──」
「そ……そのようなことはありません」
ヒートアップしかけた理論を、動揺を隠せていないアンネさんの声が遮った。それで少し、冷静になる。
それは俺の考えを変えるにはあまりに頼りなく、ほとんど肯定しているに等しい態度だった。
それでも言葉を止めたのは、単に止められたからというより、人生の半分近くを家の中で過ごしてきた彼の中に、小さな子どもの影を見たからだった。
親の言うことは絶対、親が世界で一番正しくて、親は絶対に間違えない。子どもから親に向けられる盲目的な信頼を、彼は今に至るまで、正す機会を失ってきたのだろう。
大人に見える彼は、実際のところ家の外に出てからまだ十年ほどしか経っていない。大人の所作や言葉遣いをどれだけ真似ても、ところどころ精神年齢が追いついていない部分があるように思えてならないのだ。
だから教えてやろう、などと言うつもりはない。餓鬼で結構。子どもというものは喧嘩をするものだ。そうして、勉強や周囲の真似事だけでは学べないことを学ぶのである。
少し時間を置いて、アンネさんの考えが少しまとまったであろうタイミングで、再び話を切り出す。
「『産まれてこなければよかった』って、『産んでほしくなかった』の裏返しじゃないですか。他責か自責かってだけで」
「……聖女にも……人として当たり前の幸せはあります。それが侵される理由などないのです」
「アンネさんはそれで一人ぼっちになったのに?」
「それは、私が言いつけを破ったから」
「勝手に産んだ親の都合で、子どもに無理な我慢させた結果じゃないですか。『家から出ないでね』ってだけの言いつけがいつまでも通用すると思ってたなんて見通しが甘すぎますし、子どもを舐めてます」
「決して、そのようなことは」
「いいですか!」
いつまでも両親を庇おうとするアンネさんを一喝し、これまで内心思っていたことを洗いざらいぶちまける。
「欲がないだか追い出しただか知りませんけど、正しいか正しくないかでしか物見られないなら、ちゃんと理屈で説明してくださいよ」
ウィルバートさんからも、ここまで直接的かつ乱暴な物言いで自分の状態を言い表されたことはないのだろう。呆気に取られた様子のアンネさんに向かって、オブラートを剥ぎ取ったありのままの表現を叩きつけた。
「大の大人の性欲と、小さい子どものわがまま! 我慢できなくて責められるのは子どもの方だって、本気で思ってるんですか!」
「せ……性欲」
「身も蓋もない言い方すればそうですよ! 愛だとかキスだとかで子どもができるなんておとぎ話、信じるほど子どもじゃないので! 入れた! 出した! できた! 完成!」
「礼央様、あの、その言い方はあまりにも」
「聖女でも何でも、この流れなしにできた赤ちゃんいませんよ! 愛以前に生殖行動の有無! やることやってなきゃできません!」
「礼央様……それはあまりに、上品ではない言い回しですので……おやめください」
蚊の鳴くような声で咎められ、先ほどまで応援団ばりの声量で叫び散らかしていた自分の言動が、唐突に恥ずかしくなってきた。何より親のこうした話は、子どもからすればいたたまれないだろう。
誤魔化すように咳払いを一つして、先ほどの何十分の一程度の声量で続ける。
「……とにかく、それのどこにアンネさんの責任があるんですかってことです。その一足飛び自責思考、いい加減にやめてくださいよ」
身も蓋もなければ歯に着せる衣もない。何やらとんでもないことをぶちまけた気がする。
だが、それだけずっと燻っていたのだ。ウィルバートさんの教会で、アンネさんから家族の話を聞いたときから、ずっと。
そんな馬鹿な話があってたまるかと、言ってやりたくて仕方がなかった。
それにしても、「自分を責めるより産んだ親に文句を言え」というためだけにここまで言う必要はなかった気もするが、言ってしまったものは仕方がないということにして片付ける。
「俺は彼女とか……好きな人とか、今のところいませんし、誰かとの子どもを望む気持ちはよく分かりません。考えなしに、それこそ性欲で適当にって人もいないわけじゃないでしょうけど、子どもを産んで育てるって、ものすごい覚悟がいることで、この人とならって思えるのも、すごいことじゃないですか」
夫婦の全てがそうあるとは限らないとはいえ、夫婦の間で交わされる契約というものは、いわば究極の信頼関係に近いものだと思っている。
目を向けた先にいる家族については、普通の家族よりもっとずっと難しい、それこそ奇跡にも近い条件を揃える必要があったはずなのだ。
「ご両親は、産んでからもずっと命懸けで、一つ間違えたら一家皆殺しなわけですから、本能だとかそういうものを捩じ伏せるくらい、重い覚悟が必要だったはずです。そこに間違いがあったなんて、俺は思えないんですよ」
仮にアンネさんが生まれたことに間違いがあったのだとしたら、彼の記憶から構成された目の前の家族は、とっくにその「機」を迎えていただろう。
今なおそれは訪れず、アンネさん自身も、それが来るとは思っていない。だからただ、幸せそうな家族を前に、振れない剣を握りしめていたのだろう。
アンネさんはきっと分かっている。受け入れ難いだけで、結論には辿り着いているのだ。どこにも間違いなどなかった、自分は望まれてこの世に生まれ、そして彼らは何かの罰でもなく、ただ理不尽に奪われただけだという、何の救いもない結論に。
怒ることも悲しむことも、受け止めることもできず、これはきっと何かの罰なのだと、自分に刃を突き立てているだけなのだ。
だから目の前にある幸せを受け入れられない。自分が生まれてきたことが間違いではなく、言いつけを破った責任も自分ではなく親にあると言われてしまえば、親を責められない彼は、気持ちの行き場を失ってしまう。
それを恐れるあまり、十年以上、自分が悪いと頭から信じ込むことで心を守ってきたのかもしれなかった。
お披露目パーティーで会ったグステル・エーレンベルクのように、家族を奪った者たちへの復讐を誓ってほしいわけではない。俺のように、行き場とタイミングを失った感情を持て余してほしいわけでもない。
ただ悔しかった。見ていて悲しかった。嫌だった。
だから俺は、ここで彼の考えを否定し続ける。
「アンネさんだって言ってたじゃないですか。『人としての当たり前の幸せ』があるって」
「それは……あくまで一般論で」
「だから、当たり前に幸せだったんですよ。……俺だって分かります!」
未だ食い下がるアンネさんに、思わず声を荒げた。記憶の中とあまりにかけ離れたアンネさんに、彼の家族が目を向けることはない。
それでも、あの家族が愛おしそうに眺めているのは、幼いながらも確かにアンネさんだった。
「あの人たち、うちの親と同じ顔してるんですから!」
向ける対象も、浮かべる人間も違えど、それでも確かに、目の前のそれはつい先ほど見た両親の眼差しと重なって見えた。
アンネさんの記憶と、俺の記憶を目の当たりにした今なら分かる。
俺たちは、確かに愛されていた。
たとえもう戻れなくても、会えなくても。無条件に注がれてきたそれらに、嘘はなかったのだと。
勝手に溢れた涙を、袖で乱暴に拭う。アンネさんからハンカチを差し出され、素直に受け取った。
もらった愛情も、祝福も、今は辛いばかりかもしれない。けれど、それを正しくないものとして片付けてしまうのは、あまりに悲しすぎる。
俺が少し落ち着く頃になって、アンネさんはうわごとのように呟いた。
「……そうですね」
そうして、続けて口にした言葉が、彼の記憶と重なって共鳴する。
『愛しい子』、『可愛い子』、『私たちの宝物』
何度も何度も、繰り返し言われてきたのだろう。音のない記憶の中で、あまりにもありきたりな言葉で彩られた、当たり前の愛情だけが鮮やかだ。
人の記憶の中で、最初に失われるのは声だという。十年以上経ってなお、彼が家族からもらった言葉をここまで鮮明に覚えていることが、受け取った愛情の証明だった。
「家の中で、十年余り……そう言われて過ごしたことを思い出しました。忘れていたわけでは、ないはずなのですが」
そこまで言って、アンネさんは家族のいる方へと向き直る。その横顔は、顔の横に垂らされた髪のせいで、よく見えない。
「……失うには、惜しい記憶ですね」
それでも、聞こえた声があまりに悲しげだったもので、そのまま何も言わず、暫しの沈黙が続いた。
どれくらいそうしていただろう。数少ない思い出が一周する頃になって、ようやくアンネさんは小さく息を吐いた。
名残惜しいかもしれないが、いつまでもここにいるわけにはいかない。タイミングを見計らって、そっと声をかけた。
「行きましょう。イツキさんたちが待ってます」
逸れないように手を繋いだ方がいいだろうかと手を差し出すと、アンネさんは明らかに何かを警戒したようにこちらを見つめる。
ここまでぶちまけておいて今さら何をと思ったが、なるほどこの状況を思えば、警戒するのも仕方のないことだろう。
「もしかして、俺も幻覚だと思ってます?」
「……あまりにも都合がいいもので」
「アンネさんに都合の悪いことなんて、言ったことないじゃないですか」
尋ねると、思いのほか素直に返してくれる。そのついでにとつい軽口を叩けば、アンネさんは記憶違いだというように首を傾げ、少し前のフレーズを蒸し返してきた。
「『入れた、出した、』……」
「忘れてください」
「衝撃的でしたので」
「入れた! 出した! できた! 完成!」
振り返ると、幻影の俺が恥ずかしげもなくあのフレーズを口にしていた。すかさず数歩踏み込み、顔面めがけて拳を叩き込むと、幻影は跡形もなく霧散する。
「忘れましたよね!」
「覚えております」
期待を込めて振り返るが、そこにはすっかり冷静さを取り戻したアンネさんがいるばかり。どうやら記憶の持ち主本人が触れない限りは無効らしい。その条件さえなければ、妖怪が嬉々として現れては記憶を食い荒らすはずなのだ。
安心したような、今このときだけは消えてほしかったような。何とも複雑な思いでいると、アンネさんが呆れた様子で釘を刺してくる。
「軽率な真似はおやめください。万一にも、礼央様に関する記憶そのものが消えては困ります」
「この世界の人全員が俺のこと忘れても、アンネさんは覚えてそうですけど」
「何を根拠におっしゃっているのですか」
「根拠っていうか……アンネさんなら気合いでどうにかしそうだなって」
「根拠になっておりません。おやめください」
改めて言い含められ、つい不満を露わにすると、アンネさんは仕方なさそうに笑いながら手を差し出してきた。
つい先ほどまで、俺が来なければ動けなかったくせに。内心文句を垂れながら、大人しく彼の手を取る。
「……アンネさんは本物みたいですね」
「ええ。生憎」
「幻じゃ困りますって」
そう言って、手を繋いだまま歩き出した。正しい方向は分からない。歩いている間に、他の人がいる場所の手がかりが現れると信じて歩き続けるほかなかった。
しばらく無言で歩き続けたのち、アンネさんが言いにくそうに口を開く。
「……礼央様」
「何も見てませんよ」
言いたいことは、何となく察しがついていた。
アンネさんは、最後の最後まで俺のことを幻影だと思い込んでいたようだ。俺に助けられるとは、夢にも思っていなかったせいかもしれない。
だから、ウィルバートさんがアンネさんを守るためについた嘘を、つい忘れてしまったのだろう。
俺からすれば、アンネさんが聖女の子どもか甥かということはさして重要ではないのだが、当事者からすればやはりそうではないはず。
聖女の子どもという存在は、男の聖女と並んで、一部の人間からすればかなり都合が悪い存在であることは間違いない。
アンネさん自身に生への執着があるようには見えないため、どちらかといえば亡き家族が必死に守った秘密だからという理由が強いと当たりをつけた。もしくはウィルバートさんからの言いつけだろうか。後者かもしれない。
何にせよ、ここで目にしたものたちは、俺にとってはどうでもいいことで、誰かに言いふらすつもりもない事実だ。
そのことの証明として、決定打に欠ける弱みを一つ、握らせておくことにした。
「そういうことにしておくので、俺が泣いたのも黙っててくださいね」
もっとも、アンネさんの前で泣いたことは一度や二度ではないのだが、彼は何も言わず、握った手を少しだけ強めて返事とした。
どこまでも広がる霧の果てから、喧騒が聞こえている。ようやく訪れた変化に向かって、俺たちは足並みを揃えて進み続けた。
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