138話「魔女の庭」
夢の中で、目が覚めた。
妙な状況だと思う。目を覚ましたら、夢でしかありえない場所にいたなどと。
「おはよう。遅刻するんじゃないかと思ってたよ」
「夜更かしでもしてたの? 早くご飯食べなさい」
家の食卓に、両親がいる。
懐かしさと安堵に、息が詰まった。やはり、これまでずっと夢を見ていたのだ。異世界に飛ばされ、聖女になれと言われたり、魔法を使ったり、個性豊かな人たちと関わったりする、ファンタジックな長い夢を。
身一つであの世界に呼ばれた俺にとって、故郷との繋がりは着ていた服と記憶のみだった。
夢ならば覚めてくれと願うたび、そこが現実であることを突きつけられて絶望する。
そうして故郷や家族、友達との思い出を振り返っては、願いが叶わないことの痛みと引き換えに、少しの安寧を得るのだ。
「ちょっと、疲れてるのかも。最近……大変だったから」
不自然なテンポになっていることを自覚しつつ、どこかぎこちなくそう返す。
敬語を使わず話す相手というのは、ずいぶん減ってしまった。放り出された異世界には、俺にとって家族や友達ほど親しい相手など誰一人おらず、知らない人への礼儀が半分、異世界に馴染んでやるものかという思いが半分で、半ば意地で敬語を使っていたように思う。
敬語というものは、他者への礼儀のほかに、コミュニケーションにおいて一定の距離感を示すものでもあると、理解していたからだ。
俺が敬語を使うことのない一部の例外は、俺自身と対等であろうとしてくれた相手への敬意を示す意味合いが強い。特別な距離感を許してしまうほど、そのような存在は俺にとって特別だったのだ。
異世界でできた、初めての友達。良やもっちゃんとは、やはり違っていたけれど、それでも確かに大切だった。
その友達に、心の中で「ごめん」と告げる。彼女は、周囲にそうと悟らせないだけで、きっと悲しむだろう。俺がシノノメに行ったきり帰ってこない、もしくは死体となって見つかったという記憶は、彼女に暗い影を落とすであろうことは想像がついた。
分かっていたのだ。先ほどからずっと、肩掛けカバンに収まった卵が、熱を発している。感覚があるということは、ここは夢ではなく現実なのだと。
今からどれくらい前だったか。俺たちはユーデルヤードから数日かけてシノノメに到着し、シオンさんの家に向かう途中だった。
日本と文化の近いシノノメならば、家も日本家屋に近いのだろうか。父の実家を思い起こさせるようなものだとしたら、あまり気が休まらないかもしれない──などと、そんなことを考えた辺りから、記憶が曖昧だった。ある時点からは完全に記憶が抜け落ちている。
明らかに不自然で、なおかつ今見ている光景も、考えるまでもなくおかしかった。突然、元の世界に戻ることができたのなら、両親のこの反応はどう考えても不自然だ。つまるところ、目の前のこれはよくできた幻影なのだった。
いつの間にか手のひらに刻まれていた字は、恐らく少し前の自分が影属性魔法で描いたもの。だが、これを書いたときの状況も、よく思い出すことができなかった。
『霧が出たら引き返せ』
『ここに家族はいない』
「疲れも出やすい時期だし、少し休んでもいいのよ」
心配げな母の声で顔を上げ、手のひらの文字を視界から外す。そうして、何事もなかったかのように応じた。
「いや、いいって。体調悪いわけでもないのに……怠け癖がつくかも」
「それは本来、親が言うことなんだけどね」
「嫌なことからすぐに逃げることと、長く続けるために計画的な休息を取ることは違うものよ」
「大学でも、この時期から休みがちになる学生は多い。罰を与えるのは簡単だけど、程よいやり過ごし方を教えるのも、大人の役目だからね」
このやり取りには、覚えがある。こちらの世界に来たのは、高校入学から二ヶ月ほどが経った辺りだった。
大学で教鞭を執っている両親にとって、この時期の疲れというのは馴染みがあるもののようで、叱るでもなく、程よくやり過ごすのも手だと教えてくれた。どの程度ならば巻き返せるのか、それを試せるのも学生時代の強みだからと。
すっかり慣れた手つきで箸を扱いながら、母が決まり文句を付け加える。
「でも、どんなときでもご飯は食べなきゃダメよ。朝ご飯はしっかり食べなさい」
「それで遅れそうになったら、送っていってくれる?」
「ダメよ。遅刻しないように食べなさい。時間管理は大事なの」
「え〜、急いでるのに……」
文句を垂れながら、つい泣きそうになった。懐かしい。こうだった。家族に対して、当たり前に甘えられる感覚。
アンネさんに対する甘えとも少し似ている気がしたが、彼の場合は聖女の役割に由来している部分が大きく、家族に対するそれとはやはり違っていた。
どこにもいない。もう会えない。
それが分かっていて、どうして抗う理由があるだろう。
死ぬまでこの幻影の中に囚われたとして、何も困ることなどない。少しだけ、残していく人たちが気がかりと言うだけだ。
帰れないのなら、せめて最期のひとときくらい、たとえ幻影だとしても家族といたい。そう思うことは悪だろうか。それを咎める資格を持つ者が、この世界のどこにいるというのだろう。
「ほら、冷めないうちに食べなさい」
「はーい」
こちらの世界ではしたことのない、間延びした返事と共に、食卓へ足を進めた。食卓にあるライトウッドの椅子は、俺が生まれたときからずっとあるものだ。明るい緑色の座面を気に入った父が、引っ越しのときに買ったのだったか、などと思い起こしていると、不意にシオンさんの声が蘇った。
『その妖怪は、懐かしい思い出ややり直したい出来事の記憶で他者を惑わす。獣を相手に少しずつならばいいが、力をつければ人や妖怪をも騙すじゃろうな』
振り返ると、そこにはシオンさんがいる。これも幻影かと背を向け、椅子を引いたそのとき、背後から恐ろしげな言葉が追いかけてきた。
『もし目の前にあるそれが失い難い記憶ならば、用心することじゃ。記憶に触れる、或いは触れられてしまえば──そこから記憶を食われるぞ』
煙のように、消える椅子。見れば、食卓から椅子はすっかり消えていて、両親も、椅子型のもやに腰を下ろしていた。
「ご飯は食べられそう?」
椅子が、あった。瞬きする直前まで。
それがどんな色で、どんな形で、いつ買ったのか、何故買ったのか。何一つ思い出せなかった。この、たった一瞬のうちに。
見栄えの悪い刺青のような手のひらの文字は、直視したくない、しかし万一の状況下、俺の頭を強く殴りつけるであろう事実。
仮にこの幻影が、食虫植物のように少しずつ俺の生命力を吸い取るものだったとしたら、少し前の俺は、手のひらの文字を残しはしなかっただろう。そうではない、もっと恐ろしい結末が待ち受けているから、俺はこの文字を刻んだのだ。忘れるなと、過去の俺が警鐘を鳴らしている。
手足が強張り、血の気が引いた。消えた椅子から、彷徨うように手を離す。そうして一歩後退り、やはりぎこちなく朝食を辞した。
「いや、俺……今日はご飯、いいや。早く出ないといけなくて」
「もう、寝坊するからでしょ」
「おにぎりだけでも持っていきなさい。途中でお腹が空くだろうから。すぐ作るよ」
「そうね、お弁当は持った?」
「うん、持った。おにぎりは大丈夫。ありがとう。あと、夕飯もいらない。帰り、遅くなるから」
気を抜くと、途切れ途切れの言葉は嗚咽となって、そのまま何も言えなくなってしまいそうだった。
ずっとこのまま、ここにいられたらどんなに幸せだろう。異世界に来るまで、当たり前に続くと思って疑わなかった日常。俺が俺であるというだけで、当然のように注がれる愛情を受けて生きられたら、それでいい。
だが、今ここでそれを受け入れた先にあるのは、元の世界の記憶を全て失った、俺ではない何か。それは俺にとって、死よりもずっと恐ろしいことのように思えていた。
「迎えに行こうか。何時くらいになりそうかを連絡してくれれば、そのくらいに向かうよ」
「分かった。出る頃に連絡する」
「気を付けてね。あんまり遅くならないように」
「うん。分かってる」
名残惜しい日常をなぞるように、一つ一つ言葉を交わし、ゆっくりと覚悟を決めた。
相手は幻影、立ちはだかるのは変えようのない現実。俺はまた故郷の記憶を頼りに生きていかなければならないのだ。
だとしても、ここでしか言えないこともある。
「……いってきます」
あの日、言えなかった言葉を残して、両腕に抱き込んだ卵と共に駆け出した。いってらっしゃいを聞いてしまったら、もう走れなくなる気がして、扉に体当たりをして突き抜けた勢いのまま、必死に霧の中を走る。
道中、様々な人の声を聞いた。どれも懐かしく、遠い日々と共に思い出になった人たちの声。
「宇佐神、次の移動教室どこだか分かるか? バーカ、徹夜で勉強してたんだよ。嘘じゃねぇって」
「あ、うさくん。さっき生徒指導が呼んでたよ。あの先生、あと二十分で会議だから、今いけば最低限で済むかもね」
「礼央〜、コンビニ行くんでしょ? ついでサラダ買ってきなさいよ。いいでしょ、社会人は忙しいの」
「礼央、お菓子あげる。この前のチョコケーキ、もう一回作って。材料? 今あげたやつ」
「ノックしろって言ってんでしょ! 勝手に入んな! 百回叩けよバカ礼央! 返事!」
「礼央さん、お墓参りに出ますよ。支度をなさい」
「レオ〜、コンニチハ。オジイチャン、ダヨ」
「ゲンキ? オカシ、オミヤゲ。アゲルネ」
良、もっちゃん、姉たち、しばらく会っていない祖父母の声まで。そのどれにも答えられなかった。何一つ渡したくなかった。
もしここで元の世界の記憶を全て食われたら、宇佐神礼央が死ぬ。
得体の知れない恐怖に突き動かされながら、霧の中を夢中で足を動かす。
聞きたい声は一つだけ。その声に向かって、ただ走った。
何が本物で、何が偽物かさえも分からなくなる霧の中、触れても消えない卵の熱だけが本物だと、そう信じて。




